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織田信長の魅力や功績はどんなものがありますか?

織田信長の人物的な魅力や歴史的な功績はどんなものがありますか?

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  • IXTYS
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回答No.6

こんにちは。 織田信長の功績は数々ありますが、 (1) 鉄砲を武器として実用化し、戦術面で大きく発展させている。 (2) 15世紀に始まった応仁の乱で乱れに乱れた戦国の世に天下平定の道筋を開いた。 (3) 当時渡来してい来たキリスト教宣教師とも交流を持ち、広く世界の情報に接していた。 (4) 未だ尾張の小大名に過ぎなかった頃より、大阪の堺に頻繁に足を運び、重商主義の可能性の大きさに着目、市場経済性にも目が開かれ、すぐれた指導者だった。 (1) 鉄砲を武器として実用化し、戦術面で大きく発展させている。 1543年、九州の種子島に漂着したポルトガルの商人が齎した二丁の鉄砲でしたが、薩摩藩より本土に伝えられ、 大阪の堺で分業制により大量生産が始まります。 戦乱の世、実力主義で淘汰され、戦国大名が台頭する時代に鉄砲は格好の武器となります。   信長は尾張の熱田港を発展させ、堺-熱田のホットラインを築きます。 鉄砲戦術の名手と目されていた雑賀衆(さいかしゅう)とも早いうちから接触。 彼らの編み出した少数部隊によるゲリラ戦法にも精通し、採用にも積極的でした。 戦乱の世を平定させ、天下布武を実現させるのは鉄砲だと見抜いていたのです。 時代を見抜く洞察力。 織田一門には他の戦国大名にない優れた洞察力が備わっていたのです。  (2) 15世紀に始まった応仁の乱で乱れに乱れた戦国の世に天下平定の道筋を開いた。 若いうちから『天下布武』を標ぼうし、宣言してもいます。 天下を治めるにはライバルたちを倒さなければなりません。 そのためには経済を発展させ、軍事費用を捻出する手腕が不可欠。 そのための人材も育成し、 日本国統一の道筋を開きます。 先ず、副将軍で関東管領だった上杉謙信とも親交を深め、明智光秀を通して足利義昭を迎え、上洛。 室町幕府を再興し、その後、義昭を失脚させています。 この次は自分が将軍の座に就くのだと予告編を天下に示したのです。 天下統一後の新しい日本の未来像にもビジョンを見せています。 今は跡形もありませんが、安土桃山城には新時代のイメージが満載されています。 彼が統一していたら、南蛮貿易だけでなく、蝦夷、樺太、千島列島まで海洋交易ルートの開発をしていたに違いありません。 彼は船乗りでもある雑賀衆の起用も上手でした。 この雑賀衆は秀吉に疎まれ日本の歴史から姿を消してしまいます。 信長が生きていたら、雑賀の時代になっていたと思われます。  (3) 当時渡来してい来たキリスト教宣教師とも交流を持ち、広く世界の情報に接していた。 マントを羽織り、ブーツを履いた信長像を見たことがあります。 広く宣教師たちとも交流。 知識習得にも熱意があったと宣教師たちも本国への通信で報告。 彼の世界観は他の戦国大名とは一味も二味も違っていた。 当時、ヨーロッパは国の垣根を越えて広く交易し、富を蓄えて実力を伸ばす。 その広大な世界観に共鳴していたと思われます。 その世界観と相入れない石山本願寺を総とする仏教勢力でした。 元々、織田一門は福井県の織田の庄に端を置く浄土真宗門徒が源になっています。 本願寺が何者かは知り過ぎていたのです。 熟知していたから、滅ぼすのは今しかない。  その後、信長の野望は秀吉-家康へと伝えられます。 徳川幕府は仏教勢力を手先に五人組制度を敷き、国民を統制して治める方法を取ります。 これが本当に良かったと言えるのかはこれからの歴史が証明することになります。  (4) 未だ尾張の小大名に過ぎなかった頃より、大阪の堺に頻繁に足を運び、重商主義の可能性の大きさに着目、市場経済性にも目が開かれ、すぐれた指導者だった。 信長と言えば『楽市楽座』 商人たちを積極的に招き入れ、市場経済の導入と発展にこころを砕いた指導者でした。 熱田と言う優れた港があり、交易の重要さに幼くして目覚めていた。 農業より商業の重要性に目覚めた指導者だった。 彼が日本国を統一していたら重商主義は300年早く実現し、日本は早くから海洋国家として発展していた。 その後の指導者の視野の狭さが浮き彫りになるだけに残念でもあります。 

