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かまやつひろしさんの旅立ちに言葉を添えて
- 追悼 かまやつひろし さん。私の10代の記憶がまたひとり世を去りました。
- ザ・スパイダースの一員として、1960年代の音楽シーンを彩ったかまやつひろしさん。彼の生み出した歌声やギーターサウンドは、多くの人々に影響を与え続けています。
- スパイダース、GS、かまやつひろしという名前を聞けば、多くの人が彼の功績を思い出すでしょう。彼の音楽は時代を超えて愛され続けており、今もなお多くの人々に感動を与えています。
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かまやつひろしさんが「肝臓がん」だと言うことを去年9月公演の辞退で知りました 予約していたのですが、こんなに早く行かれたことを残念に思います かまやつひろしさん、私よりが2才年上です。父のデイブかまやつ氏(アメリカ生まれ) で、ジャズシンガーで、良く横浜野毛「ジャズ喫茶ちぐさ」に練習に来ていました その時に一緒に来ていた子供が「かまやつひろし」さんと知りました。 「ジャズ喫茶ちぐさ」日本のジャズミュージシャンが、洋楽のレコードを聞いて練習した 場所です、私もギター練習で通いました、その時にかまやつさんと会っていたのですね。 良く日劇ウエスタンカーニバルに「ザ・スパイダス」を観に行きました。 音楽一家です。 森山良子 従妹 森山奈歩 従姪 森山直太朗 従甥 音楽をかじったものとして、大好きなムッシュがいなくなる事は寂しいです。 日劇ウェスタンカーニバルの思い出が昨日のように思い出されます。 合掌。 一度横浜喫茶ちぐさに行って見て下さい、吉田さんが亡くなられて惜しまれて閉店 しましたが、フアンの望みで復活しました。 http://www.noge-chigusa.com/jazz
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- ithi
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omuzimさん、こんばんは。 そういえば、最近のネタではないけど、OVA「戦闘妖精雪風」のEDを歌っていらっしゃいましたっけ、いきなりびっくりしました。 https://www.youtube.com/watch?v=G0KR6sDycuU
お礼
ithiさん こんばんは お礼が大変おそくなりました。お詫び申し上げます。 かまやつさんは調べてみるとアニメ主題歌、音楽が多いんですね。私は、「どうにかなるさ」や「北海道man」みたいな世界がかまやつさんらしくていいなと思っていましたが、はじめ人間だけではなかったんですね。 私はおそらく田辺エイジンシ―の社長(ザ・スパイダースのリーダーだった田邊昭知)の力なんだと思いました。 かまやつさんの好きなところは、いつも笑顔を絶やさないところでしょう。仲間の友情に支えられて生きてきたからこそ人と自分を見比べて卑下したりおごり高ぶったりしない。だから奥さんからはもとより従妹の森山良子さんや堺正章、坂崎幸之助など多くの人から愛されるのですね。 偉大な功績こそないにしろ、かまやつひろしという人が自分は一歩引いて皆をはげまさなければ、ザ・スパイダースという日本のポップスシーンに刻まれた足跡もなかったかもしれないし、井上堯之、大野克夫などのその後の活躍もなかったかもしれません。 見た目はへんなオッサンなんですけど、ひょっとしたらあの人は二級天使だったんではないかとふと思います。だとしたら子供の歌はそもそも得意中の得意なんだろうと。 ご回答ありがとうございました。
- isoken
