• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「毒舌家」好きですか?)

なぜ冷笑家が好き?

このQ&Aのポイント
  • 「冷笑家」「ペシミスト」「天邪鬼」と言われる人々を好きになる理由
  • 彼らが大衆の考えや権力に疑問を持ち、自由な思考を追求する姿勢に共感する
  • 冷笑家の言葉や著作を通じて共鳴し、自分の思考を深めることができる

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#224992
noname#224992
回答No.1

ラ・ロシュフコーの『箴言集』 アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』 は高校生の時に愛読していました。 芥川の『侏儒の言葉』も読みました。 皮肉や諧謔が好きというより、ブラックユーモア に感心がありました。 機知や頓智の「瞬間芸」に作者の頭の良さを 感じて読んでいて啓発されるような気がしたのです。 同時期に小説でも筒井康隆、阿刀田高の短編に魅かれて いたのも同じ理由からでしょう。 しかし、瞬間芸がすぐに飽きられるように、私も 皮肉や諧謔によって癒されたりすることはなく、そのうち 岩波書店から出ていた薄手のハードカバーのケース付き 『悪魔の・・』の背表紙を見るのも嫌になりました。 例えば 「恋愛-一時的の精神異常だが,結婚するか,あるいは,この病気の原因になった影響力から患者を遠ざけるかすれば,簡単に直る.・・・ビアス(悪魔の辞典)」 私が当時求めていたのは、こういう斜に構えた機知ではなく 何度も失恋し孤独の涙が枕を濡らすなかで、どうすれば恋人ができるか という愚直で前向きな方法論だったのです。私は自分の願望に 正直でありたいと思いました。 翻弄される姿を高踏的に冷笑する立場は、酸っぱいブドウの寓話を思い出させ ます。ただ、弱者の視点に立って強者に対する毒舌をふるう人は別です。 泉谷しげる、故立川談志。切れ味のいいセンスで聞き手を魅了します。 芸としてのカタルシスがあります。 >何故彼らが好きになれませんか? 演芸としての皮肉は許せるけど、皮肉や天邪鬼は一歩間違えると 自分自身の潜在意識を騙すことになりかねない。 人が本来持っているはずの「幸せになりたいという意志」を ごまかし、わざわざ澄んだ水に泥を投げ込んで濁らせている そんな気がします。 ラ・ロシュフコーが貴族であったように、他のシニシストが 実は知性も教養も育ちのいい人物であるように、一定のポジション を確保しながら「皮肉屋」に身を投じていたりします。 例えば、プロレタリア文学にそもそも皮肉をかます余裕などない むしろ底辺の実体験を描いた西村賢太の私小説のほうが、そういう 学歴だとか育ちだとか逃げ込む心の支えのない場で、濁り水の 上澄みの一瞬の透明感を描いていたりします。 芥川賞選考委員の一人で西村を強く推した山田詠美は、西村賢太 の「かわいらしさ」に触れています。それはおそらく「神に愛される」 類の素直さ、ひたむきさなのでしょう。 神が私を救ってくれたことなど一度もない・・・皮肉屋はそういう でしょうが、懐に「悪魔の辞典」を持っていてそういうのは 間違ってますよね。 自分の夢を信じる気持ちを阻喪させるのは皮肉や冷笑の特徴であって 発した言葉、書いた言葉でも必ず自分に返ってくると私は思っています。 決してアルチンボルトさんを批判する気はないのです。ただ、私は 毒舌は苦手だというだけです。それは、私がおはぎやまんじゅうが 好きで、激辛カレーが嫌いだというのとさしたる違いはありません。 思考の趣向の差なんだと思います。 