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生きるとは
生きていると、予測していない出来事、不満、不安がたえずあります。それらをのりこえるため最善の努力をしたり、努力してもよい結果がでるとは限らない。 でも、幸せになるためには努力するしかない。父が昨年他界し、母も高齢でいつかは他界する。自分もいつかは年をとり死ぬ。 最近、生きることや人生について考えます。そして人は死ぬとき何を思って死んでいくのでしょうか?
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〇〇だったけれど、それでもいい人生だったな と思い、死ぬ・・・と思います。 それか そんな考えてる状態ではないので、無意識に 自分が死ぬとも感じず、死んでゆく。 @でも、幸せになるためには努力するしかない やっぱりこれなんです。 自分の人生、楽ばっかして生きてきたな ちょろかったな なんて誰も思わない 自分なりに努力し、もがき、あらがい・・・が人生 なんだから、最死ぬときは 自分で自分を認めるしなかい、と思うんです。 自分の努力や知識なんてのは、満ち足りることがないのだから 最後まで反省 なんだけど 最後は自分を認める。 〇〇だったけれど、それでもいい人生だった この〇〇の部分は、人によって違う そんなようなことを思いました。
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- sakura-333
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ちょっとそれは人それぞれすぎて・・ 個人的には命を繋ぎ続けることにすら何の意味があるのかわかりません。 他の生き物でも本当にそのためだけに生きてるようなのとかいますよね。 どの生物も一生懸命生きているのでしょうけど、その先に何があるのだろうかと・・ 漠然と続いていますよね。 それを言い出すとウイルスなんかもそうなんですけど。
- pipipi911
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《何を思って死んで》行くのかは、 ケース・バイ・ケース、人それぞれではないでしょうか。 私は、昨年、或る病気で入院中の深夜に、或ることが 起きて、血圧が激減して、ヤバかったのですが、 幸い看護師さん & 宿直ドクターの冷静な処置のお蔭で、一命を 取り留めたのですが……痛み苦しみとかは一切なく、また、 何かを考えたとかもありませんでしたし、あの時、あの侭、 逝ってしまっていたとしても、ス~ッといった感じで、 感覚的には地獄とも極楽とも、ご縁がなかったように 感じられていました。 あの状況では、アナタ様、或いは他のどなたが 私の立場にあったとしても、負の感情・感覚に苛まれて 苦しみ懊悩したということはなかったのでは ないでしょうか。 [人生とは、素晴らしいことと、煩いことのアマルガムだ!]とは、 『チボー家の人々』の著者である Martin du Gard の言葉なのですが、 私は、人生は、創意工夫の日々、デザイン力(=問題解決力)の異名 なのではないかと思っております。 ふろくI: 「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。 (正岡子規『病牀六尺』21章)」 ふろくII: [人は、不幸な出来事によって不幸になるのではない。 そのことを不幸だと思うから不幸になる。(Viktor・E・Frankl)] [与えられる喜びではなく、与える歓び。その中に、人生の本質が 存在しているのです。 (Gérard Chaudry)] 余計なことばかり書いてますが: 「仕事に対するときは上機嫌でやれ。そうすれば仕事も捗るし、 身体も疲れない。 (Adolf・Heinrich・Wagner)」 といった感じで、素晴らしいデザイン(=問題解決)を し続けて参りませんか。 問題解決の有力なツールである 「マインドマップ」を活用して、アナタ様のデザイン力 (=問題解決力)をアップさせて、諸問題をクリアしてみませんか。 書き方は、検索すれば解ります。 Good Luck. Adieu.
お礼
深いアドバイスありがとうございます。
- pct10968
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例え誰も看取る者が居なかろうと、死ぬ間際「いい人生だった」と思って死ねるよう今は生きたい。
- doraneko66
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人は?と言う全体的なことではなく、あなたは何を思うかだけであり、人それぞれの話だと思います。 人それぞれの人生だから、聞く意味がない話でしょう。
お礼
回答ありがとうございます
80数歳の男です。今月誕生日があります。 歳をとると結構良いことがあります。 あの悩ましい性欲からの解放もその一つです。死に対する、より安定した対応も嬉しい贈り物です。 性欲、禁欲、名誉欲などを超越しないまでも、気にしなくなります。人間を少し超えられそうです。隣の公園の桜の樹の気持ちに添えるような気がします。 サツキの花がいま盛りです。でも、一カ月も経つと散ります。隣の大学の敷地に長年立っていた色々な樹木が、老木となり昨年伐採されました。 私もそれと同じなのです。今コロナのために蟄居生活をしています。本屋に行こうかと思っています。本屋に行ったために、コロナに感染してしまうかも知れません。 今は、若し感染すれば、免疫が衰えて居るので、ほぼ100%の確率で天国にいくと確信しています。だからといって、特にナーバスになって居るのではありません。サツキの花のように淡々と散るだけです。 「そして人は死ぬとき何を思って死んでいくのでしょうか?」、とのことですが、当然の死ですから、特段の感慨も湧きません。私が死ぬ日に沢山の子どもたちが生まれます。 そう考えれば、歳を重ねることは、素晴らしいことです。神が私に与えられた一生に一度の贈り物なのです。 でも、80数歳まで、病気もせず、犯罪も起こさず、離婚もせず、子供を一人前に育て社会に送り、回りの人も争いもせずに、生きてきたということは、自分ながら素晴らしい事業だと思っています。 読んで頂き、ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます
- eroero4649
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>生きていると、予測していない出来事、不満、不安がたえずあります。 価値観は人それぞれですが、私なんぞは全て予測できるような出来事しか起きない人生ならば、なんと退屈なことよと思いますよ。 今をどう生きるかを考えないで死ぬ時のことばかりを考えるのは、レストランで食事をしているときに味を楽しまないで会計のことばかりを考えているように感じます。せっかく食事をしているなら、食事を楽しむべきじゃない?
お礼
回答ありがとうございます
お礼
回答ありがとうございます。 人生は、やはり自分自身で切り開いていくしかないですね。自分の人生なのだから。