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ex さん、お久し振りです。 >追悼 かまやつひろし さん 「 僕もこの青山キャンパスで学んだ一人です 」 ・・ 或る年の学際での事、オープニングの楽曲に続くトークで開口一番そう宣ったのが、当時40歳を少し超えた ムッシュ でした、大学よりもむしろ高等部での3年間に濃密な時間を過ごしたようですから、それなりのお坊ちゃまだったんだろうと思います、恐らく大学には殆ど顔を見せていないでしょう、既にいっぱしのミュージシャンだったようです。 正確には渋谷4丁目・・通称 『 青山キャンパス 』 に、彼が通学していたのは昭和20年代後半から30年代に掛けて、うちの母親も同校出身ですが現在80歳ですから、歳の差は2つでしかない、ひょっとすると高等部時代すれ違っていたかも知れません。 ところでこの世の中には、都会でしか生まれようがない稀な人種が存在するようです、どなたかへの回答で申し上げましたが、例えばかつての 石原裕次郎 さんや おヒョイさん、 女優で言えば 加賀まりこ に 大原麗子 ・・ かまやつひろし さんもそうじゃないでしょうか、堺正章もそうかなぁ。 美醜に地域差はありませんが結局身に纏う何かが違う、それは或る種の洒脱さだったりするのでしょうが、どういうんだろう趣味の延長線上に生活があるというか、生きる上での必死さが希薄、少なくとも周囲にそういった印象を付与させる方々ですね。 他方ジャズや GS そしてフォークもそうですが、どのジャンルも所謂第1世代に当たる人は意外と良家の子女が多い、生活を顧みる必要が無い分食う事を念頭に置かずやりたい事に没頭可能な環境があるのでしょう。 つまり空白の何年かが許されるか否かの環境は、人の一生を左右しかねない前提条件なんだろうと思います、ところが彼等草分けが齎せた果実を盛大に喰らうのはむしろ第2世代、それこそ金と名声を賭け一旗揚げる覚悟の必死の形相で・・。 さて 『 我が良き友よ 』 ・・泣けます、中3でしたねぇ、グランドで必死にボールを追い掛けていた頃です。 同学年の野球部には私を含めロクな奴がおりませんでした、成績最低・喧嘩大好きの暴れん坊揃い・・決して大袈裟ではなくてまるで校内のごみ溜め、サッカー部やバスケ部のように女の子が応援に来てくれる訳でもない惨めな集団。 ただ下級生時代は先輩のシゴキに堪え一緒に砂を噛んで泣いた事もある、汗臭い部室に正座させられて 藤正樹 の 『 忍ぶ雨 』 を歌わされた仲間でもあります、勿論この友情は一生ものだと思ってましたが、あの頃の友人で今以って連絡を取り合うのは一人しかいない、この歳になれば尚の事胸に沁みる名曲です。
お礼
isokenさん ご無沙汰しておりました。 http://nendai-ryuukou.com/1960/song.html いきなりですけど、「年代流行」というWebページでみると ザ・スパイダースと高倉健が1966年の7位と9位なんですね。 この時代、kamejrouさんが、新宿武蔵野館あたりの映画館で健さんの活躍に「異議なし!」と掛け声をかけ、私は静岡県の田舎町で部活の打楽器をセットに組んで遊んでいて、おそらくisokenさんはご両親に連れられて飯倉片町のキャンティでデザートのプリンを頬張る向こうの席で、かまやつひろしが加賀まりこと飯を食っていたりしたのでしょうか。 そう考えるととても楽しくなります。 >美醜に地域差はありませんが結局身に纏う何かが違う、それは或る種の洒脱さだったりするのでしょうが、どういうんだろう趣味の延長線上に生活があるというか、生きる上での必死さが希薄、少なくとも周囲にそういった印象を付与させる方々ですね。 見事に表現されていますが、まさに地方出身者の我々は(大人のkamejrouさんは除いて)そういう「都会的雰囲気」に無抵抗にヤラレテしまうのですね。理解しないで表面だけ真似る。 還暦すぎてもまだ、私にはその傾向があります。かまやつさんの訃報にふれて私の心をゆさぶるのは、「謎の都会的優雅さ」の中身を解明する前に本人がいなくなってしまうという不安なのかもしれません。 >他方ジャズや GS そしてフォークもそうですが、どのジャンルも所謂第1世代に当たる人は意外と良家の子女が多い、 親の七光りといわれたものですが、加山雄三にしろ堺正章にしろまたジャズスクールの創始者を父にもつかまやつさんもそうかもしれません。 >生活を顧みる必要が無い分食う事を念頭に置かずやりたい事に没頭可能な環境があるのでしょう。 持って生まれた優位性に加えて、競争が激しくない。確かにそうですね。 >さて 『 我が良き友よ 』 ・・泣けます、中3でしたねぇ、グランドで必死にボールを追い掛けていた頃です。