書けといわれて素直に書いてしまいましたが、ご気分を害したら 謝ります。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 うーん。この「シニシスト」とか「冷笑家」っておそらく人によってイメージがかなり異なるんだとおもます。実際わたしのなかにも明確な輪郭はありません。 なんとなく「心象」があるだけで。 >翻弄される姿を高踏的に冷笑する立場は、酸っぱいブドウの寓話を思い出させます。ただ、弱者の視点に立って強者に対する毒舌をふるう人は別です。 無論前者は、わたしだって好きじゃありません。 不思議なことですね。わたしは談志って時々「ものすごく上手い」と感じますけれど、人柄として好きになれません。(無論くわしくしっているわけではありません。あくまでも印象ですが) で、あれば、「秋霜烈日」と譬えられた談志よりも、「春風駘蕩」と評された古今亭志ん朝を好みます。 どちらが「皮肉家」で「冷笑家」か?やはり談志でしょう。けれども先ほども言ったように、談志はわたしの琴線には触れませんでした。 引用したシオランにしたところで、ドアノーが数時間粘った挙句、決して写真を撮ることが出来なかった人物として、このシオランと彫刻家のブランクーシが挙げられています。 ドアノーのあの温かい写真、ご存知ですよね。「春風駘蕩」という言葉が、彼ほど似合う写真家もいないでしょう。 (ブランクーシは・・・彼の作品は、好きですし、彼のなんとなく気難しく孤独な佇まいも自然に違和感なく見ることができます) この質問自体が矛盾を孕んでいるのですが、時にわたしは談志よりも志ん朝や枝雀を好み、シオランやセリーヌよりもドアノーやピカソがいいとも思い、しばしば「秋霜烈日」を遠ざけ「春風駘蕩」に浸ることを愛します。 >何度も失恋し孤独の涙が枕を濡らすなかで、どうすれば恋人ができるか という愚直で前向きな方法論だったのです。私は自分の願望に 正直でありたいと思いました。 ここはわたしとrepresentative2さんの大きな、そして多分決定的な相違点だと思います。 わたしは「そのブドウは酸っぱいから止めときな!」と言ってくれる人を求めていたのだと思います。 どんなに求めても、人生は求めるものを与えてくれるとは思えなかったし、今も思えないから。 >演芸としての皮肉は許せるけど、皮肉や天邪鬼は一歩間違えると 自分自身の潜在意識を騙すことになりかねない。 人が本来持っているはずの「幸せになりたいという意志」を ごまかし、わざわざ澄んだ水に泥を投げ込んで濁らせている そんな気がします。 逆に、わたしは、みなが何故か、この世界という「池の水」が「澄んでいる」と思っていることに疑いを持っています。 率直にいって、わたしはこの世界の妙な小綺麗さにときに非常な居心地の悪さを感じます。 だからわたしはグロテスクな人間たちの蠢く世界を描き出した表現主義者たちを好み。「誰が見ても美しく、均整の取れた」アポロン的美学を奉じたヒトラー的好みを嫌うのです。 勿論誰もが時には明るいものを求め、時には陰鬱な気分に浸るのと同じように、わたしもシニシストだけを偏愛しているわけではありません。 けれども、実感として、「天邪鬼」や「世を拗ねもの」のほとんど見当たらないのっぺりとした世の中が、一層不気味なのです・・・ >思考の趣向の差なんだと思います。 書けといわれて素直に書いてしまいましたが、ご気分を害したら 謝ります。 いえいえ、とんでもない。このような曖昧な質問に真摯にお付き合いくださってありがとうございます。 意見や視点が違ってもそこから反照されるもので、いつも考える機会を与えてもらっています。 お返事をありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

