bananasand の回答履歴
- 「愛」とは何を表現したものか
「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。
- 関係と関係性の違いって何ですか?
人によって「関係」や「関係性」という言葉を使っていますが、 だいたい同じ意味のように聞こえます。 関係「性」というとかなり違うように聞こえますが、 どんな違いがあるんでしょうか。
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- 心理学・社会学
- goulden149
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- 現代社会の倫理観
私は最近の社会に以下のようなことを感じています。 (1)年上を全くといっていいほどリスペクトする慣習がなくなった。 少しでも自分の能力が高いと分かればタメ口で横柄な態度を取る。 (2)見知らぬ人への親切を仇で返す人が増えた。 例えば道路で道を譲っても無反応で割り込みしてきたり。 (3)何もしなくても、赤の他人には取りあえず酷い思いをさせてやろうという考えを感じる。 仲間以外は全て悪党とでも言いたげに、ため息をかけたり、舌打ちしたり。 聞こえるように人を指を指して笑ったりする。 赤の他人が不幸になることを望んでるようにさえ感じる。 (4)少しでも自分に無礼を働いたと感じると、仕返しを図る人間が多い。 一般の人間や、店の店員すらも平気で悪態をつく人がいる。 (1)は外を歩いていても、職場でも非常に強く感じることです。 職場では特に、能力序列指向が極めて強いです。 私も年功序列には疑問を感じており、能力の高い人間が評価されて然りと考えています。 しかし、度を超えた不遜に近い振る舞いをする人がいます。 私は例え自分より能力が高くても、無礼を働くものではないと考えています。 (2)は他人へ働きかけた親切を仇で返されることが多かったことによります。 感謝するべき場面で、無視して平気で立ち去ったりというのが多々ありました。 私が親切の代償を求める陰湿な人間に見えたのでしょうか? (少なからず、そんな気持ちは一切働きませんでした。) また、相性が合わない人間と関わろうとしない人が多くいるように感じます。 (3)は街や人が集まる施設などで強く感じることです。 ため息、舌打ち、咳、睨みつける、何もしてないのにされることがあります。 印象に残ってるのが、ファーストフード店で後ろに座った学生たちから聞こえてきた、 「うちらが幸せならそれでいいんじゃない?」という言葉。 非常に強い利己主義、自分さえ良ければそれでいいという考えが伝わってきました。 (4)については、そうならないように努力はするのですが、 彼らはまるで揚げ足を取るかのように仕返しを図ろうとします。 彼らに何かされたことを、私は一々思い返し、何が悪かったのか、 次はそこを修正しようと考えます。 しかし、何かキリがないような部分もあり、むしろ、そうした努力さえ搾取されてるように感じます。 重要なのは、これらの慣習が大人だけではなく、 小中学生、果ては幼稚園児にさえ散見されることです。 どこかでそういう教育が施されてるのでしょうか? どこかでそういう談合が開かれてるのでしょうか? 皆足並みを合わせたように同じ事をするので非常に不思議です。 2000年を過ぎてから、こういった価値観が広まっていったように感じます。 通り魔事件や、凶悪事件、詐欺事件が長く報道されたからでしょうか? 100年に一度の不景気といわれてるからでしょうか? 政治に信頼が持てない時代になったからでしょうか? 彼らは他人にされた何かの仕返しとして無差別に他人に当たってるのでしょうか? 別に彼らをどうこうしたいという思いはありませんが、 彼らも同じ事をされて嬉しいのでしょうか? 私は全然嬉しくありません。 寛大な人間になることは心がけてますが、 忘却や彼らと同じ行動を取ることで疑問を片付けたいとは思いません。 社会において上記のようなものは良い倫理観だとは思いません。 ただあまり社会全体で解決出来そうな問題にも思えないので、 個々人が他人へ配慮や思いやりを少しでも多く行っていければと思っています。 もちろんこれらは私個人が捉えてる特徴なので、 そうでない人も大勢います。 びっくりするくらい礼儀をわきまえた大人、子供も多く、 また、最近の若い人は能力の高い人が多いように感じます。 積極的で、度胸もあり、発言力もあります。おどおどしません。 彼らは仲間内だと、全ての場合ではありませんが、非常に力になります。 私が人当たりが悪すぎたということあるかも知れません。 私が悪かった部分も多々あるでしょう。 しかし、上のような考慮しても以上のような価値観が社会に蔓延してるのは錯覚ではありません。 私はどちらかというと暗い方の人間なので、 ついつい物事の悪い面に目を向けがちで、 細かいことも一々気になってしまうタイプです。 それでも、他人よりも自分自身をどうにかするべきだと常々考え、 嫌なことは忘れようと努力しています。 しかし、今回お聞きしたいことは、あまり「私」が考え直すとか、 無視するべき、ということではありません。 上に書いたような私の社会に対する価値観への批評と、 自分の社会に対して思っていることをお聞きしたいのです。 願わくば、それに対する個人の解決策などもお伺いしたいです。
