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危険が伴う祭りでの怪我や死亡事故は
全国には、危険が伴う祭りがありますよね。 怪我や死亡の事故で、管理責任が問われて損害賠償(?)慰謝料(?)の請求しているニュースを見ました。 怪我人が出るのが分かっていながら、自分から参加しておいて、怪我をしたから賠償をよこせと言うのは自己中心的な言い分に思えてしまいました。 いわゆる「あたり屋」のような人もいるのではないかとも思います。 こういう祭りの事故は、自業自得だと思いますか?主催者の責任だと思いますか? 主催者の責任だとしたら、主催者はテレビや新聞で報道される覚悟で祭りをやっているのでしょうか? どれかひとつでも良いのでご回答お願いします。
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賠償云々の話は知りませんので。 祭りというものについて少し書きます。 確かに祭りの中には危険性がすこぶる高いものも多く存在します。 諏訪地方で行われる「御柱祭」では、数回に一度くらい亡くなられる方が出ます。 亡くなられた方は無論、本意ではないはずです。 そのほかの祭事でも怪我や、時に死亡事故が起きます。 しかし、そのことで改善、もしくは改変される事柄こそあれ、多くのお祭りが「中止」になることはありません。 それは祭りというものは「参加する」ことこそが最重要事項だという認識が参加者に共通しているからです。 アクシデントは「結果」なのです。 最悪な結果をもたらさないためにも、参加者や、それを取りまとめる責任者の方々は「最細心」の準備と、そして祭りが始まってからは、予断を許さない判断が求められます。 そして祭事というものに特徴的なことは 「他者の幸福のために身を捧げる」ということです。 村の繁栄や、国の繁栄…世界平和でもいいですが、重要なのは「他者のために祈る」という行為が核となっているわけです。 エゴイズムを排除した行為ですから、それに参加するということは「非日常的行為」でもあり、それは同時に「自身を守るものが希薄となる」という現象でもあります。 身を清め、裸になるということは、神に身を捧げるための「下地」でもあるわけですが、それは同時に「非日常に望む決意」という意味合いも含めています。 ですから、それは伝心されなければいけない重要な事柄といえるでしょう。 しかし口伝えで伝えられることは限られていますから、実際に「行為」で伝承することが一番わかりやすくもあります。 「危険であること」は、まず「祭りに臨む段階」で察知しなければいけないことと思います。 それ抜きで、実際に祭事を伝承し、実行するなら、必ず怪我をする人や、時には死人も出ることでしょう。 「祭り」とは「捧げること」です。 だから油断をすれば「命を持っていかれることもある」のは、これはよく念じておかなければいけません。 そうでなくても、準備をしても、やはり危険なことなのですから。 保障云々は、これは「主催者の考え方」で良いと思います。 入ったところで怪我がなくなるわけではないのですし、安全性が高まるわけでもないのですから。 あと「自業自得」というのは、この場合は不適切だと思いますよ。 参加者は、自分の意思で祭事に参加するわけですので、これは「業」では無いからです。
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- 1192794
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回答2回目 全部説明しないと分からないとは思いませんでしたので説明します。 車に限らず自転車も歩行者も道路を歩く上で注意しなければなりません。 ですから横断歩道があり、車と歩行者が分けられています。 車道を歩いたら危険なのに車道を歩く人も居ます。 道路交通法を無視しないでください。 視野を広く持てば色々見えてきますよ。
お礼
誤回答ありがとうございました。
- 1192794
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主催者は事故等が起きないように管理する責任があります。 危険な祭りとはいえ、安全に最善を尽くしていなければなりません。 当たり屋かどうかは警察が調べる事です。 危険な祭りだからと参加者が居なくなったら伝統である祭りが無くなります。 あなたの主張をそのまま解釈してしまうと、これだけ車の事故が多い世の中なのだから、危ないから外を歩くな!という事になりかねません。 主催者は保険に加入している場合が多いですよ。
お礼
>あなたの主張をそのまま解釈してしまうと、これだけ車の事故が多い世の中なのだから、危ないから外を歩くな!という事になりかねません。 あなたの主張というのは、「>我人が出るのが分かっていながら、自分から参加しておいて、怪我をしたから賠償をよこせと言うのは自己中心的な言い分に思えてしまいました。」でしょうか? なぜ、外を歩くな!になるのですか? 置き換えると、車の事故が多いのを分かっていながら、自分から外を歩いておいて、怪我をしたから賠償をよこせと言うのは自己中心的な言い分に思えてしまいました。になります。 歩いておいてなので例えは歩行者を差しているのでしょうか。 交通事故に巻き込まれないように注意するのが当然の行動なら、祭りも参加者本人が注意するのが当然の行動でしょう。 本来なら、注意を怠った張本人が払う立場ですから、この場合にあてはめると交通事故で道路所有者に請求している事になりますよね。 注意を怠っておきながら道路所有者や主催者に賠償請求する事と、外を歩くな!が、同じ意味になる理由が理解できませんでした。 >主催者は保険に加入している場合が多いですよ。 主催者は、事故の可能性は考えたうえで最善の配慮で祭りをしているのですね。 せっかく回答いただきましたが、保険加入している件だけ理解でき、他の部分がよくわかりませんでした。すみません。理解力が足りないのでもう少しわかりやすく説明していただけると有り難いです。 >危険な祭りだからと参加者が居なくなったら伝統である祭りが無くなります。 危険だと分かってやめる事がいけない事だとは思えませんでした。伝統は残して、危険を回避できるよう安全な方法に変更してゆくことは、伝統を壊すのでしょうか。新たな疑問が生まれました。 色々と考えさせられるご回答でした。ありがとうございました。
お礼
>最悪な結果をもたらさないためにも、参加者や、それを取りまとめる責任者の方々は「最細心」の準備と、そして祭りが始まってからは、予断を許さない判断が求められます。 これはわかります。参加者も主催者も注意を払って、事故の無いように準備や注意をするのはわかるのです。 >村の繁栄や、国の繁栄…世界平和でもいいですが、重要なのは「他者のために祈る」という行為が核となっているわけです。 これもわかります。しかし回答者さんも >それ抜きで、実際に祭事を伝承し、実行するなら、必ず怪我をする人や、時には死人も出ることでしょう。 と書かれたように、酒を飲んで無礼講できるから出るとか、ここぞとばかりに殴れるから出るという人も多いのはご存じですよね。 祭事として意味を自覚して出るなら事故も減るだろうにと思うのですが、それで主催者にお金を求めるのはどうなのかなと思ったので質問をしました。 >あと「自業自得」というのは、この場合は不適切だと思いますよ。 自分の意思で参加しているのは自業自得とは言わないのですね。 酒を飲んで酔っ払って殴りに行って殴り返されて怪我をするなら自業自得かなと思ったのですが、祭事なら違うのですね。勉強になりました。ありがとうございました。