すみません。ふたつめのお返事への補足をこちらでさせてください。 >中間的で安全なゾーンに隠れ逃げこむ「詩や思想」を私はまったく信じない。 これは、やはりその通りであって、 representative2さんの例にあるような、庶民の生き方のことではないと思います。 自分の身柄を担保することなく、安全圏からものをいう「文学者」や「思想家」を嗤っているのだと思いますよ。

その他の回答 (4)

  • LOLIPON35
  • ベストアンサー率30% (861/2838)
回答No.5

こんばんは。 まあ、おっしゃるとおり、好きという人はまずいないと思います…。 ただ、世の中の常識が歪んでいたり間違っているということを 指摘して気づかせてくれるのは、毒舌や皮肉の類だと思います。 冷笑家や天邪鬼が、常に必要というわけではなくて、そういう視点や、 思考実験を常に続けていくことが大事なのだと思います。 常識に阿って、思考停止してしまうと、途端に形骸化してしまうのが 世の中の常ではないかと思います。 ただ、天邪鬼な人の扱いは難しいもので、とても面倒だと思います。 談志師匠も好きですが、世代的に、まだよくわからないことが多いです。 僕の世代では、はるかに小者ながら爆笑問題の太田光という人がいて、 彼を見ていると、いろいろと思うことがありますね…。 いや、相方の田中という人も、相当皮肉な存在なのですが…。 様々な制約のあるメディアでは、あえてひねくれた表現をすることで、 真実を伝えたり、仄めかしたりすることもできるのだと思います。 でも、いつもひねくれた発言をしたり、それを求められたりする人は、 見る人を不快にすることもありますし、堂々巡りになったり、 自己撞着になったりして、無意味に陥ることもしばしばあるようです。 「そこは直言でいいだろ」とか「素直に言えばいいのに」とか 思うこともありますね…。まあ、それは、自分自身の思考にも ありうることなのでしょうけれど…。 一見天邪鬼で、そういう発言をする人の中には、本質的には 人間やその可能性を信じている人もいるのではないかという気がします。 (本質的に人間を信じない人は、相手にする価値もないのかもしれません) なので(?)、何かを疑い、気づくことができる才能としては尊敬しますし、 誰でも、思考停止せずに考え続けることは大事なのだと思います。 それが、耳障りな毒舌になるか、やんわりと皮肉るのか、お茶を濁すのか、 表現手段の違いでしかないのかな、とも思います。 毒舌家やペシミストへの好き嫌いもありますが、目の前の現実の中に 含まれる毒に気づいて、直視できるかどうかの問題ではないでしょうか。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >冷笑家や天邪鬼が、常に必要というわけではなくて、そういう視点や、 思考実験を常に続けていくことが大事なのだと思います。 常識に阿って、思考停止してしまうと、途端に形骸化してしまうのが 世の中の常ではないかと思います。 仰る通りですね。でもわたしを含めて「普通の人々」って、そういう洞察力を持ち合わせていることは滅多になく、やはりそういう人の存在が必要に思います。でも一方で、彼らはやはり見向きもされないだろう。逆に世間の冷笑を浴びるだけだろうとも思います。 >爆笑問題の太田光という人がいて、 彼を見ていると、いろいろと思うことがありますね…。 いや、相方の田中という人も、相当皮肉な存在なのですが…。 爆笑問題も太田光も、存在としては知っていますが、どういうことを話しているのかは知りません。何しろテレビを見ないもので(苦笑) お話しが、現在のテレビや新聞、雑誌などのメディアに限定されてしまうと、そもそもの「シニシスト」の本質からズレてしまうように思うのです。 わたしは職業としての評論家とか、コメンテーターと言われる人たちの身過ぎ世過ぎのパフォーマンスに関心はありません。生き方のスタイルとしてのシニシズムでありシニシストと呼ばれる人たちです。 シオランとか、ボードレール、カール・クラウス、ニーチェ、セリーヌ、ボリス・ヴィアン、或いはサリンジャーやキルケゴールと言ったひとたちのことです。 >一見天邪鬼で、そういう発言をする人の中には、本質的には 人間やその可能性を信じている人もいるのではないかという気がします。 ええ、それは同感ですね。またそうでないシニシストを多分わたしは好きになれないかもしれません。彼らの人間や世界に対するスタンスは、「可愛さ余って憎さ百倍」というようなものに思えます。 >毒舌家やペシミストへの好き嫌いもありますが、目の前の現実の中に 含まれる毒に気づいて、直視できるかどうかの問題ではないでしょうか。 そうですね。わたし個人はやはりそこで、彼らの「視力」「洞察力」に負うところが多いようです(苦笑) いつもお返事をありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

