littlekiss の回答履歴

全1968件中641~660件表示
  • 「手本」の対義語

    小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。

    • ri_rong
    • 回答数26
  • 無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

     おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ そこでは   ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。  ☆ と言います。では   ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?  ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?  納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

  • 「手本」の対義語

    小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。

    • ri_rong
    • 回答数26
  • 無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

     おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ そこでは   ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。  ☆ と言います。では   ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?  ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?  納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

  • 驕りとは何ぞや

    頭の良い方(できれば東大、京大生)、視野が広い方、(くだらないことかもしれないけど)思索をよくする方にお尋ねします。 驕りってなんなんでしょう?そしてどうすればよいでしょう? 私は自意識過剰で人に見せることばかりを考え、自分のやりたいこともわからないし、(謙虚になって)自分をちゃんともっていないので色々矛盾したり混乱し、気もそぞろに生きています。 私は驕っていないときはしっかりした人間だし、頭脳明晰で、とても魅力があり人気者になるのです。というのは過去にそうだったし、今も瞬間的に驕りが消えたときそうなのだとわかります。 しかしいつからか驕りがひどくなり、自分を保っていられなくなりました。私は外見においても才能においても昔から人より優れて尊敬されていて、驕ってしまうだけの正当な理由があったと思います。しかし苦しめられています。驕ると浅薄になって才能も失います。 ゴーゴリの小説に「肖像画」という小説がありますが、今の私はあんな感じです。今後目を開くときがあったら、たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。 驕りについて感じるところ、教えてください。 驕りってなんなんでしょうね?とても不思議じゃないですか?

  • 間違った解答についてどうするのがいいのか?(質問主側)

     OKウエーブでこちらが質問主で質問をした所 回答をいただきましたが回答が少しおかしいなと思い 調べたら間違った回答でした。 どの様な行動をした方が良いでしょうか? 現状は質問は締め切っていません。 補足は書いていません。 お礼は書いています。

  • 16世紀のヨーロッパ人

    16世紀のヨーロッパ人の日本人観

  • がい数の教え方(小学4年生)

    教え方に疑問があったので正しい方法をお教えください。 ワークでの問題は  次の和を千の位までのがい数で答えましょう。         46642+51673 教科書では先にがい数にして47000+52000=99000とするように教えているようです。 ワークの答えも99000となっています。 しかし、46642+51673=98315で、がい数で答えるなら98000が正しいはず。 先にがい数にするのと後からがい数にするのでは、大きな誤差が出る場合があることは大人たちは経験上で知っているでしょう。 特に私は技術者でもあり、先に概数にするようなことは、社会においてはやってはいけないことと思っています。 教え方とワークなどにある問題とその答えに納得がいきませんが、テストで99000が○で98000が×をつけられるなら、成績のために先にがい数にする方法で教えるべきなのでしょうか?

  • ブッダの美女マーガンディヤー事件

     いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ブッダの美女マーガンディヤー事件

     いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

     《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。  その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり   ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち   ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。  ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。  ☆ これはなぜか?   いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。  以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。  ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html  ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。  ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。  現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論としてですが  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。  ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。

  • ブッダの美女マーガンディヤー事件

     いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

     《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。  その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり   ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち   ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。  ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。  ☆ これはなぜか?   いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。  以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。  ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html  ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。  ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。  現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論としてですが  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。  ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。

  • 《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

     《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。  その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり   ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち   ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。  ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。  ☆ これはなぜか?   いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。  以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。  ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html  ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。  ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。  現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論としてですが  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。  ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。

  • 《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

     《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。  その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり   ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち   ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。  ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。  ☆ これはなぜか?   いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。  以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。  ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html  ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。  ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。  現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論としてですが  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。  ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。

  • 回答ともいえないようなものに「参考になった」とは?

    ただの冷やかし、皮肉、荒らし的回答に対して、かなりの件数の「参考になった」が入っているのですが、なんでなんでしょうか?

  • おじさんの苦手なこと・・・

    おじさんの苦手そうなことというと、何が頭に浮かびますか? 具体的に、身の回りのおじさんの事例でお答えいただくのも、ありがたいですね。 宜しくお願いします。

  • 心の柔らかさ

    ああ、そうだね! なるほどね! まぁそりゃそうだわな。 という人が少なく いや、それは違う いや、それは考え方がなっていない(おれの考えは常に正しいのだが) わけがわからん、こいつは(無条件に)バカだ という人が多いのは何ででしょうか?

  • 人に対する普通・普通じゃない(異常)という評価・区別に意義があるんでしょうか。

    あの人は普通じゃない、普通だ、変だ、変わっている。 こういうことを言う人がいますが、こういう評価・区別それ自体には何か意義があるんでしょうか。 語るべきなのは具体的に何が起こるかだと思います。 変だからどうのというのはいじめっ子の感情論と変わらないと思うし、普通かどうかが良し悪しの事だと思っているのだとしたら本末転倒な気がします。 なので普通だとかははっきり言ってどうでも良い話だと思うんですが・・。 もしかしたら人は取り合えずそういうグループに分けたがるものなのかもしれませんが。倫理の先生が、人は自分が普通だと思って安心したがると言っていました。 実際のところどうなんでしょう。

    • noname#97419
    • 回答数16
  • 返事はするけど、それに伴った行動をしない人の心理

    返事はするけど、それに伴った行動をしない人の心理ってどうなっているのでしょうか。 子供も夫も何かをするように指示すると、決して反抗的な態度ではなく、返事をするのです。 時には嫌そうに言う事もありますが、大抵は普通に「する」と返事をします。 けれども実際にはしなかったり、するまでにかなりの時間を要します。 この心理はどうなっているのでしょうか?

    • noname#128382
    • 回答数8