・・・勿論この友情は一生ものだと思ってましたが、あの頃の友人で今以って連絡を取り合うのは一人しかいない、この歳になれば尚の事胸に沁みる名曲です。 私もそう思います。ムッシュのあの声が哀愁があっていいです。 今回、かまやつさんの記録を検索してみると、ヒット曲を出さなくてはいけないと焦ったムッシュが拓郎に頼んで書いてもらった曲なんだそうですね。ムッシュはカントリーの人だしラブソングは似合わない容姿だしバンカラな男の友情をテーマにしたのが落ち着きをとりもどした70年代の時代の心情にぴったりはまったのでしょうか。吉田拓郎の才能はあらためてすごいなぁと思います。 ご回答ありがとうございます。アイコンはシンガポールスリングでしょうか。
- kamejrou
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こんにちは一介のおじさん この質問で初めて知りましたがかまやつひろしさん亡くなられた? 寿命であれば仕方のないことでもありますが残念です 謹んで御冥福を祈るばかりです 思い出と言うことですが 当時のグループサウンズの全盛時と言うものをリアルタイムで知ってる、 私のお知り合いでは何人もおられない あなたとsq さんくらいでしょうか? ただ、私もそれほど語れるほど詳しくもありませんが少しお話してみたい 私が二十歳の頃は学園紛争の真っ只中でしたが 当時、「スパイダーズ」なり「ブルーコメッツ」はグループサウンズのシンボル的存在で ラジオで流れるのはもうタイガーズの「花の首飾り」であり テンプターズの「神様おねがい」でしたでしょう 私は聴くともなしに聴いていた、その程度なのです 「ブルーコメッツ」はスーツをピシッと着こなして大人の雰囲気でしたが 「スパイダーズ」は赤いミリタリールックでしょうか?「夕陽が泣いてる」、 思いだしますねえ 質問文で言っておられますが私は「ゴールデンカップス」が好きでした 別に私がお洒落であったからではなく北海道の田舎者でしたから 横浜と言う都会の匂いと言うようなものに憧れがあったのでしょう でも、友達と何時も歌っていたのは三波春夫の「チャンチキおけさ」でしたがね(笑) どうも、とりとめのない話しになりましたが最後に かまやつさんの「我が良き友よ」、 古き時代と人が言う 今も昔と人は言う ああ良き友と良き酒を 共に呑んで天下国家あるいは人生を語った、 私はねえEX さん、涙が出るほどに懐かしいのです
お礼
kamejrouさん こんばんは お礼が遅くなってすみません >当時のグループサウンズの全盛時と言うものをリアルタイムで知ってる、 私のお知り合いでは何人もおられない 現在63歳の私が、一番下の世代かも知りません。 グループサウンズは、私が中学1年から3年までのできごとでした。 1年生だった年はザ・スパイダース、2年でブルーコメッツが人気が出て 当時ブラスバンドでテナーサックスを吹いていた私は、1年生の女の子からラブレターやプレゼントをもらったのを覚えています。 3年生のときはタイガースが人気。花の首飾りが大ヒットしたのですが、ボーカルが沢田研二でなく、加橋かつみ。私は彼に似ているといわれました。 http://nendai-ryuukou.com/1960/song/043.html この動画のなかで小柄な沢田研二のとなりでギターを抱えて歌っている鼻のでかい 背の低い男が加橋。 なるほど今みても私に似てる。あんまりカッコよくはなかったw 紅顔の美少年だったkamejrouさんを差し置いていうのも恐縮ですが、私、中学時代モテたんです。 ただ、その背景にはグループサウンズ人気があったということに今気がつきました。 >私が二十歳の頃は学園紛争の真っ只中でしたが 70年安保の前の世代と後の世代。今思うと全く別の世界という気がします。 僕らは、1970年以降の時代には命懸けの真剣味などどこにもないです。 ただ、私は挫折感の有無など関係なしに、60年安保の柴田翔、70年安保の川本三郎、藤原伊織などの小説などでしか知りえない過去の時代の20歳前後の若者の物語が好きです。 >当時、「スパイダーズ」なり「ブルーコメッツ」はグループサウンズのシンボル的存在でラジオで流れるのはもうタイガーズの「花の首飾り」でありテンプターズの「神様おねがい」でしたでしょう。 