天皇家と仏教寺院とのつながりが強かったのは歴史的に明らかです。
それこそ、「大化の改新」では、表向きは仏教という外来思想を日本に受け入れるかが政権争いのキーポイントだったのです。それ以後、日本に仏教が正式に入り、国家鎮護の宗教として天皇家が大事に保護しました。
問題は、明治期における転換です。
明治政府の神仏分離令が起点となり、廃仏毀釈の嵐が全国津々浦々で吹き荒れました。
明治政府が、国家の宗教として「神道」を選択したからです。
そして、明治9年には、宮内庁が京都府下にある各寺院に奉安されている「尊牌・尊像」を、京都の泉涌寺に納めるように通達がでています。
あなたが言うように天皇の位牌はあるのです。
ただ、それは明治時代に多くのお寺で作られたのではなく、明治期になり京都の泉涌寺に集められたということです。
つまり、歴史的には天皇家は仏教徒深いかかわりがあるのですが、一方では明治維新により国家宗教となった「神道」の歴史を改めて掘り起こす作業が行われました。
ただ、日本の「神道」のルーツも、元をたどれば中国の道教にあるようだという研究があります。
福永光司『道教と日本文化』のよると、日本の神道のなりたちに道教がそのはじまりから関わっていたと言います。
「日本書紀」で初めて用いられている「神道」の語は、「仏法」と対立する語として、中国の道教で古くから用いられている「神道」の語をつよく意識して取り入れられたものです。
日本の古代にあった天神の子孫が天上世界から地上の世界に降りてくるという信仰は『詩経』に原型があり、道教の教理学においても、天皇大帝の命令をうけた神仙が天上からおりてくるという考え方が重要な役割をはたしています。
一月元旦に天皇が宮中でおこなう四方拝の儀式は、「これこそ中国における道教の宗教儀礼をそのまま日本の宮廷にもちこんだもの」と言えます。
「古事記」の原文は、筆者太安万呂が道教にくわしかったことを示しています。
まあ、日本文化はチャンプルー文化ですから、「神道」もあり、神仏習合もありということでしょうか。
言い忘れましたが、仏教と位牌は直接の関係はありません。何故なら、位牌は儒教からの借り物だからです。
儒教では神主(じんしゅ)、木主(ぼくしゅ)と呼ばれる大きな板に故人の名前や事柄などを書くのです。それは、書いた名前の文字などにも霊魂が宿るという考え方のよるものです。それが日本ではコンパクトになりミニになり、仏壇に入る大きさになったのです。