torje
質問者

お礼

たしかに天下泰平の道筋をつくったのは信長ですね。これは大きいです

その他の回答 (5)

  • kurione
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回答No.5

不完全ながら兵農分離、常備軍を目指した事でしょう。足軽は農民が領主の求めに応じて召集されましたので、農繁期には収穫に影響がでたりしましたが、出来るだけ専業軍人化しようとしたのは当時としては画期的な考えでした。 古い権威(秩序)の否定。当時の寺社は信仰という権威で武力も持っていたのですが、真っ向から否定しました。当然形骸化した足利幕府などは気にもとめなかったと思います。上杉謙信も武田信玄もさすがにそこまでの考えに至らなかった。 人物的な魅力としては躊躇してしまう殻を破る事を簡単にしてのけること。おごりとは違った感じ。休みなく他人や自分と競争し続け、時には時間との競争や自分の運命にさえ挑戦し慢性的に闘争的な反応を続ける印象。心理学的に人格障害A型行動パターンの典型に見えるがどうしても人に裏切られる不安にかなりの恐怖を感じるので信じない様な線の細い青年にも見える点も魅力。

torje
質問者

お礼

いろいろ革新的なことをおこなった人物ですね

回答No.4

雨鉄砲を開発したのは信長です それまで雨では使い物にならなかった鉄砲を改良し 雨でも使えるようにした それによって鉄砲の使い勝手が飛躍的に向上しました これは現在の鉄砲やピストルの技術にも応用されています

torje
質問者

お礼

現在の技術にも応用されているものを開発したというのはすごいですねえ

noname#232424
noname#232424
回答No.3

No.1の追記。 織田信長の戦術面で傑出したことは,1575年の長篠の戦いにおいて,鉄砲を大量(1000丁?3000丁?)に生産して実戦使用したことです。 鉄砲伝来は1543年とされますので,30余年の開きしかありません。かつ,伝来した鉄砲の構造を調べて,刀鍛冶が「国産」してしまった。ふつうなら外国から輸入して金(きん)が国外流出するところです。当時の日本の軍事力は,ヨーロッパ人をして「この連中にけんかを売るのはやばい」と思わせるだけの水準がありました。「劣った有色人種」がこれだけのことをしたのは,世界史上も希有なことです。 信長は「南蛮かぶれ」だったと伝えられますが,軍事的侵略をあきらめたヨーロッパ人の「文化的侵略」にうかうかとだまされ,国を売りかねない危険性があったと思います。その後のキリスト教禁教や,オランダとしかつきあわなかったことは,正しい政策でした。

torje
質問者

お礼

鉄砲を国産したのはすごいですね。戦いの常識を大きく変えましたね

  • mt_mh
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回答No.2

「英雄」だと思います。英雄には色々な意味がありますが。 チャップリンの映画「殺人狂時代」の中のセリフ: One murder makes a villain; millions a hero. (意訳)一人の人間を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ  

torje
質問者

お礼

戦乱の時代の英雄ですね

noname#232424
noname#232424
回答No.1

日本統一までの1つの飛び石だったろうとは思いますが,キジルシの危険人物だと思います。暗殺されてよかったと思います。

torje
質問者

お礼

ありがとうございます

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