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- blue_notes
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- 「自由」について 感想文
「自由」について 感想文 以下の文章の感想文を1200字以上で書けという宿題が出ました。 どのような文章を書けばいいか皆さんアドバイスを下さい。 おそらく、いや確実に先生は大学の自由を履き違えるなということを言いたいのだと思います。 お手数ですが、どなたかよろしくお願いします。 なるべく多くの皆様のアドバイスが欲しいです。 自由 自由とは束縛がないことをいう。 束縛とは外的な束縛と内的な束縛とがある。 社会的、政治的、法律的、経済的あるいは物理的束縛を外的束縛と呼び、本能、衝動、欲望あるいは感情といった語で呼ばれているものを内的束縛という。 自由とは、束縛でないことをいうのであるが、しかし、だからといって、それは、したい放題なんでもできるとうことではない。 したい放題なんでもするというのは、自由どころか、欲望の奴隷、衝動のとりことなり、内的に束縛されている。 欲望や衝動を抑制し、あるいはこれを断って、精神の自律を保ちえてこそ真の自由な人間といえる。 外的束縛と内的束縛には奇妙な関係がある。内的束縛が多ければ(たとえばこどもの場合ほとんど欲望のままに動く)多いほど、外的に束縛することによって内的束縛を抑制する必要がある。中高に面倒は規則があるのはそのためである。逆に欲望を抑制できる大人であれば外的束縛も少なくてよい。大学が自由なのはそのためである。 大学が自由だからといって、つまらぬ遊戯にふけり、服装も勝手気まま、そんな生活をしている者がいるとしたら、自由とはほど遠い欲望の虜であり、本当は高校の厳しい規則からやり直さなくてはならない。 内的束縛が少ないものには外的束縛も少なくてよい。 空を飛ぶ鳥は自由の象徴で使われるが、空を飛ぶ鳥は自由ではない、鳥は本能のままに動くのでそれ以外の動きはできない。 なので、鳥がたまたま人間にどんな狼藉をはたらこうとも、人間は鳥に道徳を問うことはしない。
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- 心理学・社会学
- kuro00kuro
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- 人間は何のためにこの世に生まれてくるのでしょうか?
人間は何のためにこの世に生まれてくるのでしょうか? つまり、人生の目的は何なのか? 人は自分の一生をどの様に生きるべきなのか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- toto77japa
- 回答数39
- 関係の絶対性
についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
- 関係の絶対性
についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
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についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
- 関係の絶対性
についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
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- 関係の絶対性
についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
- 監視カメラの無断撮影
先日から、僕の高校で盗難が起こっています。 先生は、何も対応してくれません。 なので、監視カメラを設置しようと思いますが、 無断で教室を隠し撮りしてもいいのでしょうか? 法には触れませんか?
- 長い文章ですが力を貸してください。すごく悔しいです・・。
小さなお話になるのですが約1年ほど前に友達に「WII」のゲーム機を貸しました。 友達が言うには新しいWiiを買って返すから、今自分が持ってるWiiを譲ってほしいというのです。 なんでも古い型のタイプが高くで売れるやらなんやらでしたが、その当時あんまり使ってないWiiが新しくなるのならいいと思い、その条件を飲みました。 しかし1週間たっても2週間たっても連絡はありません。 中学からの知り合いなので別に心配はなかったのですが、さすがに1ヶ月経った頃、メールを何度もしたところようや返事が返ってきたのですがもう少しかかるとの事・・。 それからしばらくしてまた返事も返ってこなくなりました。 今回は本当に返事が返ってこなくなり、家も引っ越したらしくお手上げ状態になりました。 正直そのときはもうあきらめてましたが半年が過ぎたとき、メールがなんと帰ってきました。 内容は東京の方に兄貴の結婚式行っていたみたいでした。 