bananasand の回答履歴

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  • 「教えて! goo」で議論する利点とは?

     議論そのものの利点や必要性に異議を唱える気はありませんが、それが「教えて! goo」というコンテンツで行われているのが気になっていました。 議論をする場としてはあまり適していると思えないのですが、俺もそこまで色んなコミュニティサイトを知っているわけでも利用しているわけでもないので、利点が見えていないだけかもしれません。 質問の性質上、アンケートのほうで質問しようとも思いましたが、議論されていることが比較的多めなこのカテゴリで質問してみることにしました。 ・というわけで、「教えて! goo」で議論する利点をご回答ください。 ・利点が他のコミュニティサイトにあるような利点でも、それが「教えて! goo」のほうが優れているならば結構です(その場合は、優れている理由もお書きください)。 ・利点以外の理由でも、それが「教えて! goo」で議論する理由として充分である(その辺りの判断はお任せします)のならばお書きください。ただ、概念論に主眼を置いて書くのはできれば回避してください。 ・議論そのものの利点や必要性に異議を唱えるつもりで質問したわけではありません。ですので利点を述べず、斜め上からのアプローチでご回答するのはできれば避けてください。他意はない、と解釈していただいてご回答くだされば幸いです。

    • sakusya
    • 回答数7
  • 「無限」について教えてください。お願いします。

    「無限」とは、その名の通り「限りの無い」事を言うのですよね? なら、こういう場合は「無限」なのでしょうか? 例えば、「思想」 「思想」自体は無限だと重いますが、人や概念の存在する生物が死んだ場合、思想も一緒に消えてしまう(?)と思うのです。こういった場合でも「無限」というのでしょうか? そもそも、「無限」の考え方や「思想」の考え方を間違えていますでしょうか?頭の中ではだいたい分かっているのですが、実際に言葉で言い表すのがすごく難しくて説明が非常に下手ですいません。この下手な説明じゃ質問が伝わりにくいと思いますが、できれば詳しく教えてほしいです。お願いします。

  • 「子供によくない」というのは?

    子供によくない放送、書籍そのたいろいろなものがいわれています。しかし、主に性欲関係で使われているだろうと思われるその「子供によくない」という言い方ですが、確かにそうだと言えるのでしょうか?子供は精神の自制が効かなくなるから、刺激的なもんを与えてはならないと言う理屈がよくあるのですが、そういう刺激物は瞬間的なもんで、子供はまた日常性の興味に戻っていくのではないかと思われるのですが。子供が中毒症状になりやすいのは、大人がさかんに隠すからと言うことのほうが大きいように思われます。 実際のところ、どうなのでしょうか?

    • noname#105097
    • 回答数5
  • 人の悪口をいうこと

    人の悪口を言う、ということ。 この行為についてどう思っていますか? 皆様の意見を教えてください。

    • noname#153904
    • 回答数13
  • 差別がなぜいけないのか?

    家族愛は差別に入りますか?友情はどうでしょう? 日本人と外国人で差をつけると、問題でしょうか? 差をつけて良い悪い境界線があるなら、それはどこでしょう?

  • 口約束を守ってもらう為の言い回しについて

    カテゴリ違いなのかも知れませんが、宜しくお願いいたします。 3ヶ月ほど前になりますが、付き合いのある自動車屋(整備工場)を通して中古車を購入しました。通してというのは、 問屋(元々の販売店)⇔小売店(自動車屋)⇔私 のようなイメージです。 それで、ここからが本題です。 納車の時 「初回オイル交換と初回オイルエレメント交換は、うちでサービスします」と自動車屋が言ってくれたのですが、何かに書いた訳ではなく、記録として残っていなくて、所謂「口約束」なのです。 納車関係の書類のどこかに、一言書いてくれる様に頼んでおけば事は簡単だったわけで、あとになって“アー失敗した”と思いました。 それで、4000kmほど走ったので、いよいよオイルを交換したいのですが、相手が約束を覚えているのかすら分かりません。なので、本当にサービスしてもらえるか分からないのです。 そこで、何と言って話せばよいのか教えていただきたいのです。元々コミュニケーション能力が劣っている部類の人間なので、どんな言い方が良いのかが分からないです。 「納車のときに、初回オイルはサービスって言ってましたよね?」とか「今回はサービスなんですよね?」だと、だいぶふてぶてしい感じがして、これで良いのかなぁって感じがします。 相手が覚えていた場合はもちろん、仮に忘れていても”あぁそうだった”と思い出させて、サービスしてもらう為には、どういう言い回しで話を進めてゆけば良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。

    • e-den
    • 回答数3
  • どうすれば心の声が聞こえるのか?

