• 締切済み

三谷新撰組・・・

なんだか、土方さんの我侭で、皆が死んでいくふうにしか、見えないんですが・・・ 近藤さん&土方さんって、理想は高いけど、頭が悪いっていうか・・・土方さんなんか以前、賄賂なんか用意してたし。 土方さんを抹殺する動きが、新撰組にないのが不思議な位なんですが・・・史実では、土方抹殺派っていなかったんですか? 又、永倉&一さんが、幕府側についてた割に、長生きして上級公務員的職につけたのはなぜですか? 彼らはなぜ、発狂せずに、刀生活から近代生活に順応出来たんですか? 自分が彼らの立場だったなら、近藤さんが処刑された事もあって、辛くて悲しくて、生きていけなかったと思うんで。明治時代に順応、出来る自信がないっていうか。

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回答No.4

>近藤さん&土方さんって、理想は高いけど、頭が >悪いっていうか・・・土方さんなんか以前、賄賂 >なんか用意してたし。  賄賂を用意したことと頭が悪いことは結びつかないと思いますが…?現代と幕末とでは賄賂に対する感覚も違うでしょうし。  大河ドラマの近藤は優柔不断すぎるというか…史実ではもっと近藤がてきぱきと判断,決断していたと思うんですけどね。「みんな近藤さんについていく」とか何とか言っているけど,あんな優柔不断な人があそこまで,心酔といえるほどの信望を集められるとは思えません。 >なんだか、土方さんの我侭で、皆が死んでいく >ふうにしか、見えない  まだ,「皆」というほど新撰組内では死人は出てないと思いますけど,芹沢一派のことを指しているのであれば,私は土方のわがままとは思えませんけど。これもドラマでは近藤(側)を正義に仕立てるために芹沢(側)を悪役にしすぎている感があり,史実ではあそこまでひどくなかったろう,と思っておりますが,あのドラマのような芹沢派であれば,粛清やむなしでしょう。幕府側の信頼,支持を得なければ隊そのものの存在が危うくなるような状況下でそれらを失うような狼藉を頻発していたのですから。粛清とは言わずとも何らかの形で追放はせざるを得ない,と私は考えています(あくまでドラマ内での話。)。  殺したのではありませんが,原田左之助を謹慎させたのも至極当然の判断だと思います。不条理といえば,山南以下留守部隊に手当を出さなかったことでしょうか。あれはどう考えても理不尽な話だったといえましょう。

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  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4902/10363)
回答No.3

>近藤さん&土方さんって、理想は高いけど、頭が悪いっていうか・・・ 我々は結果を知ってますからそう思えますけど、まだドラマのこの時点で「幕府を倒すべし」と思っていたのは、中下級公家の一部と、一部の藩の中下級武士の一部だけですから。 幕府側の人間(多摩は天領)が、幕府に歯向かうものを倒そうとするのはある意味当然。 近藤が八木家の伊東四郎に考えを聞いていましたが、「京の街を焼こうとしている者はたとえどんな理由があれども、どんな手段を取ってでも止めるべき」かどうかを江戸の人間である自分たちでは判断出来ないと思ったわけで、史実かどうか知りませんが、近藤の偉さを示すエピソードだと思います。

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  • alive2004
  • ベストアンサー率58% (126/216)
回答No.2

◎『土方さんの我侭で、皆が死んでいくふうにしか、見えないんですが』 うぅぅん、その様な解釈も有るのかとは、思いますが・・・ ◎1868年流山(現在・千葉県)で、近藤の切腹を思いとどまらせ、その後「勝海舟」らに近藤の助命嘆願をし、宇都宮城の戦いで負傷しながらも、「新撰組」を復活させ(しかし負傷の為・隊長は斉藤一)後に、会津・猪苗代・・仙台・青葉城と転戦し、同年12月に「箱舘政権」の陸軍奉行補佐となり、1869年(明治2年)5月11日、奇しくも近藤と同じ、享年35歳で銃弾に散るまで「志を貫徹」したと、小生は感じているのですが・・・。 それが、今後どう描かれるのかは、興味のある処です。 ◎『長生きして上級公務員的職』については、近藤と袂を分けた永倉は、原田左之助らと「靖共隊」を結成して、独自に戊辰戦争を戦いましたが、戦争の無意味さを感じ江戸に戻った後、出身の松前藩に戻り医者の養子となったそうです。 ◎名を杉村義衛とした、永倉は新撰組の慰霊碑を建立しました。それには「近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓」と正面に刻み・左右に新撰組109名の名が刻んで有ります。 東京・板橋http://www.toshizo.com/aruku/index.html ◎その後明治15年に、ご質問の「北海道・樺戸監獄(当時は集治監)の剣術師範に任官」(約4年間)されました。 大正4年1月5日77歳の天寿を終えたとの事です。 ◎また、斉藤一は会津藩と行動を共にし、下北半島で旧会津藩士らと逆境を乗り越え、明治7年に東京に戻り、旧会津藩主・松平容保から藤田五郎との名を受け、旧会津藩士の娘と結婚、明治10年警視庁・警部補として出仕、直ぐに700人の部下を持つ役目にも就いたのは、元新撰組の凄腕との名声がまだ残っていた、との説も有る様です。 ◎その後、警視庁退職、東京(教育)博物館監守や女子高等師範学校の書記等を勤め、これも奇しくも永倉と同じ、大正4年(1915.9.28)に72歳で没したとの事です。 ◎以上、ご参考まで・・・・

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回答No.1

私も正直、そう思っていました。本気で国のことを考えているというより、自分たちの自己実現のために好き勝手やっているようにしか見えない。特に池田屋事件の時、近藤さん&土方さんが長州藩の人に「おろかなり」と言われてましたが、まさにそのとーり!と思っちゃいました。でも、そのバカっぽいところが逆にすごい魅力でもあると思うんですけど。ちなみに、永倉さんは比較的早い時期に新選組とは袂を分ってたと思うので、長生きしても不思議ではないのでは?斎藤さんは確か、のちに警察になったんですよね。。 命をかけて誰かを守るとか、自分の信念のために死ぬといったことは現代ではちょっと考えられないことですが、当時はそれが珍くもなかったわけですよね。近藤は少なくとも納得して死んでいった、と周囲は理解していたと思うので永倉や斎藤も発狂することはなかったのでは?

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