その時に腸を悪くしたらしく急遽夜中入院したみたいで現在も入退院を繰り返しているみたいです。 それからメールを月に2~3回程度繰り返してはWiiを返してほしいと言っていますが、入院しているので難しいという返事です。 しかも毎日のようにメールしているのですが1週間に1回返ってくるかどうか・・・。 電話しても病院だから電話はできないとのこと。 正直そのWiiを貸した友達はだらしない性格でして、よくめんどくさくなったら仕事など嘘をついて休んでいたり、オークションなど発送するのが遅れたときも平気で出張にいっていましたや、親戚の不幸でやら、急遽入院しましたなどの嘘をつきます。 今回ももしかしたらと思いまして、入院している病院をなんとか聞きまして電話してみたら『そのような方が入院したという記録がございません』といわれました。 思った通りの結果でした。 このことをメールで伝えて怒りをぶつけてもいいのですが、現在彼の住所が分からないということから、彼と繋がる唯一のメールですので返って危険です。 万が一メールアドレスまで変えられたら彼を追う手がかりがほとんどなくなります。(一応彼の実家の住所は○○6丁目まで分かっているので完全になるなるわけではない) ですので私は彼にはその事は伝えず、Wiiを返してほしい事を述べました。 そんな時つい1週間ほど前に希望のメールが来ました。 彼が言うにはもう新品のwiiは買って実家に置いているみたいです。 ですので今度の金曜日(9月18日金曜日)に宅配でWiiを送るとメールが来ました。 ついに1年ぶりにWiiが帰ってくるうれしさと、本当に彼が決まった日に送ってくるかの疑問と心配がありました。 そして9月18日(金曜日)彼にメールを5通しましたが、彼からメールが帰ってくることはありませんでした。 次の日9月19日(土曜日)彼にメールを3通送りましたが、彼からメールが帰ってくることはありませんでした。 次の日9月20日(日曜日)彼にメールを4通送りましたが、彼からメールが帰ってくることはありませんでした。 もう限界です。 【ここからが質問内容です。長くてすみません】 私は彼を裁判で訴えようと思っています。たかがゲーム機の貸し借りで裁判なんて聞いたことありませんが、もう私は貸し借りではなく彼が純粋に許せません。 彼のだらしない性格ゆえに彼に罰を与えたいです。 しかし、私は裁判の事はほとんど初心者です。 友達に聞くと民事裁判になるとかどうとか・・。 訴えたとして費用がいくらかかり、どのような手続きを取ればいいか・・。 また彼にどのような罰を与える事ができるのか(もちろんWiiが帰ってくることは前提で・・。) どなたか詳しい方ぜひアドバイス下さい・・。 すごく悔しいです・・。
- 夢の中の相手に心(意識)はあるのか?
はじめまして。 このカテゴリーで質問をするのは初めてです。 多分、今まで誰も指摘していなかったことだとは思いますが(既に誰かが指摘していたらすいません) 自分が誰かと会話をした夢を見たことがある人は多いと思いますが その夢の中の相手に心(意識)はあるのでしょうか? もちろん自分自身は夢で体験したことを覚えているので、心はあるとわかっています。 しかし、相手は脳が作り出した幻覚だから、心は持たない人工無能というか、哲学的ゾンビなのでしょうか? もしそうなら、哲学的ゾンビは意外にも身近なところで実在したことになりますし、もし相手に心があるとすれば…。 その人は脳という広大な海で生まれ、自分の運命について何も知らずに一瞬で消えてしまう泡のような儚い存在ではないのかと夢想してしまいます…。 いかがでしょうか?ご意見をお待ちしております。
- 現代社会の倫理観
私は最近の社会に以下のようなことを感じています。 (1)年上を全くといっていいほどリスペクトする慣習がなくなった。 少しでも自分の能力が高いと分かればタメ口で横柄な態度を取る。 (2)見知らぬ人への親切を仇で返す人が増えた。 例えば道路で道を譲っても無反応で割り込みしてきたり。 (3)何もしなくても、赤の他人には取りあえず酷い思いをさせてやろうという考えを感じる。 仲間以外は全て悪党とでも言いたげに、ため息をかけたり、舌打ちしたり。 聞こえるように人を指を指して笑ったりする。 赤の他人が不幸になることを望んでるようにさえ感じる。 (4)少しでも自分に無礼を働いたと感じると、仕返しを図る人間が多い。 一般の人間や、店の店員すらも平気で悪態をつく人がいる。 (1)は外を歩いていても、職場でも非常に強く感じることです。 職場では特に、能力序列指向が極めて強いです。 私も年功序列には疑問を感じており、能力の高い人間が評価されて然りと考えています。 しかし、度を超えた不遜に近い振る舞いをする人がいます。 私は例え自分より能力が高くても、無礼を働くものではないと考えています。 (2)は他人へ働きかけた親切を仇で返されることが多かったことによります。 感謝するべき場面で、無視して平気で立ち去ったりというのが多々ありました。 私が親切の代償を求める陰湿な人間に見えたのでしょうか? (少なからず、そんな気持ちは一切働きませんでした。) また、相性が合わない人間と関わろうとしない人が多くいるように感じます。 (3)は街や人が集まる施設などで強く感じることです。 