浄土真宗の門徒さんであることと、節談説教が好きな事と、ご質問は関係が無いようですが・・・・
ご質問の有名なお坊さんとは、
晩年を共にした盲目の森女に、「死にとうない」と言った室町時代の臨済宗の僧・一休禅師のことではないでしょうか?
ちなみに、No.1でご回答のshibako74さんが私ども浄土真宗のご開山・親鸞聖人もといっているのは、死にたくないという意味ではありません。
歎異抄九章に
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(と)おもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。・・・」とありますが、現代語にしますと、
「念仏を申していますが、天におどり地におどるほどの喜びの心が湧いてきませんし、またはやく浄土へまいりたいと思う心も起こってこないのはどういうわけでしょうか」とおたずね申しあげたところ、聖人は、「親鸞も同じように思っていたが、唯円房、そなたも同じ心であったか。よくよく考えてみると、天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、いよいよ往生は間違いないと思います。というのは、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばせないのが煩悩のしわざです。ところが阿弥陀仏は、このような私であることを前もってお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫であるとおおせられて、このような煩悩具足の凡夫である私たちを救うために大慈大悲心よりおこされたご本願ですから、ご本願の目当てがこのわたしどものためであったと気づかされて、一層たのもしく思われます。」の意です。誤解の無いように。
お礼
shibako74さん、再度の書き込みありがとうございます。 誰にも誤解はつき物です。 私も、完全に誤解は無いとは言い切れませんので、余りお気にされないようにお願いします。 お気づきの点がありましたら、ご回答をお寄せください。お待ちしております。