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所詮、キレイごと…

哲学のカテゴリーかもしれませんが…自分が苦難に遭った際に「神はそれ(苦難や試練)を乗り越えられる者にしか与えない」と、よく聞きますが…例えば仕事や、病気などの悩みで自殺された方たち、不慮の事故で亡くなった方たちの場合は、一体どう説明できるのでしょうか?とんでもない質問ですみません。何か、お答え頂ければ幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.10

> 「…納得させて頂けるものでしょうか?」 質問された方が疑問に思っている点を、牧師や神父に率直に聞かれてみてはいかがでしょうか。これらの人も、質問された方にとって納得のいくこたえをもたないのかもしれませんが、それぞれが知る限り誠実に質問にこたえてくれるように私は思います。 ところで、聖書には以下のような箇所があることを紹介したいと思います。 旧約聖書「詩篇」121章1、2節: 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。  わたしの助けはどこから来るのか。  わたしの助けは来る  天地を造られた主のもとから。」 新約聖書「マタイによる福音書」11章28-30節(イエスの言葉): 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 (日本聖書教会発行 新共同約聖書より) なにかありましたら、また質問を書いてみてください。

giraffe-elephant
質問者

お礼

突き詰めて考えていくと、きりがありませんね…今度の休みに教会に行き、牧師さんとお話できればと思っております。再度のアドバイスに感謝致します。ありがとうございました。

その他の回答 (9)

  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.9

これも私自身の考え方ですが 私たちはのからだは服と同じようなもの、必ず死にそして消えていくもの、しかし心は天国という場所で生かすことが出来る。そしてまた天国であえる。だから悲しまない。あくまでも自分の人生を一生懸命悔いなく生き、そして天国というゴールに行けばいい 楽しい天国に暮らせることを夢見ながらがんばりましょうね。 矛盾という言葉はむつかしいね。それぞれの人生の計画があり、それをぶち壊された事を考えるのと、 神様がいるから今がんばっていこう!と考えるのと どちらか建設的でしょうかね? 私も阪神大震災で家庭がなくなり一人ですね。 giraffe-elephantさんも祈ってあげてくださいね

giraffe-elephant
質問者

お礼

突き詰めて考えていくときりがありませんね…今度の休みの日に教会に行ってみたいと思います。再度のアドバイスに感謝致します、ありがとうございました。

  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.8

私、個人の考えです 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない 上は聖書の言葉からです。 私たちは不慮の事故を見てかわいそう、という考えを持ちます。しかし、死んで天国に行くことで死に様は関係ありません。 死に方は色々あっても父、キリストの許しがあってこそ死ぬことが出来ると、私自身思っています。 (ただ自殺に関しては良い、悪いともいえません。)

giraffe-elephant
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。そもそもキリストとは何者か…不慮の事故で、亡くなった方々の夢や希望や残された家族などの想い…それらを差し置いてでも死に至らせる神の想いとは何でしょうか?神にも矛盾は存在するのですか?

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.7

>「死に至る突然の事故や、自殺について…」 質問された方が抱えておられる問題がわからないので、ご質問の趣旨がいまひとつわからないのですが、私は以下の箇所のことを考えました。 新約聖書の「ヨハネによる福音書」11章に、「ラザロ」という人が病気になり間もなく死に、その姉や他の人たちが泣き悲しんでいる場面があります。(ところで「~による福音書」という部分には、イエスキリストの生涯が書かれているのですが)この場面で、イエスは涙を流した、とあります。「三位一体」を信じるキリスト教では(カトリックや多くのプロテスタントの教派)、イエスは神であるので、私はこのことから、また、他の新約聖書、旧約聖書の記述から、神は人の突然の死やその苦難に対してけして無情、無関心ではないと考えます。 ところで旧約聖書に「ヨブ記」という箇所があります。「ヨブ」という人のうえに次々と大きな不幸が起こり、そのことについてヨブが、ヨブの妻、ヨブの友人達、そして最後に神と対話します。この話はそれほど短くない上に、理解するのが難しいので、私には要約しようもありませんでした。 掲示板で質問、回答できることが限られているので、さらに具体的なご質問をお持ちであれば、お近くのキリスト教会に立ち寄られて牧師や神父に質問されてはいかがでしょうか。教会はなかなか入りづらい場所ですが、これらの人たちの多くは不意の来客にも慣れていると思います。知り合いのクリスチャンがいる場合、その人に教会を紹介してもらうと行きやすいかもしれません。 わかりにくいところがあったら「補足要求」を書いてください。

giraffe-elephant
質問者

お礼

再度、ご丁寧なアドバイスありがとうございます。家の近くに教会はあります。牧師さんや、神父さんは私が抱えている疑問を、矛盾無く応えて頂けるものでしょうか?納得させて頂けるものでしょうか?私は、自分自身の全てに行き詰っており、何かに縋りたい気持ちで一杯なのですが…その何かが完全に間違いなく、信頼できるものでありたいのです。

