- ベストアンサー
1980年頃の体育会系気質について
- 1980年頃の体育会系の特徴や暴力的な上下関係について質問しています。
- 高校や大学の進学校やスポーツ推薦で入る学校には暴力的な生徒が存在し、上下関係を確認するために暴力を振るうケースがあると述べています。
- このような心理の原因として、「暴れたい気持ち」や「暴力でしか自分を表現できない」という人々が存在するのではないかと考えています。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
補足拝見いたしました。 暴力と力とは、違うものですよね。 [暴力] 暴力(ぼうりょく)とは、他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待や同調圧力などの欺瞞的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。(wiki より) [力] 物事が変化する原因となるもの。またはその象徴を指す。(同上) 体育会系、武闘派と言っても、暴力のぶつけ合いは表面上の現象の説明であって、より本質的には、相手を変化させようと心身両面で積極的に働き掛け、影響し合う事で、自己や他者を認め合う、そういう気質ではないかと。 内省的、知的な人間のそれが、目に見える影響力の行使ではなく、対象の観察による内在的理解を主とするものと、対照的な気質であると捉えられませんか。 であるならば、物理的、心理的に相手を破壊しかねないやり方にそこまで依らない形でも、彼らに、他者や世界を理解する術を提示していくことは、可能ではないかと思います。 スポーツとは、歴史的(古代ギリシャ)に、そもそもそういう目的のために産み出されたものでしょうから。 エリートの定義に関しては、学業成績の高低に関わらず、素の頭のよさに因るところが、確かに大きかったですね。 正義の定義に関しては、そもそも普遍的な答えもないもので、教育と範囲を狭めてみても、一つの答えにたどり着くことはほぼ不可能だとは思います。 ただ、戦後欧米教育が、GHQの、嘘と民族弱体化政策の基底の上に築かれたハリボテでしかない以上は、この虚構を取り払っていくことで、具体的に何とは表現できずとも、今の若者のみならず、日本人全体にとって本来目指すべき価値観、道徳、倫理、引いては正義と呼べるものが、必ず見えてくるものであるはずと考えます。 その先に、暴力的な体育会系気質の抱える憤りを解消させていく道は見つかるはず、というか見付けねばならないのではないでしょうか。 家庭で毒され育った人間でも、教育が浄化の受け皿として機能しさえすれば、歪んだ暴力の連鎖を断ち切り、体育会系気質にも真の救いと居場所を提供できるのではと考えます。
その他の回答 (2)
人はSもMもいますので、様々なのではないでしょうか。 M気質の人は、先輩からしごかれることが辛くても嬉しいこともあると思います。 人は人と感情や体をぶつけてこそ得られる友愛もあると思います。 それを辛いことと感じるかそうでないかの違いではないでしょうか。
お礼
御回答戴き有難うございました。 >M気質の人は、先輩からしごかれることが辛くても嬉しいこともあると思います。 人は人と感情や体をぶつけてこそ得られる友愛もあると思います。 確かに、研修等でしんどい事もあるが、やりきった後の 達成感はあり、これはその様な事かと思います。 >それを辛いことと感じるかそうでないかの違いではないでしょうか。 唯人によってその様な事とは別に暴力で序列を造り、 「嫌なら俺を倒せ」的な感覚の組織が私には苦手だったのです。 (しごく事や根性論はあっても「人それぞれ」と云う風に見てくれる人なら耐えれますが、同級生の1人は合宿や修学旅行でも周りに喧嘩を売ったり、暴力を振るったりして、俺が圧倒したから従え、嫌なら俺を倒せ的な事を云われたのでこの様な感覚にはなれないと思ったのです。)
おっしゃる通り、気質による個人差というのは、抗いようもなく、あると思います。 暴力とはいえ、殴った側の手も当然痛い訳ですし、絶対強者にとことん従う精神性は、人としての強さの一面も確かにあわせ持ちます。 気質によらず、若い男子にはガス抜きも確かに必要ではありますしね。 ただし、ならば是なのか、と言うと、私はそうは思えません。 あくまで暫定的な必要悪に過ぎないです。 何故ならば、彼らの不満の根元は、そもそも現代の教育というものが、人としての正しく普遍的な正義というものを、適切に教えることができていない、その怠慢への憤りだと捉えるべきだと思うからです。 特に男子ですが、一途に力を信奉するものは、根はとても純粋です。 自分も武闘派とはほど遠い性格の男ですが、学生時代、その手の同級生というのは、小難しい理屈に極度に不感症の半面、シンプルな正義、真実の存在には、とても敏感かつ、正直であったように思います。 文武両道のエリートなら、教師の嘘もある程度は容認し、バランス感覚を自給自足出来るわけですが、彼らにはそれが出来ません。 そこを補完して然るべきなのは、デメリットを許容するしかない環境の提供ではなく、適切な思想教育、点数だけで判断しない学業そのものであると思うわけです。 そこで暴力必要悪説を説いてしまっては(質問者さんが説いていると言いたいわけでは、全くありません)本末転倒である、というのが私の意見になります。 戦後の欧米型教育は、日本人本来の道徳や神話を教えることをせず、あるいは「多様性」の言葉を隠れ蓑に相対化させてしまい、権利や自由は教えるのに義務や責任をすっ飛ばし、現実の厳しさや対処法へのレクチャーも何も無いなど、必要な幼少期教育の根幹を、完全に骨抜きにしてしまいました。 武闘派気質に限らず、あらゆる気質の若者に大して波及的に提起されるべき問題を孕んでいると思います。
