NemurinekoNya の回答履歴

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  • 《押し籠もり》についての批判です。

     基本的にもあらためて批判する必要があると捉え さらにはすでに問うたところの続きとしても 喫緊の課題であると考えました。  これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。  《押し籠もり》とは  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。  体制から落ちこぼれる場合の思想――生活態度――を単純に倫理規範にうったえて批判をする。つまり要するに きみたちは 怠け者ではないかというような批判です。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りから受け取る見方考え方を受けつけない。じつは 受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。(もしくは 二重帳簿ならぬ二重言語)。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

  • 《押し籠もり》についての批判です。

     基本的にもあらためて批判する必要があると捉え さらにはすでに問うたところの続きとしても 喫緊の課題であると考えました。  これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。  《押し籠もり》とは  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。  体制から落ちこぼれる場合の思想――生活態度――を単純に倫理規範にうったえて批判をする。つまり要するに きみたちは 怠け者ではないかというような批判です。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りから受け取る見方考え方を受けつけない。じつは 受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。(もしくは 二重帳簿ならぬ二重言語)。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

  • 《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》

     《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》  ▲ (イザヤ書  21: 11-12 ) ~~~~~~~  11: セイルから、わたしを呼ぶ者がある。      「見張りの者よ、今は夜の何どきか      見張りの者よ、夜の何どきなのか。」  12: 見張りの者は言った。      「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。      どうしても尋ねたいならば、尋ねよ      もう一度来るがよい。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この詩句と直接にはかかわりがありませんが もしあなたが このように尋ねられたなら どう答えますか?  現代についてのあなたの見方をおしえてください。  問題は何か? 説明してくださってもいいです。  いまわたしたちは どこにいるのか? です。  漠然としたかたちですので――もっともあくまで哲学カテではありますが―― 自由におこたえください。(ただし アンケートではありません)。  ( 前回この問いをたずねてから いくらか経ちました。  A さんがひょっこり顔を出すかも知れないと思って。  さもなければおくりつつ)。

  • 哲学の実践と、「無知の知」

    たぶん「無知の知」は、哲学カテゴリでもつとも頻出する用語だとおもひます。そして、それを否定する投稿を私は読んだことがありません。では、この言葉をどのやうに自分自身にあてはめてゐますか。 私の場合 (1)知らない世界を少しづつでも知つてゆくのが楽しい。本を読んでも既存の知識しか得ることができないので、このQ&Aサイトのさまざまなタイプの人から多彩な意見を聴けるのは貴重である。 (2)自分の知らないことを教へてもらへるのが、ありがたい。そのためには、できるだけ人と接したい。 (3)知らないことや間ちがへやすい人間であることを誇りにできる、もしくは自分を笑へる。

    • noname#214841
    • 回答数15
  • 《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》

     《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》  ▲ (イザヤ書  21: 11-12 ) ~~~~~~~  11: セイルから、わたしを呼ぶ者がある。      「見張りの者よ、今は夜の何どきか      見張りの者よ、夜の何どきなのか。」  12: 見張りの者は言った。      「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。      どうしても尋ねたいならば、尋ねよ      もう一度来るがよい。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この詩句と直接にはかかわりがありませんが もしあなたが このように尋ねられたなら どう答えますか?  現代についてのあなたの見方をおしえてください。  問題は何か? 説明してくださってもいいです。  いまわたしたちは どこにいるのか? です。  漠然としたかたちですので――もっともあくまで哲学カテではありますが―― 自由におこたえください。(ただし アンケートではありません)。  ( 前回この問いをたずねてから いくらか経ちました。  A さんがひょっこり顔を出すかも知れないと思って。  さもなければおくりつつ)。

  • 《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》

     《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》  ▲ (イザヤ書  21: 11-12 ) ~~~~~~~  11: セイルから、わたしを呼ぶ者がある。      「見張りの者よ、今は夜の何どきか      見張りの者よ、夜の何どきなのか。」  12: 見張りの者は言った。      「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。      どうしても尋ねたいならば、尋ねよ      もう一度来るがよい。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この詩句と直接にはかかわりがありませんが もしあなたが このように尋ねられたなら どう答えますか?  現代についてのあなたの見方をおしえてください。  問題は何か? 説明してくださってもいいです。  いまわたしたちは どこにいるのか? です。  漠然としたかたちですので――もっともあくまで哲学カテではありますが―― 自由におこたえください。(ただし アンケートではありません)。  ( 前回この問いをたずねてから いくらか経ちました。  A さんがひょっこり顔を出すかも知れないと思って。  さもなければおくりつつ)。