ため息、舌打ち、咳、睨みつける、何もしてないのにされることがあります。 印象に残ってるのが、ファーストフード店で後ろに座った学生たちから聞こえてきた、 「うちらが幸せならそれでいいんじゃない?」という言葉。 非常に強い利己主義、自分さえ良ければそれでいいという考えが伝わってきました。 (4)については、そうならないように努力はするのですが、 彼らはまるで揚げ足を取るかのように仕返しを図ろうとします。 彼らに何かされたことを、私は一々思い返し、何が悪かったのか、 次はそこを修正しようと考えます。 しかし、何かキリがないような部分もあり、むしろ、そうした努力さえ搾取されてるように感じます。 重要なのは、これらの慣習が大人だけではなく、 小中学生、果ては幼稚園児にさえ散見されることです。 どこかでそういう教育が施されてるのでしょうか? どこかでそういう談合が開かれてるのでしょうか? 皆足並みを合わせたように同じ事をするので非常に不思議です。 2000年を過ぎてから、こういった価値観が広まっていったように感じます。 通り魔事件や、凶悪事件、詐欺事件が長く報道されたからでしょうか? 100年に一度の不景気といわれてるからでしょうか? 政治に信頼が持てない時代になったからでしょうか? 彼らは他人にされた何かの仕返しとして無差別に他人に当たってるのでしょうか? 別に彼らをどうこうしたいという思いはありませんが、 彼らも同じ事をされて嬉しいのでしょうか? 私は全然嬉しくありません。 寛大な人間になることは心がけてますが、 忘却や彼らと同じ行動を取ることで疑問を片付けたいとは思いません。 社会において上記のようなものは良い倫理観だとは思いません。 ただあまり社会全体で解決出来そうな問題にも思えないので、 個々人が他人へ配慮や思いやりを少しでも多く行っていければと思っています。 もちろんこれらは私個人が捉えてる特徴なので、 そうでない人も大勢います。 びっくりするくらい礼儀をわきまえた大人、子供も多く、 また、最近の若い人は能力の高い人が多いように感じます。 積極的で、度胸もあり、発言力もあります。おどおどしません。 彼らは仲間内だと、全ての場合ではありませんが、非常に力になります。 私が人当たりが悪すぎたということあるかも知れません。 私が悪かった部分も多々あるでしょう。 しかし、上のような考慮しても以上のような価値観が社会に蔓延してるのは錯覚ではありません。 私はどちらかというと暗い方の人間なので、 ついつい物事の悪い面に目を向けがちで、 細かいことも一々気になってしまうタイプです。 それでも、他人よりも自分自身をどうにかするべきだと常々考え、 嫌なことは忘れようと努力しています。 しかし、今回お聞きしたいことは、あまり「私」が考え直すとか、 無視するべき、ということではありません。 上に書いたような私の社会に対する価値観への批評と、 自分の社会に対して思っていることをお聞きしたいのです。 願わくば、それに対する個人の解決策などもお伺いしたいです。
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- blue_notes
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- 自殺という発想の元は?
自殺は、日本ではよくニュースになりますし、数も多くなる傾向で、自殺嗜好的なサイトがあったりします。 ところが、海外の方に聞くと、国によるのか個人によるのか、わかりませんが、そのような状況は驚かれます。 そもそも、多くの人が自殺するのは、実は昔からあったことなのでしょうか? 自殺という発想の元は何だったのでしょうか? 個人の気持ちという点では、大変に苦しい状況があることは察しておりますが、こちらの質問では、そのような視点ではなく、社会現象という視点で、ご意見をいただければ参考になります。 よろしくお願いいたします。
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- noname#135166
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- 攻撃衝動?を抑えたい
はじめまして、どこにでもいるしがない大学生です。 自分は他人がどう思っているかは分かりませんが、あまり荒っぽい人間ではないと思います。 しかし、時々突然に無防備な状態の人を思いっきり殴りかかりたいと思ってしまう事があります。 相手が喧嘩が強そうな人でも、友人でも、女性でも、家族でも関係なく起こってしまいます。 そう思って殴りかかった事は一度もありませんし、そんな事をする度胸も自分には無いと思いますが、万が一事に及んでしまったらと思うと自分が恐ろしくてたまりません。 いつこうなったかも覚えが無く、原因もよく分かりません。 過去に荒れてたわけでもなければ、逆に虐げられた経験も特には無いです。 ストレスも特に溜まっていません。 とりあえず原因はどうでもいいので、こう思う事そのものを失くしたいです。 ただのカルシウム不足あたりだと思いたいところですが、万が一にも精神病の類の可能性もあると思いますので、どなたか知識を貸していただけたらと思います、よろしくお願いします。