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.6

「神は…」という引用は、新約聖書の「コリントの信徒への手紙一 10章13節」に書いてあることかと思います。 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」日本聖書協会発行 新共同訳聖書より これは「パウロ」という人が「コリント」という土地にある教会に送った手紙の一部ですが、この前後の文脈を見ることで、私はこの箇所だけを読むのとはすこし違う理解をもちました。(参考URLのサイトで、新約聖書「コリント人への第一の手紙」をクリックし、次にページ上部から「10」を選ぶことで、以上の箇所を含む10章を読むことができます)。例えば、病気や仕事での困難な状況は、それ自体、毎日を生きていく上での試練ですが、この箇所で問題になっているのは、そのような困難の中で神に対する信頼が揺らぐこと、ではないかと私は思います。 困難な状況のなかでも、神を信頼することで励まされている人たちを私は知っています。私もそのように生きていけたらと思います。 ご質問に対する直接の回答ではないのですが、考えたことを書かせていただきました。

参考URL:
http://www.kidok.info/BIBLE/cgi/biblevlist.php?VR=6&FR=H
giraffe-elephant
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。とても参考になりました!私がよく聞いていた言葉に関しての、このような内容のことを知りたかったのです。ただ、新約聖書にも死に至る突然の事故や、自殺についての話はないものでしょうか?

  • bantoh
  • ベストアンサー率50% (98/194)
回答No.5

 神の有る無しは,遙か数千年前からずーーーーっと論じられてきたテーマですから,私ごときが「神は存在しない」と断じることはできません。  ただ,宗教で言われている神は結局,教義を作り上げた人たちが理想とする神を描いているに過ぎないので,キリスト教・ユダヤ教・イスラム教などの1神教に描かれている神も,仏教・神道・ヒンドゥー教などに描かれている神も,自然現象や自然の摂理に理由付けをし,そこに絶対的で意志のある存在を与えることで「ハク」を付けているだけの存在でしかない,と私は思います。  宗教論争や宗教に基づいた戦争は,私には単に自分達の主張を押しつけ合うだけのガキの争いにしか見えません。特に1神教は他の神の存在を許しませんから,それを信ずる限り争いが絶えないのは当然のことです。  ただ,宗教に存在意義がないか,というと,人々に道徳心を強く植え付けるためには非常に有効です。  なにせ,逆らったら絶対的な神によって永遠の罰を下されるが,教えに従えば未来永劫に癒される,というのですから,信じてしまえば安心して道徳的な生活を送れます。  人間は,生きていく上で癒されない苦しみを味わうと,その苦しみから逃げるための方法として,死・逃避・神による救済などを求めてしまうものなのだと思います。その時に出会ったものが,たとえ金儲けのためのまがいものであっても,その人の心が癒されればそれで良いのかもしれません。

giraffe-elephant
質問者

お礼

ありがとうございます。じっくり読ませて頂きました。確かに、今の私はどんな者であれ、神という存在に縋りたいのだと思います。

回答No.4

あえて言うなら「寿命」としかないような。 自ら命を断った人と、不可抗力の不慮の事故や病気で亡くなった人とは、一緒には語れないかな。 試練を与えられた場合、それをどう受け止めるかというお話ならばまた別な気がしますけどね。

giraffe-elephant
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。死にまで行き着くような苦難や試練とは?神の存在とは?何故、命があるのかさえ、疑問に思えてくるのです…。

  • bantoh
  • ベストアンサー率50% (98/194)
回答No.3

 キリスト教では自殺は最大の罪ですから,一切赦されることはありません。他の人は生前の行いによって行き先が決まります。つまり,突然死んでしまった人は,死語その苦難が報われることになります。  というか,宗教って,しょせん「宗教者」が与える道徳観や教義を「神」(という目に見えないけど有りそうな気がする存在)を持ち出してハクを付けているだけですから,今生きている人にその道徳観や教義,安心感を伝えられれば良いので,急に死んだ人まで面倒見る必要ないんじゃないでしょうか。

giraffe-elephant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。やはり、神とは人間が想像したものに過ぎないのでしょうか?最近、とても神にすがりたい気持ちだったもので…。

  • madeof3
  • ベストアンサー率7% (1/13)
回答No.2

なくなった方々には大変申し訳ない言葉ですが、淘汰されたということでしょうか。 「神が」「与える」ものといったら、「生」か「幸」だと思いますから。 >「神はそれ(苦難や試練)を乗り越えられる者にしか与えない」 私にはこれは、苦難や試練を乗り越えられない者には生きる資格を与えない、としか解釈できません。 ある信教の一教義なら、もっと希望を持たせるようなものでも良さそうなのですがねえ。

giraffe-elephant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。私自身、最近色々ありまして…この言葉を聞いた際、そうか、これはある意味神様からの恵みなんだ!と感じたのですが…その矢先、先日の脱線事故などのニュースに、疑問を持ち始めたのです。では、死は誰が与えるものなのでしょうか?どんな宗教でも、何かこの疑問を解ける言葉が欲しかったのです。

  • yetinmeyi
  • ベストアンサー率21% (761/3595)
回答No.1

この世に不要なものはない。 とするならば、人間が進化を遂げる上で必要なものだと思います。

giraffe-elephant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。人間が進化を遂げる上で、試練や苦難は付き物だという解釈で宜しいのでしょうか?

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