NemurinekoNya の回答履歴
- へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか
たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか? (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか? (γ) 人間(現実)は変わるか? ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~ 星を散りばめたこんな時間に 独りして そこで もし風の音でないとすれば 泣いて いるのは 誰かしら 今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで いったい 誰が 泣いているの? 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から 一滴のしづくがこぼれるのに 触れたように思っている。 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて 《もっとも純粋なるもの》が 静寂のかなたから この傷ついた心を照らし出してくれることを 待っている。 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕 咎めのうねりを囁いている。―― 岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを ものを苦々しくも呑むことになったような 心を締めつける嘆きをざわめかせ 送りやっている。 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは 何をしているの? あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な 風に吹かれた落ち葉がざわめき つづけるのは 何故なの? この未知の天空につながれて わたしは きらめいている。 災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は 輝いている。 ・・・ わたしは ここまで わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。 ・・・ (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あるいはつまり (δ) この詩(抄訳ですが)の女は われに立ち還ったか? * 若きパルク La Jeune Parque (壺齋散人訳) http://blog.hix05.com/blog/2008/06/_la_jeune_parque.html * Wikisource: La Jeune Parque http://fr.wikisource.org/wiki/La_Jeune_Parque
- 両辺から、ネイピア数をとる操作?
e^(-y)=(1/x)-1 が、 -y=log((1/x)-1) になると教わったのですが、 ここで何が起こっているのかが、わかりません。 両辺から、ネイピア数をとる 操作をすると、必ず何もなかった右辺にはLOGが底として着く、ということなのでしょうか。
- 「般若心経」や「法華経」の作者は?
仏教では、「般若心経」や「法華経」とかの経典の名前をよく聞きますが耳にしますが、これらの経典はいつ頃どこでつくられたのでしょうか? またその作者や翻訳者は明確にわかっているのでしょうか? お経は、サンスクリット語あるいはパーリ語を耳で聴き、聴いたままの音を中国人が漢字に当てはめただけのものや、その文脈を理解した上中国語に翻訳したものがあると聞きました。 「般若心経」や「法華経」も同じことが言えますか?
- 写像 数学
逆写像を持つ写像a(x)が存在し、a(x)=b(x)となるb(x)が存在するとする 逆写像a-1(x)=b-1(x)が成り立つ事の証明を教えてください。
- 締切済み
- 数学・算数
- yukari_0617
- 回答数1
- 日本人の哲学を!
かつてナツィから逃れ招聘されて東北大学に教鞭を執ったK.レーヰットが こんなことをすでに言っていたそうです。 ▽ (レーヰット:日本の学問) ~~~~~~~~~~ ( a ) 学生たちはたしかに 献身的に私たちヨーロッパ人の文献を研究し じぶんたちの知性によってそれを理解してもいるけれども じぶんたちの研究のなかから かれら自身の また日本人の自我のために いかなる帰結をもみちびき出さない。 ( b ) ヨーロッパの概念 たとえば《意志》《自由》《精神》といったものを かれら自身の生活 思考 言語において相応するもの ときにじぶんたちのそれとは相反するものと区別したり 比較してみたりすることはしないのだ。 ( c ) かれらは それ自体として見知らぬものを じぶん自身のためには学ばない。そうすることが自明であるかのように ヨーロッパの哲学者の原文のなかに歩みいって じぶんの概念に対してその哲学の概念を 根源的に未知なありかたにおいて見ようとはしない。〔中略〕 ( d ) かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち 日本的に感じたり考えたりする した(下)の 基本的な階と プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている うえの階である。 ( e ) かれが一方から他方へとわたってゆく梯子はどこにあるのだろうか。ヨーロッパの教師は そう自問してみる。 ・・・・・・ ( f ) ボードレールやフロベールが プルードンやソレルが ワーグナーやニーチェが ヨーロッパに対して向かいあったのとおなじように 仮借のない鋭敏さでじぶん自身とその国民を問いただす日本人が果たして存在するのだろうか。私には疑わしく思える(しかし まちがっていたら教えてほしい)。 (誌《思想》掲載論文 その末尾に置かれた《日本の読者に寄せる後記》より。 下記の書の熊野純彦・解説より。 レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.488 Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この質問は 質問者じしんの自己 PR だとうたがわれてしまうかとおそれますが たとえばこのようなレーヰットの現状認識ないしそのわれわれにおける自覚を出発点とするよりほかにないとも考えられます。 《哲学》というひとつの言葉じたいについても われわれのあいだでは収拾のつかないほど受け留め方が違っていて その一事だけによってさえ われわれの心は断絶を余儀なくされているかに見られます。 どうしてここから出発しないのでしょう? ワールド・カップを目指さなければならないわけではないでしょうけれど 箱庭の中のおままごとからは そろそろおさらばしましょう。 一歩一歩じみちにあゆむあたらしい門出を迎えることが出来るようにするには どうすればよいでしょう? ・ 概念についての定義の再定義 ・ 学問におけるけんかをいとわず避けない さしづめこう考えました。 ご見解をうけたまわりたい。
- 「般若心経」や「法華経」の作者は?