多感な時代に暗示のように聴くともなく頻繁に耳にした時代のBGMのような楽曲の数々。今聴き返すと過去の記憶が一度にあふれ出てくるような感じです。 バスドラム とベースがドンスコドンスコ鳴るだけで10代の思い出が蘇ります。人間の精神とはこのように単純なものでいいのか疑問に思ってしまいます。 >「ブルーコメッツ」はスーツをピシッと着こなして大人の雰囲気でしたが 「スパイダーズ」は赤いミリタリールックでしょうか?「夕陽が泣いてる」、 思いだしますねえ そういえば、平凡にも明星にもGSのコスチューム姿のポスターがおまけについてきていて高校生の姉さんがいる同級生の家にいくつも貼ってありました。 >私は「ゴールデンカップス」が好きでした 土曜日のニュースでゴールデンカップスが3日のライブでかまやつさんの追悼曲を演奏したそうです。 「ライブ序盤にギターのエディ藩(69)が「尊敬する大先輩・ムッシュかまやつさんが亡くなり、ショックを受けています」と弔意を表し、ザ・スパイダース時代にかまやつさんが作曲した「ノー・ノー・ボーイ」を急きょ演奏。キーボードのミッキー吉野(65)も「赤坂や銀座でライブをやると必ず来てくれた。(元気だったら)きょうも来てくれたはず」と冥福を祈った。」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00000003-dal-ent と伝えています。 ゴールデンカップスhttps://www.youtube.com/watch?v=xEMk6foZGdk 本当にカッコイイバンドですね。まだライブやってるなら一度は聴いておかなくちゃ。 >かまやつさんの「我が良き友よ」、 古き時代と人が言う 今も昔と人は言う ああ良き友と良き酒を 共に呑んで天下国家あるいは人生を語った、 私はねえEX さん、涙が出るほどに懐かしいのです ありがとうございます。私も同じです。 詞の中に 「語り明かせば、下宿屋のおばちゃん酒持ってやってくる」 というくだりがあります。あの時代ならではの話ですね。僕らの頃には「下宿屋」は加川良の歌の中だけの話になり軽量鉄骨の共同風呂付安アパートにかわりました。 「どうにかなるさ」 https://www.youtube.com/watch?v=4xnXZntMB5w こういう曲がこの人の持ち味なんでしょうか。日本のジャズ界の草分けの一人だった父親の教育の成果というかジャズスクールに通って技術や知識は完璧だったのでしょう。しかし井上堯之にリードギターを任せて自分はリズムギターにまわる。 どうにかなるさ、というのは不安だらけの世相を生きる若者に勇気をあたえてくれた歌でした。 堺正章が「あの人の大切さは死んでからあらためて伝わる部分がある」と言っていましたが、まさにそんな人物だったのでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=Q29vRud73GU https://www.youtube.com/watch?v=L9Au0dJ0KLs https://www.youtube.com/watch?v=YoTo1o-2YJA シャイでファンキーで友情にあついロマンチストのB型の男 かまやつさん、あなたと同じ時代を生きられて幸福でした。 kamejrouさん、ご回答ありがとうございました。
- kurokuro_siro
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かまやつひろしさんというと・・・ 今となっては50代の方々が10代の頃に立ち上げたインディーズレーベルのナゴムレコードというのがあるのですが、その音源のなかに裏声で「かまやつひろしはムッシュッシュッシュッ」という歌が入っていたことを忘れられません(誰の音源だったかは忘れました)。80年代の10代にとっていじり甲斐のある存在だったのでしょう。 それと、GSとはちょっとちがって、商業化されたフォークのなかでアイドル的な人気のあったGAROというアーティストがいますが、GAROについて調べているときにもかまやつひろしさんのお名前が出てきて驚きました。そんな3人いたGAROのメンバーももう2人がいなくなりました。 もし、あの世があれば、GSやフォークの時代のアーティストたちと豪華な歌謡ショーを開けそうな時代になってきました。この世に残されたリスナーとしては、のんきで平和な戦後を続けるべく、聞くべき音楽、フィーチャーすべきアーティストを選ぶという形で、不断の努力を続けていきたいと思います。 おつかれさまでした。 また機会あれば、音源を聴かせていただきますね。
