もし韓国や中国が、日本の一部だったら、教科書について、彼らが問題にするのは「意味のあること」です。しかし、実際に日本は、韓国でも、中国でもないのです。
教科書に何が書いてあるから問題であるのではなく、そのような行為(教科書を書き換えさせようと本気で圧力を掛けようとすること)によって、問題が解決してきた(かに見えた)これまでのやり方がおかしいのです。
何かと言うと「友好第一」です。しかし、歴史の記述というものは、真実の記述の羅列がまず第一義的に考えられるべきで、日本にとって、韓国にとって、中国にとって、不都合好都合などは、二の次の話です。表面的な友好欲しさに修正に応じてきたこれまでの姿勢は、誤りです。
旧日本軍が残虐行為をしたなら、そのように書く、それだけの話ですよ。
何を記述し何を書かないかは、著者の研究者としての良心により、何を採用するかは、現場の教育者の良心により、決定されれば良いのです。
批判や反対、反論は自由です。ただし、相手にも、自分と同じ権利を認めないような議論は、議論とは言いません。
では、結論を。
(1)何が書いてあるから問題だと言う問題の捉え方は間違い。
(2)友好の前に歴史的事実有り。
(3)もし今回他国の言い分を入れても、いずれ同じ問題は出てくる。
(4)あんな教科書はおかしいと、言うこと自体に、何の問題もない。
(5)言われた方も、信念に基づき、応ずべきは応じ、拒否すべきは拒否すべし。
(6)一般の人も、「歴史」に関心をもって、自分なりに、「採用」しよう。権威の言うことの丸呑みは危険。
(7)教科書問題で傷つくような友好は、真の友好に非ず。
お礼
皆さん、様々なご意見、お答えどうもありがとうございます。 こんなにも複雑な問題だとは思ってもいませんでした。 確かに考えてみれば人に物を伝える時は自分に都合の良いように話を変えるのが人の性かもしれません。 政治的な圧力や一部の人の権力に屈せずに、真実を伝えられるようにしっかりと勉強をしなければいけないと感じました。