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映画砂の器で
映画砂の器で 刑事が東北の亀田に 調査に行ったのは シナリオ的に何の意味があるのでしょうか? 全く不必要なくだりだと思うのですが?
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- jasko
- ベストアンサー率24% (478/1966)
>亀田で謎の男を追わせるように 犯人が仕組んだとすれば 刑事が亀田に注目したという 情報を犯人はどうやって 手に入れたのでしょうか? >また犯人が仕組んだとする 証拠は映画のどこに 描かれていますか? この二点に関してですが、無駄な部分なので省略したのです。 秋田の亀田ではなくて、実は出雲の亀嵩だったというのは「砂の器」の唯一のトリックみたいものですが、原作者・松本清張がこのミステリを書いた時の芯となるアイディアだったのです。東北弁が東北でないところにもあるんだ!というのが、まあ味噌なわけです。 亀田に現れた謎の男は犯人なんでしょうけど、それが犯人だろうと、全くの赤の他人だろうと、映画的にはどっちだっていいのです。 東北ではなく出雲だったというサプライズを描けたからよかったのです。犯人と警察との闘争におけるサスペンスに全く重きを置いてない話にしてしまったのです。原作の方がもっと犯人は策を弄していて推理小説ぽいところもありましたが、映画では犯人の過去を奪いていく人間ドラマに仕上げてしまいました。ですから。あなたの抱いた二点の謎の答えは映画では描かれていないのです。 「砂の器」は名作ですが、辻褄のあった推理ドラマではないのです。
- jasko
- ベストアンサー率24% (478/1966)
そのシーンに関しては「君らしくない無駄なシーンだ」と黒澤監督は脚本家の橋本を叱ったそうです。あなちも同意見というわけですね。 「砂の器」は相当いびつな作品です。ミステリー的な謎解きがなく、クライマックスは親子のドラマになってます。東北の亀田に怪しい旅行者が出没し、刑事がその足取りを追うというのは、犯人が捜査陣のを目をくらますために仕組んだミスディレクションです。唯一のミステリー的な犯人と刑事の闘争の件なのです。あれがないと犯人は被害者の身元を隠すために顔のない死体を作っただけで、後は何もしていないことになり、ミステリー的な闘争がなくなってしまいます。手紙を破いて捨てる女のシーンも本作の象徴ではありますが、あれが逆に決め手となってしまったので、犯人側の仕掛けたトリックではなく、失策です。 要するに犯人の仕掛けた積極的なトリックとしての意味があるのです。また、そのせいで東北から山陰までのディスカバージャパンのトラベルミステリーとして映画のスケールを広げることができました。映画の箔付け的にも必要だったのです。
お礼
ありがとうございます 亀田で謎の男を追わせるように 犯人が仕組んだとすれば 刑事が亀田に注目したという 情報を犯人はどうやって 手に入れたのでしょうか? また犯人が仕組んだとする 証拠は映画のどこに 描かれていますか? よろしく解説をお願いいたします
- lolipop-sapporo
- ベストアンサー率23% (760/3195)
松本清張の原作をお読みになることをお勧めします。 原作にもある設定ですし、必要不可欠なくだりですけどね。
お礼
ありがとうございます 本は書くだけでタダで出来ますから ダラダラと無駄も許されますが 映画はもっと緻密でなければ 関わる多くの人間の 人生を浪費してしまうんですよね
- gsmy5
- ベストアンサー率58% (1457/2504)
そんなこと言ったら、新犯人につながらない手がかりや捜査のシーンは、すべて無駄・意味がないということになってしまいますが、捜査員が東北訛りに聞こえる「カメダ…」を聞いて、いきなり「これは東北弁に聞こえる出雲弁だ、出雲に亀田はないが亀嵩ならある」と亀嵩に捜査に行ったとして、それを面白いと思う人がどれだけいるでしょうか?どちらかというとご都合主義のつまらない作品に見えてしまうように思いますが… 実際の捜査手法としては、東北訛り地域の亀田を片っ端から調べたが、該当はなく途方に暮れたところに出雲弁に気づくという形でしょう。その片っ端から調べる一例として東北の亀田に行ったシーンを入れたことがそんなに無駄であるとは思えませんが…
お礼
ありがとうございます よいシナリオであるならば 無駄足に思えた捜査が 最後コンステレーションとして 響き合うものですよね そもそも人生に無駄など無いですよね なまりの共通性を劇的に 演出したいなら もっと短い時間と 組み立てで出来ますよ
- chiychiy
- ベストアンサー率60% (18729/31183)
こんにちは 映画ではないですが 意味はなくないと思います。 元々が、東北弁と出雲訛りを間違えたところからですよね? ただ行っても無駄足なので、 仰るようにそのシーンはなくても成立はすると思います。 映画ですから、地方の情景も画にいれたいということも あったのかもしれませんね。
お礼
ありがとうございます この映画とよく一緒に語られる 飢餓海峡ですが 飢餓海峡は全く無駄のない 全てが響き合うシナリオを持つ名作ですが この映画は東北の亀田の シークエンスが全体に響いておらず 駄作となってしまっています
お礼
ありがとうございます おっしゃることはよくわかりました 事実は小説よりも奇なり とは良く言われることですが 現実は確かに不思議なコンステレーションに よって紡がれており もしこれを そのまま小説に書いたなら そんな都合のいいようにはならないよ! と読者は言うもんだから 小説家はそこを現実の世界の特異性を レベルダウンさせて奇異に感じない ように書き上げます 砂の器も飢餓海峡も世話になった人を 殺してしまう物語ですが その普通あり得ない行為にリアリティを 付与するために 砂の器は亀田と亀嵩の 現実を また飢餓海峡は岩内の火災と 洞爺丸台風をリンクさせました わたしが感じるのはそのリンクの させ方の砂の器の駄作感であり 飢餓海峡の名作感なのです 全てが響く構成が出来ているかどうか? ちなみに洞爺丸台風が下北を襲う当日 沢蟹が群れをなして山に逃げる様が 目撃されております 運命 宿命の 凄絶を感じます たとえ砂の器の犯人が亀田で 捜査撹乱を企んだとしたとしても どうでもいい人間のくだらなさだけが 鼻につきますね!