お礼
kurokuro_siroさん こんにちは >それと、GSとはちょっとちがって、商業化されたフォークのなかでアイドル的な人気のあったGAROというアーティストがいますが、 そうなんですよね。そのあたりがザ・スパイダースの1960年代とガロの1970年代の差なのかもしれません。かまやつさんの時代は、レコード会社におしつけられた曲である「夕陽が泣いている」を田邊昭知やかまやつひろしが自分たちの流儀で演奏し彼らの曲にしてしまった。(バスドラムを激しくならし、大きな声でコーラスを入れて、さらにはあの歪んだイントロ。) GAROも自らの音楽性を商業資本の要請にうまく組み込んで調整できる 「音楽プロデューサー」がいたら、もっと幸福な育ち方をしたのでしょうね。 >GAROについて調べているときにもかまやつひろしさんのお名前が出てきて驚きました。 https://www.youtube.com/watch?v=MPwFZKCEcjs この曲はかまやつさんの名曲のひとつですがバックはガロが演奏してます。 かまやつさんは彼らの才能を評価していたのでしょうね。 >そんな3人いたGAROのメンバーももう2人がいなくなりました。 私はガロと同世代なんです。 >もし、あの世があれば、GSやフォークの時代のアーティストたちと豪華な歌謡ショーを開けそうな時代になってきました。 全く時間の流れは残酷なものです。 >聞くべき音楽、フィーチャーすべきアーティストを選ぶという形で、不断の努力を続けていきたいと思います。 いいことを仰いますね。モジリアニやエゴン・シーレなど画家は死後ゆっくり評価が上がることがありますが、音楽はアーチストの死後再評価されることが少ないですね。ただ、後の時代のアーチストが再演して評価が高まるということは頻繁にあります。ガロの目指していた クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの音楽をあらためて今聞くと伝わってくるものがあります。 ご回答ありがとうございました。
1970年生まれの私にとってグループサウンズは、とんと縁が無い訳ですが 当時、そんな幼い子供だった私が慣れ親しんだムッシュは はじめ人間ギャートルズの『やつらの足音のバラード』ですね 当時は作曲で、歌は別人が歌っていましたが 後にセルフカバーで本人も歌い、今田耕司がMCを務めた 某アニソンの番組で本人が歌っていたのが印象に残っていますね 後は、戦国自衛隊かな? 根本茂吉は唯一、生き残った隊員でしたね
お礼
oihsot-25th さんこんにちは >1970年生まれの私にとってグループサウンズは、とんと縁が無い訳ですが ああ、そうですよね。 年齢 2017 昭和 78 1939 14 68 1949 24 58 1959 34 48 1969 44 38 1979 54 28 1989 64 年齢を10年きざみにならべるとこんな感じでしょうか。 1965年に「勝ち抜きエレキ合戦」という番組があったのです。その後のイカ天(三宅裕司のいかすバンド天国)のはしりのような内容でした。それを契機にエレキギターブームが起きたという記憶があります。そこいらじゅうにベンチャーズのコピーバンドがあふれていました。 >当時、そんな幼い子供だった私が慣れ親しんだムッシュは はじめ人間ギャートルズの『やつらの足音のバラード』ですね かまやつさんの年譜というかウィキをみると、驚くほどの数の楽曲提供 をしていますね。どれも皆力んでやっていない点がムッシュらしいですね。 追悼を意識して探したら憂歌団の内田さんとムッシュのこんな対談(10年前)をみつけてうれしくなりました。 http://musicshelf.jp/?mode=static&html=special37/page2 >後は、戦国自衛隊かな? これは観ているはずですが、彼の独特の存在感を消す技が生きていたのでしょうか。重要な役をやっていたのですね。 ご回答ありがとうございます。