  • 《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》

     《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》  ▲ (イザヤ書  21: 11-12 ) ~~~~~~~  11: セイルから、わたしを呼ぶ者がある。      「見張りの者よ、今は夜の何どきか      見張りの者よ、夜の何どきなのか。」  12: 見張りの者は言った。      「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。      どうしても尋ねたいならば、尋ねよ      もう一度来るがよい。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この詩句と直接にはかかわりがありませんが もしあなたが このように尋ねられたなら どう答えますか?  現代についてのあなたの見方をおしえてください。  問題は何か? 説明してくださってもいいです。  いまわたしたちは どこにいるのか? です。  漠然としたかたちですので――もっともあくまで哲学カテではありますが―― 自由におこたえください。(ただし アンケートではありません)。  ( 前回この問いをたずねてから いくらか経ちました。  A さんがひょっこり顔を出すかも知れないと思って。  さもなければおくりつつ)。

  • 《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》

     《見張りの者よ 今は夜の何どきか?》  ▲ (イザヤ書  21: 11-12 ) ~~~~~~~  11: セイルから、わたしを呼ぶ者がある。      「見張りの者よ、今は夜の何どきか      見張りの者よ、夜の何どきなのか。」  12: 見張りの者は言った。      「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。      どうしても尋ねたいならば、尋ねよ      もう一度来るがよい。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この詩句と直接にはかかわりがありませんが もしあなたが このように尋ねられたなら どう答えますか?  現代についてのあなたの見方をおしえてください。  問題は何か? 説明してくださってもいいです。  いまわたしたちは どこにいるのか? です。  漠然としたかたちですので――もっともあくまで哲学カテではありますが―― 自由におこたえください。(ただし アンケートではありません)。  ( 前回この問いをたずねてから いくらか経ちました。  A さんがひょっこり顔を出すかも知れないと思って。  さもなければおくりつつ)。

  • 常に自分の中に答えを求めなさい。

    コピペ「常に自分の中に答えを求めなさい。 周りの人や、周りの意見や、周りの言葉にまどわされていはいけません。」 にわかには信じられないです。みなさんは常に自分の中に求めた答えを活用しているんですか?またこのコピペについて何か思うことがあればどうぞ。

  • ひとは 根源的には《共同相互存在》であるのか?

     カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。  ▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~  ( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。  (レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この主題は じつはすでに問うたことがあります。    【Q:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7592307.html  先行する問い求めがあったということの確認のためにも あらためて掲げ じつはそのあとに 別様の主題を問います。  まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。    ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。  ( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(* ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。  ( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。  ( e ) 或る者自身にとっては その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。  ( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名では知られていない(フレムト)からである。    * 引用者註:この( f )は 前後の文脈から言って     意味があいまいであるように思います。  ( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。  ( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するとき そのような《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。  ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が 何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることによって社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性としての接点を成す《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか?  これを問います。  共同存在および中立についての説明は つぎです。  ▼(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~  ( i )  他者とのこのような生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。  ( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・  ( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。   * (引用者註ないし疑問:)《互いに社会共同の存在と    なること》と《それが中性化すること》とは 別ではないか?     《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の    一部分であって それは いわば他者との接点としての    縁側のような側面であるのではないか?  ( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する 事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。  ( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  引用の途中に差し挟んだ疑問について 問います。どうでしょう?  すなわち  ▼ ( i )  ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった   ☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。つまり そこに――社会にあって とにかく人びとと共に――あるなら それは 《にんげん》の生である。のではないか?    すなわち すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。

  • ひとは 根源的には《共同相互存在》であるのか?

     カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。  ▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~  ( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。  (レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この主題は じつはすでに問うたことがあります。    【Q:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7592307.html  先行する問い求めがあったということの確認のためにも あらためて掲げ じつはそのあとに 別様の主題を問います。  まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。    ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。  ( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(* ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。  ( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。  ( e ) 或る者自身にとっては その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。  ( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名では知られていない(フレムト)からである。    * 引用者註:この( f )は 前後の文脈から言って     意味があいまいであるように思います。  ( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。  ( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するとき そのような《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。  ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が 何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることによって社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性としての接点を成す《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか?  これを問います。  共同存在および中立についての説明は つぎです。  ▼(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~  ( i )  他者とのこのような生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。  ( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・  ( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。   * (引用者註ないし疑問:)《互いに社会共同の存在と    なること》と《それが中性化すること》とは 別ではないか?     《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の    一部分であって それは いわば他者との接点としての    縁側のような側面であるのではないか?  ( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する 事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。  ( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  引用の途中に差し挟んだ疑問について 問います。どうでしょう?  すなわち  ▼ ( i )  ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった   ☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。つまり そこに――社会にあって とにかく人びとと共に――あるなら それは 《にんげん》の生である。のではないか?    すなわち すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。

  • ノーベル物理学賞の受賞理由

    ノーベル物理学賞の受賞理由を見てみると、物理法則の発見や、困難あるいは画期的な実験で理論を検証したとかではなく、単純に工学的に優れた機械を発明した人も受賞しているようです。 機械を開発というのは物理学的にはどうでもいいことなんですが、なんで工学と物理学がごっちゃにされてるんですか?