仏教では、「般若心経」や「法華経」とかの経典の名前をよく聞きますが耳にしますが、これらの経典はいつ頃どこでつくられたのでしょうか? またその作者や翻訳者は明確にわかっているのでしょうか? お経は、サンスクリット語あるいはパーリ語を耳で聴き、聴いたままの音を中国人が漢字に当てはめただけのものや、その文脈を理解した上中国語に翻訳したものがあると聞きました。 「般若心経」や「法華経」も同じことが言えますか?
- 日本人の哲学を!
かつてナツィから逃れ招聘されて東北大学に教鞭を執ったK.レーヰットが こんなことをすでに言っていたそうです。 ▽ (レーヰット:日本の学問) ~~~~~~~~~~ ( a ) 学生たちはたしかに 献身的に私たちヨーロッパ人の文献を研究し じぶんたちの知性によってそれを理解してもいるけれども じぶんたちの研究のなかから かれら自身の また日本人の自我のために いかなる帰結をもみちびき出さない。 ( b ) ヨーロッパの概念 たとえば《意志》《自由》《精神》といったものを かれら自身の生活 思考 言語において相応するもの ときにじぶんたちのそれとは相反するものと区別したり 比較してみたりすることはしないのだ。 ( c ) かれらは それ自体として見知らぬものを じぶん自身のためには学ばない。そうすることが自明であるかのように ヨーロッパの哲学者の原文のなかに歩みいって じぶんの概念に対してその哲学の概念を 根源的に未知なありかたにおいて見ようとはしない。〔中略〕 ( d ) かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち 日本的に感じたり考えたりする した(下)の 基本的な階と プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている うえの階である。 ( e ) かれが一方から他方へとわたってゆく梯子はどこにあるのだろうか。ヨーロッパの教師は そう自問してみる。 ・・・・・・ ( f ) ボードレールやフロベールが プルードンやソレルが ワーグナーやニーチェが ヨーロッパに対して向かいあったのとおなじように 仮借のない鋭敏さでじぶん自身とその国民を問いただす日本人が果たして存在するのだろうか。私には疑わしく思える(しかし まちがっていたら教えてほしい)。 (誌《思想》掲載論文 その末尾に置かれた《日本の読者に寄せる後記》より。 下記の書の熊野純彦・解説より。 レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.488 Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この質問は 質問者じしんの自己 PR だとうたがわれてしまうかとおそれますが たとえばこのようなレーヰットの現状認識ないしそのわれわれにおける自覚を出発点とするよりほかにないとも考えられます。 《哲学》というひとつの言葉じたいについても われわれのあいだでは収拾のつかないほど受け留め方が違っていて その一事だけによってさえ われわれの心は断絶を余儀なくされているかに見られます。 どうしてここから出発しないのでしょう? ワールド・カップを目指さなければならないわけではないでしょうけれど 箱庭の中のおままごとからは そろそろおさらばしましょう。 一歩一歩じみちにあゆむあたらしい門出を迎えることが出来るようにするには どうすればよいでしょう? ・ 概念についての定義の再定義 ・ 学問におけるけんかをいとわず避けない さしづめこう考えました。 ご見解をうけたまわりたい。
- ファンデルワールス気体 エントロピー
ファンデルワールス気体のエントロピーを求める際、 断熱曲線の式を 等温準静的熱に代入して それをTで微分することで求めていたのですが、 なぜ断熱曲線を使うのか? なぜ等温準静的熱を使うのか? が全くわかりませんでした… 教えて下さい。m(_ _)m
- 高1の物理の問題がわかりません。
軽いつる巻きばねの一端を天井に固定し、他端に重さ19.6NのおもりAをつるしたら長さが0.38mになり、重さ29.4NのおもりBをつるしたら長さが0.45mになった。ばねの自然の長さは何mか。また、ばね定数Kは何N/mか。 この問題がわかりません。 どなたか、教えてください! おねがいします。
- ファンデルワールス気体 エントロピー
ファンデルワールス気体のエントロピーを求める際、 断熱曲線の式を 等温準静的熱に代入して それをTで微分することで求めていたのですが、 なぜ断熱曲線を使うのか? なぜ等温準静的熱を使うのか? が全くわかりませんでした… 教えて下さい。m(_ _)m
- 軸の問題について質問です
http://www.washimo-web.jp/Technology/Statics/No29/Statics29.htm このページ一番下の両端支持軸の問題はW=mgとなるのでしょうか?それとも自重を無視しなかった場合にそうなるのでしょうか
- HClガスの定積比熱について
HClガスが十分希釈な場合、分子間の相互作用を無視できる。ここで、体積Vの中にあるHClガスをN個の独立なHCl分子と考えると状態和は、 Z=Z(tr)+Z(rot)+Z(vib) Z(tr)=1/N! [(V(2πMkT)^3/2)/h^3]^N Z(rot) = Σ(l=0~∞) (2l+1)exp[-1/kt (h'^2 l(l+1)/2I)] Z(vib) = 1/(2sinh(h'ω/2kT)) ただし、Mは分子の重さ kはボルツマン定数 Tは温度 hはプランク定数 h’はh/2π lは方位量子数(l=0,1,2,3・・・・・・) Iは分子の慣性モーメント ωはH-Clボンドの平衡点まわりの角振動数 となる。 このとき、HClガスの定積比熱はC(T)=Ctr(T)+Crot(T)+Cvib(T)というように並進・回転・振動に対応する3つの部分の和になる。 Ctr(T)、Crot(T)、Cvib(T)の具体的な関数を求めよ。 という問題です。 Ctr(T)=3/2 Rになることはわかりました。 Ctr(T)=Na d/dT (- d/dB (logZtr)) , B = 1/kT、Naはアボガドロ数 同様にして、Crot(T)、Cvib(T)をもとめようとしましたが計算がわかりません。 きっと、Crot(T)=R+f(T)、 Cvib(T)=R+g(T) という関数になり、温度域によって、 C(T) = 3/2 R ~ 5/2 R ~ 7/2 R と変化していく形になるはずなのですが・・・ よろしくお願いします。
- 僕の持論はどれくらい間違っているでしょうか?3