    私はずっと感情こそが自分自身である。 そう思ってきました。 しかし、人間関係がうまくいかなかったり、病気になったりと いろいろなことがあり、 感情は感情であり、自分自身ではない。 そう思うようになりました。 そうはいっても、時々は感情優先になり、自分を見失いそうになります。 今、自分を見失いそうになる、と書きましたが、 実際には、自分がどんなものか全く見えてはいません。 感情優先になるときは、その感情が自分自身ではないと心のどこかで無意識に判断しているのです。 しかし、自分の心の中の声を聞くことができません。 自分がどの方向へ進めばいいのかわからないのです。 そこで質問です。 例えばマザーテレサは、心の声を聞いて、スラムで奉仕するようになったそうです。 そこまで高尚でなくても、 心の声ってどうやって聞くのでしょうか? どうすれば自分の姿を見ることができるのでしょうか? また、この心の声というのは、超自我になるのでしょうか?

    • noname#128382
    • 回答数9
  • 人の悪口をいうこと

    人の悪口を言う、ということ。 この行為についてどう思っていますか? 皆様の意見を教えてください。

    • noname#153904
    • 回答数13
  • 私は私にとって何者?

    私は私にとって何者であるか この疑問がわかりません。 自分なりに考えたところまで述べさせていただきます。 私という存在は、他者に対しては、その都度の役割的ペルソナとして規定されています。(「親に対して私は息子」「医者に対して私は患者」など)でも、私は私に対して役柄的に関わるものでないですよね?では私は私にとって何者なのだろうと疑問に至りました。 私は哲学というものをそれほど勉強したことがないのですが、デカルトやフッサールがこの事を研究したことは知っております。 彼らの考えを絡めてこの疑問のご回答お願いします。

  • 神の認識

    人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。 だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? 古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?

  • 「クオリア」に関する疑問

    「心の哲学」について、最近Wikipediaなどを読みあさっている者です。 クオリアというのは、「脳という物質による産物」という見方が一般的だと思います。 私は、物質世界は、現象的意識の内容に含むことができるのではないかと思ったのですが(つまり、外界・物質世界・脳という物質の実在を否定し、現象的意識のみが実在、という考え方)、 Q1: 上記のことは、「あり得る」でしょうか? Q2: このような立場を、唯心論、または観念論と言えばよいのでしょうか? Q3: 自分が、今、受け取っているクオリアの実在を疑うことはできるのでしょうか? ※本当に哲学ド初心者なので、わかりやすい言葉でご回答いただけると嬉しいです♪

  • 「全てのものは変化する」への批判への反論

    「全てのものは変化する」というのは真理ではありますが、そうだとしたら、その真理は変化しないわけですから矛盾するのでは?という問いに対して 「『全てのものは変化する』ということを真理と名づけたのは約束事であり、約束ごとは「全てのもの」の中に含まれない。 数学者が存在するかぎり『正三角形』の定義が変化しないように」 と答えることは適切でしょうか?

    • noname#118718
    • 回答数6
  • 自由って何ですか?

    よく自由という言葉を使いますが、最近の世の中ではいろいろな自由を選択することができると思います。 その自由というものは一体何だと思いますか? イメージで言うと、圧迫から開放されるとか、自分らしくいられること、マイナスイメージとしては自分勝手とかアウトローとかです。 例えば、喫煙をすることは自由です。好きでタバコを吸う人はそれで自由です。 しかし止めたくても禁煙できない人はタバコに対してかなり不自由な人です。 禁煙を成功した人はタバコに対して自由を勝ち取りました。 好きな人ができました。恋愛は自由です。 でも、その恋愛にのめりこみ過ぎてしまった。それが望みなら自由ですが、恋愛へののめりこみが自分で抑えられなくなったら不自由です。 最近ホームレスのギャルの漫画家がいますが、仕方なく選んだホームレスの道は不自由ですが、自らそれを望んで選びとった彼女はとても自由です。 自由と不自由の境って、人の心によるものが多いと思います。 皆さんは、どう考えるでしょう。

    • noname#154451
    • 回答数8
  • 返事はするけど、それに伴った行動をしない人の心理

    返事はするけど、それに伴った行動をしない人の心理ってどうなっているのでしょうか。 子供も夫も何かをするように指示すると、決して反抗的な態度ではなく、返事をするのです。 時には嫌そうに言う事もありますが、大抵は普通に「する」と返事をします。 けれども実際にはしなかったり、するまでにかなりの時間を要します。 この心理はどうなっているのでしょうか?

