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戸隠について
古事記の天岩戸開き神話では、長野の戸隠が出て来ますが、西暦700年のような昔に、既に中央である近畿地方まで、何故、戸隠が知られていたのでしょうか?
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古代大和政権の勢力範囲は、前方後円墳で推測することができます。大和政権は豪族に「前方後円墳を作っていいよ」というのを権威として使っていたと思われるからです。 ではその前方後円墳はどのくらい分布していたかというと、以下のようになります。 https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2019-02-26 時代によって勢力範囲は伸びたり縮んだりしたと思いますが、その権威は南は鹿児島県から北は岩手・山形にまで及んでいたことになります。大和政権の権威って、結構な全国規模なんですよ。秋田・岩手以北と高知に前方後円墳がないというのが非常に分かりやすいですよね。 意外にも、関東地方に前方後円墳は多いんですよ。とりわけ多いのが群馬・栃木・茨城・千葉です。古代の関東へのメインルートは、今の中山道です。東海道はおそらく古代はほとんど未整備だったと思います。箱根が険しいですからね。岐阜から諏訪に入り、そこから軽井沢に行って碓氷峠を越えて今の前橋に至り、そこから栃木を通って白河の関に向かうのが古代から中世にかけてのメインストリートです。 なので北信濃地方も関東・東北への街道に隣接する地域となります。 古代日本においては、諏訪と新潟というのは非常に重要な「南北の交易路」になります。 諏訪地方の和田峠や隣接する霧ケ峰地域は、日本最大級の黒曜石の産地です。ここで発掘された黒曜石はなんと、シベリアの遺跡からも見つかっています。なので諏訪地方はおそらく旧石器時代から人が住んでいたと思われます。諏訪から上田に行ってそこから千曲川沿いに新潟県に至れますし、新潟県に出れば日本海交易の場になります。また新潟県から西に折れて糸魚川に至ると、そこは古代日本における最も重要な鉱石である翡翠の産地になります。縄文時代から翡翠は宝石として貴ばれていましたから、糸魚川から諏訪に至る南北のルートというのは翡翠と黒曜石の交易ルートとして少なくとも縄文時代から繫栄していたものと思われます。 なので諏訪大社は、日本最古級の神社のひとつといわれています。諏訪から甲府盆地にかけては縄文遺跡が沢山あるので、この地域は縄文時代は日本で最も繁栄していた地域のひとつであったことは間違いありません。諏訪大社のルーツは、縄文時代まで遡れる可能性があります。そのくらいの古えから原初的な信仰があったと考えるのが自然だろうと思います。 平安中期の927年に書かれた「延喜式」は現在伝わる中で最古の神社に関する「大和朝廷公式記録」になります。 この延喜式の中で大和朝廷と非常に関係が深いとされる「神宮」の格式で記載されている神社は三か所あります。 それが、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮です。 伊勢神宮は三種の神器のひとつである八咫鏡があるとされていて、天照大神を祀っているのだから格式が高いのは当然といえ、同じくらいの格式とされているのが、茨城県にある鹿島神宮と、その隣にある香取神宮なのです。なお、平安時代以前はそこは霞ヶ浦に繋がる汽水域だったといわれています。海のこっち側とあっち側にあったと思われるんですね。鹿島神宮と香取神宮も、いつ建立されたか分からないくらい古い神社です。 なぜ鹿島神宮と香取神宮が平安大和朝廷の中でも格式が高く扱われていたのかは、全くの謎です。 また邪馬台国の場所として最も有力視されている奈良県の纏向遺跡からは、非常に広い範囲の土器が出土しています。東海地方で作られた土器や北陸地方で作られた土器、中には南関東で作られた土器まで出土しています。 そんなこんなを考えると、古代大和政権というのは質問者さんの想像以上にあまねく全国に及んでいるといっていいのではないかなと思います。 そんでここまで書いて思い出したんですけど、埼玉県の「さきたま古墳群」から出土した鉄剣に「ワカタケル大王」の名前が刻まれていたので、ワカタケル大王こと雄略天皇は実在が確実視されている最古の天皇となっています。その剣に刻まれた年号は471年なので、5世紀には大和朝廷の権威は埼玉県に及んでいたことになります。剣の持ち主はワカタケル大王の近衛隊長をしていたことを誇らしげに剣に刻んでいます。
