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今でもクリスチャンだと言ってもいいのでしょうか?
初めまして、こんばんは。 私は高校生の時に同級生が牧師の息子ということもあり、卒業する少し前までバプテスト教会へ行っておりました。 その時に姉妹のバプテスマを見て感動し、救われた姉妹を見て神様からの愛も同時に感じることができ、私もクリスチャンになったのですが、卒業してから疎遠になり、かれこれ教会へ行ってません。 今はクリスチャンらしい行いも、ノンクリスチャンを導くこともしていません…。 しかしツラい時や嬉しいことがあった時は、心の中でお祈りしてます。 神様への奉仕も出来てないこんな私でも、心から祈りを捧げれば、神様に届きますでしょうか? またこんな私でも今でもクリスチャンだと言ってもいいのでしょうか…。
みんなの回答
- 築山 直弘(@1685)
- ベストアンサー率18% (5/27)
初めまして、僕はカトリックです。質問者様のお気持ち、痛い程わかります。 けれども、辛い時や嬉しい事があった時には、心の中でお祈りを捧げていらっしゃるのでしょう? きちんと神様に届いていますよ。質問者様は今でも立派なクリスチャンですよ。 僕だって教会に通わなかった時期が有りましたけど、その時は心の中でお祈りを捧げていましたから…。 ところで、バプテストではカトリックの「主の祈り」に当たる部分はあるのでしょうか?気になります…。
- cactus48
- ベストアンサー率43% (4480/10310)
まずクリスチャンになるには、神父や牧師から洗礼の儀式を受ける 必要があります。洗礼を受けてませんから教会ではクリスチャンと しては認められていません。 あなたの場合は洗礼は受けてませんが、気持ちだけクリスチャンの ようです。 仏教徒でも教会に訪れても構わないと教会では言っていますから、 仏教でもクリスチャンでも祈る事が大切だと言われているので、祈 る気持ちがあるなら教会に行かれて構わないと思います。 ただ何度も書きますが、洗礼を受けない限りはクリスチャンを名乗 る事は出来ません。自宅が仏教徒であるなら、家族の同意がなけれ ば宗教を変える事は出来ません。クリスチャンになりたいなら、家 族を説得しましょう。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7250)
生きること自体が神様に奉仕していることだと、牧師は教えてくれませんでしたか。発作的に死を選んだりせず、嫌なことがあってもそれを払しょくして生き続けることは神の心に合っているのです。 これはカトリックと違うプロテスタントの教義、考え方です。人を宗教に導くというのはカトリックの発想法であり、いまの法王の出身であるイエズス会なんかの考え方です。別に間違っているとは言いませんが、この手法考えかたが植民地を侵略していくことに役立ったのは事実ですから、その歴史を正視する義務はあると思います。 ということで、特定の宗教名を出して何かいうのはよくありません。あなたがあなたの信じる論理で人にアドバイスすることに「クリスチャン」の言葉を使う価値はほとんどありません。 あなたはときどき聖書を読み、人を説得するための方法とか考え方の切り口を仕入れていけばいいのです。それはクリスチャンとしての行動です。しかし人に押し付けるべきことじゃありません。 あなたは相手の幸せを考えて行動すればいいのです。それは天然の理にあっているいることです。それをあなたがクリスチャンとしてのプライドを持ってやればいいというだけです。 この考えかたは、どの牧師に話しても合意していただけるはずです。
- marissa-r
- ベストアンサー率21% (634/3008)
洗礼を受けているのであれば、そうなのでは?
- qwe2010
- ベストアンサー率19% (2193/11072)
宗教を、信じる人は、欲深い人なのです。 お祈りすれば、又、神様に何らかのお供えをすれば、お祈りしたことをかなえてくれる、と洗脳され、思い込んでいるのです。 欲深い気持ちになっている、つまり、あなたは、自分のことを、自分で解決することを放棄して、遠い昔に死んで何もできない人に、頼ろうとしている現状を見れば、立派な、クリスチャンです。 神様にできることは、自分の心に安らぎを与えてくれることだけです。 それ以外のことは、何もできません。 でも、本当は、神様が、安らぎを与えてくれているのではないのです。 自分で、神様と言われる道具を使って、自分の心をコントロールしているだけなのです。 お祈りでは、何も解決できません、 自分で体を動かせることで、考える事で、工夫することで、どうにかなります。 お祈りすることよりも、努力することで、人生を乗り切ってください。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
宗教なんてものは全て「自称」です。イスラム教徒は戒律に厳しいみたいに言われていますが、全ての人が従っているわけではなく、酒を飲む人もいればハラール認証を受けていないものでも食べる人もいます。日本の仏教などはもっといい加減で、日本の僧侶は結婚もすれば生臭物でも平然と食べます。それでも「仏教徒」なのです。今に始まったことではなく、親鸞などは自らそう言ったことをやって来たし、一休宗純には愛人がいたことも知られています。