    • kotiya
    • 回答数6
  • 国会→

    国会→行政(バカ)、、、裁判所(行政、×!) これ、基本ですよね。

    • kurinal
    • 回答数3
  • 絶対

    やっちゃ、いけないプレー とは。 レッドカードですよね

    • kurinal
    • 回答数3
  • ひとは 根源的には《共同相互存在》であるのか?

     カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。  ▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~  ( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。  (レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この主題は じつはすでに問うたことがあります。    【Q:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7592307.html  先行する問い求めがあったということの確認のためにも あらためて掲げ じつはそのあとに 別様の主題を問います。  まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。    ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。  ( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(* ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。  ( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。  ( e ) 或る者自身にとっては その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。  ( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名では知られていない(フレムト)からである。    * 引用者註:この( f )は 前後の文脈から言って     意味があいまいであるように思います。  ( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。  ( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するとき そのような《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。  ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が 何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることによって社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性としての接点を成す《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか?  これを問います。  共同存在および中立についての説明は つぎです。  ▼(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~  ( i )  他者とのこのような生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。  ( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・  ( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。   * (引用者註ないし疑問:)《互いに社会共同の存在と    なること》と《それが中性化すること》とは 別ではないか?     《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の    一部分であって それは いわば他者との接点としての    縁側のような側面であるのではないか?  ( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する 事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。  ( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  引用の途中に差し挟んだ疑問について 問います。どうでしょう?  すなわち  ▼ ( i )  ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった   ☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。つまり そこに――社会にあって とにかく人びとと共に――あるなら それは 《にんげん》の生である。のではないか?    すなわち すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。

  • ノーベル物理学賞の受賞理由

    ノーベル物理学賞の受賞理由を見てみると、物理法則の発見や、困難あるいは画期的な実験で理論を検証したとかではなく、単純に工学的に優れた機械を発明した人も受賞しているようです。 機械を開発というのは物理学的にはどうでもいいことなんですが、なんで工学と物理学がごっちゃにされてるんですか?

    • kotiya
    • 回答数6
  • ひとは 根源的には《共同相互存在》であるのか?

     カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。  ▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~  ( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。  (レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この主題は じつはすでに問うたことがあります。    【Q:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7592307.html  先行する問い求めがあったということの確認のためにも あらためて掲げ じつはそのあとに 別様の主題を問います。  まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。    ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。  ( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(* ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。  ( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。  ( e ) 或る者自身にとっては その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。  ( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名では知られていない(フレムト)からである。    * 引用者註:この( f )は 前後の文脈から言って     意味があいまいであるように思います。  ( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。  ( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するとき そのような《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。  ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が 何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることによって社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性としての接点を成す《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか?  これを問います。  共同存在および中立についての説明は つぎです。  ▼(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~  ( i )  他者とのこのような生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。  ( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・  ( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。   * (引用者註ないし疑問:)《互いに社会共同の存在と    なること》と《それが中性化すること》とは 別ではないか?     《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の    一部分であって それは いわば他者との接点としての    縁側のような側面であるのではないか?  ( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する 事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。  ( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  引用の途中に差し挟んだ疑問について 問います。どうでしょう?  すなわち  ▼ ( i )  ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった   ☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。つまり そこに――社会にあって とにかく人びとと共に――あるなら それは 《にんげん》の生である。のではないか?    すなわち すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。

  • エネルギー保存

    長さlの棒に質量mのおもりがつけれれた単振り子を考える。x軸は水平方向と平行、y軸の正方向は鉛直上向きとする。時刻」tにおいて棒と鉛直下向きがなす角をθ(t)(反時計回りを正)とする。 xy座標でのエネルギー保存を求めよ。 全くわかりません。詳しい解説お願いします。

  • 線積分

    xy面上のスカラー場f(x,y)=xyに対し、線積分∫[C]drfを求めよ。 ただし、積分経路Cは(0,0)→(1,1)を結ぶ経路である。 C:x = t, y = t  (t=0~1)  dx/dt = 1  dy/dt = 1 ∴ ds = {√((dx/dt)^2 + (dy/dt)^2)}・dt = √(2)dt ここからどうすればよいのですか? 詳しい解説お願いします。

  • エネルギー保存

    長さlの棒に質量mのおもりがつけれれた単振り子を考える。x軸は水平方向と平行、y軸の正方向は鉛直上向きとする。時刻」tにおいて棒と鉛直下向きがなす角をθ(t)(反時計回りを正)とする。 xy座標でのエネルギー保存を求めよ。 全くわかりません。詳しい解説お願いします。