※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:天理教の母の死後について。)
天理教の母の死後について
天理教の信者である母に付いてご質問します。
縁起でもない事ですが、母(75歳)が他界した後の事で悩んでおります。母は今から、自分が死んだら天理教の墓に入れて欲しい、と言っています。大きな蔵のようになっていて、そこに信者さんのお骨がいっぱい入っているお墓です。現在祖母もすでに入っています。
私は信者ではなく、小さい頃は祖母に連れられてよく教会へ行きましたが、今はまったく出入りもしておりません。母は祖母の死後熱心な信者になりました。
母や祖母のお骨をお願いすると、私は天理教との縁を切ることが出来なくなり、もっと先を考えたら私の子供たちも背負って行かなくてはならなくなります。
かと言って母の希望を死んだ後に裏切るのはとても勇気がいることです。
天理教の墓参りは、毎年8月18日に蔵が開けられます。その日の行事に参加しないと、墓参りは、閉じられた蔵の前でひっそりとするしかなくなってしまいます。
かといって、私は今は一人身で、家の墓を建てる余裕もありません。出来たら何処かのお寺に預けたいと思っているのですが・・・これは親不孝でしょうか。
よろしくご回答をお願いします。
お礼
ご回答ありがとうございます。おっしゃる通りが筋だと思います。元々は祖母が、母の結婚前からの天理教の信者です。父と母は私が幼い頃に離婚してしまい、私が知っている範囲では、祖父も天理教のお墓に入っています。ご先祖様の事は私はよくは知りません。 私には弟がいますが、結婚の際に養子となってしまい、この家の事は、今は私が責任を持って考えないといけない状態です。 天理教が「良い」と言われるのは、よく分かります。私も小さい頃からお世話になりましたし、悪くは思っておりません。ただ、私は信仰するつもりはないのです。母を見ていると、現実問題で考えなくてはいけない事を、すべて神に祈る事で済ませてしまっている所があり、「祈る」という事はいけない事とは思いませんが、生きていく上でその前にやらなければいけない事を後回しにしているように感じるのです。そんな母を見ていると、私はあんな風にはなりたくないとずっと思っておりました。私は「神」というのは人それぞれの「心」の中にいると思っています。手を合わせるという動作は心が休まります。私も辛い時はそっと自分の心に手を合わせたりもしますし、空を仰いで亡くなった祖母に祈ったりもします。思い出してあげる事が一番の供養だと感じています。 ご助言ありがとうございました。またゆっくりと考えてみます。