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原節子はなぜ戦後に人気があったのでしょうか
原節子は、第2次世界大戦中に、軍国主義の映画に出ていたのは本当でしょうか。 もしそうなら、なぜ戦後に転落せずに人気があったのでしょうか。
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- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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謹んで、 お答え致します。具体的に作品に沿いまして。 仰る《軍国 》と云う程でもないですよ。当時は多かれ少なかれ、 映画人は凡そ戦争遂行を後押しする作品に関わった。明確な反戦は公開もされませんから。~特に太平東亜戦争が始まってからは。 ◉戦後は反戦,社会派として評価の高い、今井正も『望楼の決死隊(”43年』を原さんで撮ってる…朝鮮総督府後援のプロパガンダと評されても仕方無い 📽名匠; 成瀬巳喜男と原節子,高峰秀子,山田五十鈴で『勝利の日まで(”45年一月』も当初は、今井監督が付いてた。戦後GHQにフィルム焼かれ、現存してないけど面白そう ◉原さんは、”37年日独合作の『新しき土』からですね、それらしきは。 欧州で評判と為り、監督の伊丹万作らと供に、獨逸に招待され、ヒトラーとも面談してます。~ これが拙かった、日独同盟なので仕方無いけど。軍国というのでは無いでしょが、原さんの経歴では、駄作と言われてます。こっちの方が拙いよ節子さん。続いて出演の、 💣ハワイマレー沖海戦(”42年』これは今や傑作戦争映画との評価。私もヴィデオは持ってます。何せ特撮が円谷英二ですから、今では考えられない技術のアイデアだそうで 🖍円谷監督は戦後”59年に『潜水艦イ-57降伏せず』を撮り、此れも見事な潜水シーンでした。J隊全面協力で、此方の方がプロパガンダかも… 🇨🇳 ”43年『阿片戦争( マキノ監督』高峰秀子さんと姉妹。戦後は何方も大女優 🎥”44年、黒澤明の『一番美しく』女子挺身隊の懸命な姿。軍国の中にもヒューマニズムを流し込んだでしょう。当たり前ですが、軍人にもリベラルな人は多勢居た訳です ~斯様に関わり、戦後名匠と謳われた方々も別段、転落した訳じゃない。何故に原節子だけが、、と為ります。強いて言えば“転向”かな 🕶黒澤と原さんの決意表明か?戦後”46年の『わが青春に悔なし』~反戦ですね、これも大きかった、戦後即座にですから。日本人は殆どが転向したでしょう 勿論、左翼から保守派へも含めて。~ 因みに、戦後の共演で一世風靡した、 🏞 青い山脈(”49年,今井正監督』の大スタア; 池部良さんですが、戦前は一時共産党員です。応召して見習い少尉、ニューギニア沖で撃沈され一晩漂流、その際、船長隊長大佐殿よりも最後まで船に残って部下の命を守った、本物の軍人ですね だから優男に見えますが、女優陣から高倉健さんまでが頼りにしてた。 良さんは戦後、軍人も多く演じてる、逆に厭戦なのも、ヤクザも… 俳優は、役柄はあまり関係無いです。ひとえに姿、存在感。 💐 原節子もね、戦前デヴュ翌年の”36年『河内山宗俊( 山中貞雄監督』で スタッフ含め、盟友の小津安二郎や脚本家集団の鳴滝組の 稲垣浩, 滝沢英輔、マキノ正博 までが、「あの少女の為に、俺達は働くんだ!」との証言が残ってる…、ディレクターズactress,なのでしょうね、其れが戦後まで続いた、という事です。
- E-1077
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当時の役者を含めた芸能人やかの円谷プロだって、日本軍側の意向に沿った仕事をしています。作曲家だって同じです。いわゆる軍歌を作ったりしました。 これは自分の意思ではなく要請でありある意味強要です。 軍国主義というのは個々人の意識の問題ではなく国の政策です。こころの底から賛同している人もいたでしょうけれど、大抵は仕方なくという状況だったと思います。もしくはある意味トランス状態だったのかもしれません。 戦争が終わって、日本の場合かなりのダメージがありましたが、取りあえず軍部の一部以外はほっとしたはず。これで平和に暮らせるようになるのですから。 そこで新しい映画やラジオに出演することは、マイナスにはなりません。 むしろ真逆の内容の作品に出演したら、戦争が終わったのだと認識出来ます。 これは原節子さんに限ったことではありません。