    • noname#128382
    • 回答数8
  •  肉体は賢い!でも心は?

     心の‘落とし穴’って自分ではなかなか気がつかないものですね。  この肉体は命を保とうとエネルギーの補給を要求します。心はそれを感知して食事します。  すると肉体は生命の維持に必要なものだけ摂取し不要なものは排泄します。この点に関して心は肉体にまかせっきりです。  排泄できなくて体調を崩したりと、肉体は完璧ではありませんが、そのことは於いといて。  我々(精神)は、この肉体の機能に匹敵するといえるような‘心の活動’を心がけているでしょうか。  感想など伺えれば幸いです。

    • Y  Y
    • 回答数19
  • モンスターペアレント批判は行き過ぎです

    教師は犯罪者が多いのでモンスターペアレントに叩かれて当然ですよね?

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

  • 当たり前を権力にする大人たち

    社会経験は浅いのですが学校生活でのことを書きます 生徒か勝手なことをやりだし先生たちは「常識的に考えて」といって止めさせたり、 壇上で先生が生徒へ行動を慎ませる話をした後に「あたりまえだな」というのは、疎外感を感じてしっくりきませんが、分かったことがあります。 それは、あたりまえ(常識・規則)を正義とするあまり押し通す権力にして自分自身を守りながら自身の力のように扱ってることでした。保身です。  規則を守らせ、それを守らないものは埒外だと突き放します。規則さえまもれば、よくやったと仲間に入れてもえらる、そこで安全を与えら れられるのだと思うんです。つまはじきと保護。 これは、あたりまえの偏見・差別・仲間はずれの意識だとわかりました。 彼らが分かっているのは規則です。それで分かった気でいるんです。  幼い子供はわからないと「何故」と知りたがありますよね。 それにしっかり答えてやることをしないで理由も無く聞き分けさせる育てかたが、青年期になったころ、その空白にあたりまえ・規則が入り込んだんじゃないかと考えてます。  「なんだよこいつ」みたいに自由のはき違いをして言う、はきすては常識人でもおこります。彼らはまともだからでしょう、それを維持するのに身をまもりながら埒外の人を軽蔑するのでしょう。そして自分が勝っていると思う優越感・さげすみです。 一方的な答えは答えではないと考えます。 ですから規則も答えではないはずです。だって守るものでしょう?  式を立てた答えが答えとするなら良識があります。職人におおくおられますので想像してもらえればわかることでしょう。 粋な教えもありますが、たまに路線をはずしてそりゃないよと言いたくなることもしばしば出てきます。  そうすると常識はいったいどんな構造かになります。 規則が元だとすると一方的だし押し付けがましさを感じます。それを皆で共有して社会をなりたたせるとしたらやはり仲間はずれは出てきます。両者に立たないで別なルールを人が作ってしまうとすると、それになるんです。  しかし良識のように己のうちから沸き起こる考えが元の世界ではそうはならないでしょう。人を評価するとき、その人のやったこと、持っている能力でみるからなんですが、かたや常識は比べる屁理屈です。人と人をくらべ優劣を付けたがる、良いか悪いか、守ったか破ったか それでは正しさを求めてしまうしまいます まともにすがりたがりたくなります それに、つまはじきされたくない そいう恐怖心から良い悪いかの二者択一の考えかたを規則から人は作った気がしてます。 日本人の忘れた思想は良識ではなかったかと言う気がしてます。 言い換えるとわからずのやる、おしつけ、はきすて、つまはじき、ただしさ、目にする機会がおおいい若者の非道と常識人のやってることの差はルール守っているかの違いだけでした。 また判然としない気持ちがありますが、この考えを捨てたくここへ書き込みました。 不完全な考えですが、誰にも言ったことがなくどう評価されるのかこの 場を借りてご意見いただけませんか? fit 国家権力を傘に着る警察のえらそうな態度は、常識を盾にする人と似ています。

  • この世の人間には自由意思は一切存在せず、決められた筋書きに従って生きているだけということはありえますか

    夢を見ている時、自分の意思で動いているわけではないのに自分の意思で動いているような気がするのと一緒で この世の人間にも自由意思は一切存在せず、決められた筋書きに従って生きているだけ ということはありえますか