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下記のウィキペディアも、戸隠観光協会も見ると、戸隠神社の創建は「西暦の紀元前210年ころ」だから今から2,200年以上前となり、「戸隠神社のほうが昔です。 また、下記のどっちのサイトにも、質問の西暦700年ころには、戸隠神社と、近畿地方の朝廷や天皇とも交流があったいう記載があります。 戸隠神社 (ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE 戸隠神社 (戸隠観光協会) https://togakushi-21.jp/spot/346/ --- 天岩戸開き神話での、扉の岩戸を投げた先が、戸隠だというのは、私個人の考えは「戸隠」からの、結びつけたか、こじつけだと思います。 数年まえに、「天岩戸」の地元から、岩戸を返してという話が有ったとか・・・・・ それに対して「戸隠」のほうは、何もせずに「対応」しなかったらしい。 私としては、「返すから、取りに来て」と返事をすれば、「天岩戸」の地元はどのように対応するか面白かったのにね。 また、それはそれで神話がさらに膨らんで、話題になったり、知名度が上がったり、戸隠神社の参拝・観光客も増えるかもしれなかったのにな~~ととか、戸隠ソバ(ボッチ盛り)も、もっと有名になるのにと思ったり・・・・。 戸隠神社 https://www.google.com/search?sca_esv=4f1fedc273307033&sca_upv=1&sxsrf=ADLYWILSdl17rLalq-rWpbYGvuP7u85Dsg:1718805526673&q=%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE&udm=2&fbs=AEQNm0BqbPbAzSj6PhNr7nv9Ltx-oFh8tVsgXi1MyFbswNtTUOS5b68chsyOj2QEdx4EPnPfyp8XeIn5A7RpLuBh-z5Z-sQF46cfiQPfcTgtTrnUVs9AoGVJCZuBXXLCIsxbcefiAyFjL0OCLRdZIr46ljLTQiAdE1PZf9yn9-QLDCvh8cFkyEj5oXkWnsmlF0MpdD2mYRe21_UfTLXy5bnlZmw7ngGNxY59AKEECyUNsbWqU6ijYNU&sa=X&ved=2ahUKEwiar-vG6eeGAxUL5TQHHbbPB4UQtKgLegQIERAB&biw=1196&bih=754&dpr=1.25 戸隠そば ぼっち盛り https://www.google.com/search?sca_esv=4f1fedc273307033&sca_upv=1&sxsrf=ADLYWIL-JW0CFl-dwFw1Ud7-0JY3kmN1qQ:1718805620253&q=%E6%88%B8%E9%9A%A0%E3%81%9D%E3%81%B0+%E3%81%BC%E3%81%A3%E3%81%A1%E7%9B%9B%E3%82%8A&udm=2&fbs=AEQNm0BqbPbAzSj6PhNr7nv9Ltx-oFh8tVsgXi1MyFbswNtTUOS5b68chsyOj2QEdx4EPnO1a5kh1estYDsl9ikk54gg5UsbgZRvIER7KEv4n7h0tB17vk0ANMx5FrsCnm3QS7VSsIn4C-af1f18I-yXuVBPNOOtegDVeIX61pcT0nM9ykSR1lqOVql4_3PCCCeb54vn0WzZFZghtu9k4G3-yYvPv2PPZ5I4xTULKv7cJGqdAoDa5UQ&sa=X&sqi=2&ved=2ahUKEwiqlLvz6eeGAxXPslYBHS-2BgwQtKgLegQIDhAB&biw=1196&bih=754&dpr=1.38
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残念ながら、古事記の天の石屋戸では、長野の戸隠は出てきておりません。 特定の地名も出てきておりません。 https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98/%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%83%A8/%E5%A4%A9%E5%AE%89%E6%B2%B3%E5%8E%9F/ なお、戸隠神社には、「神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。」伝承があります。それが西暦700年かどうかはわかりません https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE なお、古事記を完成させた元明天皇(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)は、「風土記」の編纂も命じており、奈良時代の地方の文化風土や地勢等を記録編纂していたと思われます。
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