「だんじり祭り」は、北海道・沖縄をのぞく全国各地にある「山車(だし)祭り」の類型のひとつで、関西(特に大阪周辺)では「山車」を『だんじり』と読み、特に「岸和田のだんじり祭り」が荒々しさでも有名です。
*今回の事故は岸和田ではありませんが…
さて、まず祭りの危険性について、賛否はこれまでも多々ありました。
特に岸和田では、直近10年間で平均すると10名(年平均で1名)が犠牲となっています。死者ばかりに注目しがちですが、負傷者数はもっと多いです。
なので、安全性の面から、祭りの在り方がたびたび疑問視されています。
では、なぜ祭りが亡くならないのか、という点に焦点を当ててみます。
・危険な祭り=男の祭り=粋である、ということ
長野・諏訪大社の『御柱祭』もですが、危険性の高い祭りというのは、同時に勇壮で荒々しい祭りです。祭りを担ってきたのは、かつて大工や左官や火消しなどを生業とした男性たちで、そのような腕力や身軽さがある男性たちにとって、勇壮な祭りに出るということは、男性の『ハク付け』や『度胸試し』のような意味合いがあったのでしょう。
前時代的ではありますが、このような考えが現在も残っているのが『失くならない要因』のひとつです。
・神社の信仰の問題(政教分離の原則)
祭りと言うのは、基本的には神社を中心とした「信仰」により成立しています。
日本の各地の祭りは、観光振興を目的に、行政(都道府県や市町村)が税金を使って主催しているものもあり、たびたび死者が出るような祭りとなると、行政としては、中止または変更を考えることでしょう。
しかし行政が主催となっている祭りの場合、「政教分離の原則」から、神社とは切り離して行われるほか、神社を想起させるような祭りの名称は付けられません。以前は神社が中心であった祭りが、行政が主催となったことで、祭りの名称を変更しているなど、全国に多数の事例があります。
「だんじり祭り」の多くは、PRなどに行政が関わってはいるものの、主催は神社を中心とした民間であり、そのため、行政としては安全面の「指導」はできても、安全面を考慮して中止や変更等を強制的に行うことは、宗教への介入(信仰の自由という基本的人権を損なう)となるので、できないのです。
別の見方をすれば、「だんじり祭り」は神社や民間が祭りを主催するだけの財力と求心力を持っているので、行政もなかなか手出しができないという側面もあり、これらも『失くならない要因』と考えられます。
・祭りは儀式である
「生野区でだんじりの指揮を執っていた男性(52)が、練習中にだんじりとガードレールに挟まれ、亡くなり」…とありますが、正確には『練習中』ではありません。
「だんじり祭り」は、試験曳き、宵宮、本宮と数段階で行われ、試験曳きも『儀式のひとつ』となっています。
先の、神社による信仰が中心になっていることと同様に、その信仰の在り方として祭りは一連の儀式となっています。ですので、その一連の儀式のいくつかを変更してしまったら、祭りとしての意味を成さない、という考えがあります。
側から見れば危険な行為も、信仰のための『儀式』のひとつであるため、これもまた、危険な祭りが『失くならない要因』となります。
・信仰の中心にいる神
神社には、それぞれ中心となる神様が祀られています。
「だんじり祭り」のうち岸和田を例とすると、祭りの主神はスサノオノミコトです。スサノオは日本神話上で最高神とされる女神アマテラスの弟ですが、さまざま多面性のある神で、その中でも戦や生殖を司る荒々しさが有名な男性神です。
「だんじり祭り」が勇壮で危険であるのは、一方で、祭りの主神がスサノオであるのも要因と考えられます。
ただし、同じスサノオを主神とする祭りに、京都の艶やかな『祇園まつり』があります。
『祇園まつり』の「鉾」も、だんじりと同じ意味のものではあるのですが、祭りとしては勇壮さと言うより華麗さが際立ちます(対して、同じ祇園まつりである九州・福岡『博多祇園山笠』は勇壮なお祭りですが…)。
しかし、この京都の『祇園まつり』も、もともとは子供を生贄にささえる人身御供の儀式が原型とされ(諸説あり)ているので、多くの祭りは、その成り立ちの段階で死者がつきものであったと考えられます。
前時代的な風習…と言ってしまえばそれでおしまいなのですが、しかし、郷土の信仰の中に生きている人たちにとって、祭りでの犠牲は『それも本望』と思うところがあるのかもしれません。
触らぬ神に祟りなし…ではありませんが、祭りの在り方に対しては、その祭りの当事者出ない限り、なかなか介入が難しい、ということでしょう。
お礼