お礼
御回答戴き有難う御座いました。
補足
御回答戴き有難う御座いました。 >気質によらず、若い男子にはガス抜きも確かに必要ではありますしね。 その様な側面が運動部やまつり等もそうだったと思います。 あくまで暫定的な必要悪に過ぎないです。 何故ならば、彼らの不満の根元は、そもそも現代の教育というものが、人としての正しく普遍的な正義というものを、適切に教えることができていない、その怠慢への憤りだと捉えるべきだと思うからです。 確かに、根底にその様な社会への怒りがあると思われます。 >特に男子ですが、一途に力を信奉するものは、根はとても純粋です。 自分も武闘派とはほど遠い性格の男ですが、学生時代、その手の同級生というのは、小難しい理屈に極度に不感症の半面、シンプルな正義、真実の存在には、とても敏感かつ、正直であったように思います。 文武両道のエリートなら、教師の嘘もある程度は容認し、バランス感覚を自給自足出来るわけですが、彼らにはそれが出来ません。 そこを補完して然るべきなのは、デメリットを許容するしかない環境の提供ではなく、適切な思想教育、点数だけで判断しない学業そのものであると思うわけです。 もしかして、彼等の価値存在を見出せるのが、 暴力による触れ合い(正当化はしませんが)かもしれません。 唯上述の生徒の中にも、純粋に理不尽だと思う事で判断する生徒と、強い者が無茶を云っても聞かないといけない的な考えの生徒が居りました。 唯、「何が正義か?」と云うとこれは難しく、 後者の彼は親や周りが「暴力で圧倒し、従うまで止めない」「喧嘩で勝たないと家に入れて貰えない」 「食事を兄弟で喧嘩させて勝てば食べられる負ければ食べられない」と云う躾をされたそうです。 そこで暴力必要悪説を説いてしまっては(質問者さんが説いていると言いたいわけでは、全くありません)本末転倒である、というのが私の意見になります。 >戦後の欧米型教育は、日本人本来の道徳や神話を教えることをせず、あるいは「多様性」の言葉を隠れ蓑に相対化させてしまい、権利や自由は教えるのに義務や責任をすっ飛ばし、現実の厳しさや対処法へのレクチャーも何も無いなど、必要な幼少期教育の根幹を、完全に骨抜きにしてしまいました。 武闘派気質に限らず、あらゆる気質の若者に大して波及的に提起されるべき問題を孕んでいると思います。 これは大切だと思います。
お礼
詳しい御回答戴き有難う御座いました。 >暴力と力とは、違うものですよね。 [暴力] 暴力(ぼうりょく)とは、他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待や同調圧力などの欺瞞的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。(ウィキより) [力] 物事が変化する原因となるもの。またはその象徴を指す。(同上) 体育会系、武闘派と言っても、暴力のぶつけ合いは表面上の現象の説明であって、より本質的には、相手を変化させようと心身両面で積極的に働き掛け、影響し合う事で、自己や他者を認め合う、そういう気質ではないかと。 これは言い得ていると思います。 唯、正しくはないが「力」が「暴力」に成り、 「勝てば何をしても良い」「悔しかったら倒せ」的な人が おり、彼等を統制するのはそれを上回る「力」で結局「暴力」に成ってしまうのが悲しいですが現実でその連鎖が断ち切れないのだと思います。 >内省的、知的な人間のそれが、目に見える影響力の行使ではなく、対象の観察による内在的理解を主とするものと、対照的な気質であると捉えられませんか。 であるならば、物理的、心理的に相手を破壊しかねないやり方にそこまで依らない形でも、彼らに、他者や世界を理解する術を提示していくことは、可能ではないかと思います。 確かに、別の「力」を模索していく必要があると思います。 >正義の定義に関しては、そもそも普遍的な答えもないもので、教育と範囲を狭めてみても、一つの答えにたどり着くことはほぼ不可能だとは思います。 ただ、戦後欧米教育が、GHQの、嘘と民族弱体化政策の基底の上に築かれたハリボテでしかない以上は、この虚構を取り払っていくことで、具体的に何とは表現できずとも、今の若者のみならず、日本人全体にとって本来目指すべき価値観、道徳、倫理、引いては正義と呼べるものが、必ず見えてくるものであるはずと考えます。 確かに、戦時中(ああせざる得なかった事はあるにせよ)の反省が、米国に押し付けられた政策であることが間違いで、戦前を肯定しないまでも仰られた通り、何が正義かを 問うていく必要があると思います。 >その先に、暴力的な体育会系気質の抱える憤りを解消させていく道は見つかるはず、というか見付けねばならないのではないでしょうか。 家庭で毒され育った人間でも、教育が浄化の受け皿として機能しさえすれば、歪んだ暴力の連鎖を断ち切り、体育会系気質にも真の救いと居場所を提供できるのではと考えます。 確かに、「理不尽なもの」は断ち切っていく必要があると 思います。