僕の持論の一部を書きます 環境問題(森林伐採 乱獲 CO2等)、人口問題、平和の問題、宗教問題等など待ったなしの問題が山積です。 エネルギーは性質が違わなければ同質のものです。性質次第で規則的に変化します。 註 引力や電子、素粒子の運動もエネルギーですが、同じ量のエネルギーでも違った性質を示すものです。 世界を波動として捉えるか 物質(粒子)として捉えるか エネルギーとして捉えるか。 選択肢は他にもあるかもしれませんが それらも人間の捉え方に過ぎません。 私の推測ですが ヒッグス粒子も素粒子もエネルギーで出来ているのではと思っております。 質量を持つすべての物質やエネルギーは互いに引き合うので そこで循環が生まれる 人間はエネルギーや物質を組織化、秩序化して意識を拡大していくので、エントロピーの増大は止まりエネルギー吸収リサイクル循環型宇宙船が出来る。 全ての物質やエネルギーは光速より速くは伝わりません、これがエネルギー・物質に共通することです。 人間は進化発展していく時期から調和安定するべき時期へと来ています。そのバランスが問題になるでしょう。 ◎ 私の考えは エネルギーと性質が織り成した「存在」が更に存在する為に存続に向かい その存在としての人間が永遠目指して実現する為に 人間の合意と目的意識を持つことが必要と言うことです。 もしよかったら印象や感想を書いてくれると嬉しいです。よろしくお願いしますm(_ _)m
- 《押し籠もり》についての批判です。
基本的にもあらためて批判する必要があると捉え さらにはすでに問うたところの続きとしても 喫緊の課題であると考えました。 これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。 《押し籠もり》とは 引きこもりに対して 《押しこもり》。 あるいは 《突っ張り籠もり》。 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。 ただし 《籠もっている》。 どういうことか? ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。 発信ではなく ただの送信にしかならない。 でも活発である。押している。突っ張っている。 これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差している状態だと思われます。 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。 そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。 体制から落ちこぼれる場合の思想――生活態度――を単純に倫理規範にうったえて批判をする。つまり要するに きみたちは 怠け者ではないかというような批判です。 けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りから受け取る見方考え方を受けつけない。じつは 受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。 半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。 また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。 ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。 KY の場合も同じようである。 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。 これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。 このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。(もしくは 二重帳簿ならぬ二重言語)。 KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。 つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。 したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。 果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか? オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。
- 《押し籠もり》についての批判です。
基本的にもあらためて批判する必要があると捉え さらにはすでに問うたところの続きとしても 喫緊の課題であると考えました。 これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。 《押し籠もり》とは 引きこもりに対して 《押しこもり》。 あるいは 《突っ張り籠もり》。 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。 ただし 《籠もっている》。 どういうことか? ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。 発信ではなく ただの送信にしかならない。 でも活発である。押している。突っ張っている。 これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差している状態だと思われます。 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。 そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。 体制から落ちこぼれる場合の思想――生活態度――を単純に倫理規範にうったえて批判をする。つまり要するに きみたちは 怠け者ではないかというような批判です。 けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りから受け取る見方考え方を受けつけない。じつは 受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。 半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。 また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。 ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。 KY の場合も同じようである。 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。 これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。 このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。(もしくは 二重帳簿ならぬ二重言語)。 KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。 つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。 したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。 果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか? オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。