まだ見てません 亡くなられたんですね… 残念です。。
お礼
そうなんですよ。驚きましたでしょう? 堺正章が70歳ということは知っていましたが8歳も歳が上だったとは知りませんでした。ですからまだ若いという感じがしていました。 人が亡くなるのは時の流れで仕方がないことですが、その時代の中心となったスター、GSなら沢田研二、萩原健二でなく個性的な魅力で記憶にのこっているバイプレーヤーが亡くなるとわけもなく悲しいですね。 ご回答ありがとうございました。
- ミッタン(@michiyo19750208)
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今起きてヤホーニュースで知りました ただただビックリ 私は「我が良き友よ」が大好きでした もう聴けないと思うと残念です 下駄を鳴らして奴が来る~♪
お礼
みったんこんにちは。 「我が良き友よ」1975年でもすでに時代感覚からもずれていたくらいの懐古調の歌詞と楽曲にもかかわらずヒットしたのは吉田拓郎のセンスのよさでしょうか。これにはエピソードがあって、かまやつさんが懇願して書いてもらったにもかかわらず、出来た曲が自分のイメージにあわず、それでも気を抜いてさらっと歌った。 のちに美空ひばりがこの曲を評して「これ、気を抜いた歌い方がいいのよね。私ならもっと感情移入して歌っちゃうのに」と言ったらしいです。 B面はこんな曲でかまやつさんの作詞作曲。私はよく覚えています。 「ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい」 https://www.youtube.com/watch?v=O2VP_FMjUAk シャンソンというかラップというかのちのダウンタウンブギウギバンドの楽曲にも通じるものがあって時代が少し早すぎた。かまやつさんのダンディズムを感じさせる名曲。本当はこんな曲をヒットさせたかったのかも。 ご回答ありがとうございました。
お礼
人生の大先輩にすてきなご回答をいただきました。 ありがとうございます。 TVのニュースの訃報報道がありきたりでつまらないとおもっていたら こちらで皆様の声がきけてうれしいです。 おまけに、中日スポーツにこんなにすてきな追悼記事もみつかりました。 http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2017030302000167.html 私が好きだと思った人をこんなにも多くの人が同じように思っていたことを知ってうれしくなりました。 喜多條忠さんの言葉が胸を打ちます。怒った顔をみせたことのないといわれるムッシュの人間らしい一面をうかがえるいい話でした。 >「ムッシュ、マイペース、マイペース! ムッシュの一番いいところ、尊敬するところはマイペースだよ」と言った。その時、初めてムッシュがかわいい弟のように見えた。(上記3月3日付追悼記事) 自分の好きな世界で自由に生きることもすばらしいけど、その中で人を励まし、自らも愛され支えられことのすばらしさ。こんな風にいきられたらいいですね。 私は、ベンチャーズや寺内タケシに感化されて、ガットギターにギターマイクをつけてブラスバンドの同級生とバンドの真似事をしていた中学生でした。 エフェクターなるものは田舎には存在しなくて、「夕陽が泣いている」のイントロ、どうやって歪ませてるのか不思議でした。 JAZZは、地方都市から出てきた私にとって都会の象徴でした。もちろん学生時代をすごした街にもアルテックを置いた店や、他県に足を伸ばせばベイシーなどの老舗がありました。東京にでてきて吉祥寺に足を運びました。 >日劇ウェスタンカーニバルの思い出が昨日のように思い出されます。 われわれの世代は名前しか知らないです。 >一度横浜喫茶ちぐさに行って見て下さい ご紹介くださりありがとうございます。なぜか映像をみていて涙がでてきました。 こんな場所を知らなかったなんてくやしいです。 ご回答ありがとうございました。投稿してよかったです。
補足
https://www.youtube.com/watch?v=Ri7VfJWvadA みなさま ありがとうございました。 故人を悼む言葉にBAなどつけられませんが、ご回答くださった方々を代表して