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食物連鎖における残酷さの定義
倫理的な質問かもしれまんが 人間は豚や牛を殺して食べます。 中国ではサルも生きたまま食べます。 また少し前には人間自体食べていました。 まあどれにしても食べられるほうはいい迷惑だとおもいますが、一般的な感覚として、なぜサルを食べるのは残酷で牛は残酷でないのでしょう? 鯨を食べる問題も同じです。 どこで線引きしているのでしょう? どても不条理に感じます。 私はこの疑問から牛肉など一時食べれませんでした。 逆に焼肉をおいしくいただくにはどう解釈したらよいのでしょうか。
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食物連鎖とは、種族を発展させるために強者が弱者を食べ、食べた後排泄した物を微生物が食べる自然の法則です。 その連鎖を残酷と思うのは現在の人類、それも食べることに余裕のある一部でしょう。中国はいす以外の四足を食べるといいますが、飢饉対策で何でも食べなければ生きてゆけないことが根幹にあります。世界中同じでした。(今も人類の半分は飢饉に直面しています) 何を食べてよく、何を食べるのが残酷なんて思うのは思い上がりの自己満足としか思えません。それだけ余裕があるから言える事です。 食べ物は命のある動植物を殺して作るものですから、偏食も贅沢なわがままでしょう。 しかし、現在動植物の種族絶滅を救うという面から見ると小数種族は大切にすることも必要です。種族が絶滅することも自然ではありますが、現在は人類の横暴により絶滅することを止めるように思えるほど文明的になったと思うことはできます。 ただ、グリーンピースや捕鯨の問題は偏った考えで人の意見を聞かないことが問題と思います。 生きてゆくために食べることは必要ですから、普通の食事は食べられることに感謝(食べ物となってくれた動植物の命と、食べ物や料理を作ってくれた人たちに)して偏食しないことが大切と思います。 それとせっかく食べるのなら「おいしい!」と思う気持ちも感謝の気持ちにつながるのではないでしょうか。 我々も生きてゆくことが生命を持って誕生したものの義務でしょうから食べることは必要です。食べ物になってくれた動植物のためにもおいしく食べて、長生きしたらよいのではないでしょうか。
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- chairwarmer
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#3です。 >一般的な感覚というのは、人に聞いても牛は食べられるけどサルは食べられないと言う人がほとんどだからです。 だからそれは、denzaさんの周囲の 「牛は食べた事があるがサルは食べた事がない」 「牛を食べる習慣はあるが、サルを食べる習慣はない」 ような人達に聞いたからでしょ?ならばその返答は当然です。 熱帯には、巨大なイモムシを“最高のごちそう”として食す人々もいます。 食文化の違い、ありていに言ってしまえば 「単なる好き嫌い」 結局はそれだけの事なんです。 #4さんのおっしゃる通り「贅沢なわがまま」なんでしょうね。 でも選択肢があるのだからそれでいいと思いますよ。 感謝して食事を頂くのは大前提として、納豆が嫌いなら食べなきゃいい ただし、納豆を好んで食べている人を偏見の目で見たり 「そんなものを食べるなんて信じられない」なんて 自分の好みを押し付けたりはしない方がいい。 それと同じなだけでしょう。
- chairwarmer
- ベストアンサー率41% (163/393)
ん?? 「サルを食べるのは残酷で牛は残酷でない」というのが 「一般的な感覚」だなどと誰が決めたのですか? 「denzaさんの中ではそう感じる、denzaさんはそう考えている」 というだけではないですか? 実際にサルを食べる地域の人々は、サルを食べるのが残酷だなどと感じてはいないでしょう。 物心ついた頃から食料として扱われており 「食べるのはごく普通の事」だったというだけです。 日本食になじみのない外国の方に言わせれば 「生の魚を食べるなんて信じられない」なんて意見もありますし ヒンズー教徒の人にとっては牛を食べるなど考えられるはずがありません。 車にはねられた子犬は「かわいそう」で 和牛ヒレステーキ:1800円は「おいしそう」 食文化とそれによりつちかわれてきた価値観の違いがあるだけ 常習的に食してきて「食べ物」だと認識しているか 食す文化がなくて「食べ物ではない生き物」だと認識しているかの違いです。
お礼
一般的な感覚というのは、人に聞いても牛は食べられるけどサルは食べられないと言う人がほとんどだからです。 人間の勝手な認識の違いですね。やはり。 なんと身勝手な生き物なのでしょう。 ありがとうございます。
食物連鎖という言葉のように、その頂点に立つ人間は他の生物を殺して食べますから、大変罪深い事です。 ベジタリアンといって肉を食べない方がいますが、植物も生物ですし、蟻もゴキブリも細菌もバクテリアも皆生物に違いはありません。 鯨を殺す事を残酷という方が、アザラシを棍棒で殴り殺す事は漁業資源の保護といって容認するのも不条理です。 生きていくために他の生物を犠牲にする事は宿命ですから、犠牲になった生物に感謝しつつ食事をとることがよいと考えます。 日本ではサルや犬を食べませんが、だからといって他国の食習慣を批判する事は出来ませんし、人が人を喰うのも勇敢に戦って死んだ敵の戦士を食べて、その勇気にあやかろうという宗教儀式ですから、これも非難は出来ません。 昔はギリシアや中国、古代アメリカでも生きた人間を殺して神への生贄にしましたから、これは同様に宗教儀式なんです。 さすがに文明国では同族を喰うのは許されませんが、時々遭難者が亡くなった方の死体を食べて命をつないだという記事を見ると、私には是非が分からなくなります。 いずれにせよ、牛も野菜も同じ命あるものですから、命をいただいて自分が生きると感謝して食べるのがよろしいかと。
お礼
私にも是非はわかりません。 やはり感謝しかないですね。 でもこの問題を考えていると気持ち悪くなってきました。 ありがとうございます
- sinnkyuusi
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食用獣としての歴史的な問題が大きいのではないでしょうか。 日本でも牛や豚を食するのは野蛮だと批評された時代がありましたし、捕鯨に反対しているのは鯨を食物とした過去がない国々である事がほとんどです。 猿や犬を食する文化が脈々と伝わっている国もありますが、それらを食する文化のなかった国々からみれば肯定しがたい文化に映るでしょう。 人間には行きながらにして背負った罪があります。 仏教ではこれを『業(ごう)』といいますが、生きていくために動植物の類を問わず他の命を頂く事は、人間として生きるためには致し方ない罪なのです。 感謝の気持ちを持って「食」という欲求を追及する事が唯一、おいしく頂くための条件ではないでしょうか。
お礼
そうですね。感謝ですよね。 業とかはよくわかりませんが。 ありがとうございます。
お礼
>何を食べてよく、何を食べるのが残酷なんて思うのは思い上がりの自己満足としか思えません。それだけ余裕があるから言える事です。 私にとって新たな見方です。参考になります。 昔の衣食足りてのことわざと少しかぶりますね。 なんとなく納得できました。 人間側の勝手な都合には違いないけど。