「美を知るもの、かなしみを知るもの、それだけがわたしの興味を引く、それ以外のにんげんは、わたしには関心がない」 ー オスカー・ワイルド

回答No.4

私の中ではマツコ・デラックスさんです 毒舌かもしれないけど、彼女は愛があるから斜に構えてとはチョット違う… ただ、TVという枠を怖がって皆が言えないことを言ってくれてる代弁者 確か昨年春?いつぞやの春でしたか、「生保レディの枕営業」を取り上げた番組が打ち切りになりました だいぶ圧力がかかったんでしょうね そう考えると斜に構えてる人っていますか?リアルの世界で…

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 うーん。わたしはテレビを見ないのでマツコ・デラックスさんというのをミスター・ドーナッツのポスターでしか知らないんです(苦笑) ですからどういうことを言っているのか知りません。 例えば美輪明宏のような人。うーん。この人も知っているような知らないような。(汗) 現実の世界で斜に構えている人、わたしは過去の文学者や哲学者、詩人の中でしか知りません。 現実に居たら、ちょっと話をしてみたいですね。 お話がかみ合わずすみません。 いつもお返事をありがとうございます。

  • o09080706o
  • ベストアンサー率10% (279/2617)
回答No.3

>何故彼らが好きになれませんか?  善良な市民がプレイヤーになった瞬間、冷笑家は敵みたいになっちゃうから嫌われる  権力からは、疑いをかけて逆らってくるから嫌われる ということなんじゃないかと思います。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 成程。 確かに、冷笑家は、「善良な市民」とか「権力者」とか、常に周囲に「味方が大勢いる」人を冷笑しますからね。 だから結局最後には孤立して「ニーチェの馬」のようになってしまうのでしょう。 だからこそわたしは惹かれます。 お返事をありがとうございます。

noname#224992
noname#224992
回答No.2

ごめんなさい。私がまともすぎる回答を書いて、すっかり座がしらけて しまいましたね。書き直しですw ドラッカーがビジネスマネジメントの中で求めたのは、真摯であること。 最も忌み嫌うのは評論家と皮肉屋。 ややもすると、経営者、労働者という二極対立に陥りがちなビジネスの 力学を「起業家精神とイノベーションはだれでも持ちうるものだ」と 説いたところにドラッカーの凄さがあります。 ビジョン・ミッションを掲げて、環境を分析し、自己の強み弱みに基づき なにをなすかを決める。 そういうありきたりの「手法を」繰り返して、企業は利益をあげて社員を 養ってきました。 ただ、たしかに産業経済はある種の変革期にあるようにも思えます。 『アイロニカル・マネジメント』とか『トリック・スターマネジャー』 なんて本がベストセラーにならないとも限りません。 イノベーションに繋がるならシニカルな態度のマネージャーになってみるのも いいかなって・・・うーん。思わないですね。 人のモチベーションを高めようというときに皮肉や憎まれ口たれていたら はじまりません。 >「私はだれもが口をそろえて正しいとすることを、たぶん、であるからこそ、いぶかしみ、はなはだしくは憎むという長年の悪い癖がある。 誰もがゆるやかに認めざるをえない中間的で安全なゾーンに隠れ逃げこむ詩や思想を、であるからこそ、私はまったく信じない。」 なんてのは、文学や芸術家だから言える言葉です。 私の古い友人に旧帝大の理学部を卒業してそのまま三遊亭の門を叩いた 男がいます。だれもが口をそろえて正しいとすることを、いぶかしみ 6代目三遊亭 圓生に憧れ、以来40年。頑固一徹とよべるほどの落語馬鹿。 時々独演会の招待状がくるものの、Webで観る風格ある高座姿に 気おくれして最近は身に行けてないです。 人生賭けて落語をやってきた男に自分のありきたりの人生、中間的で 安全なゾーンに隠れ逃げこんだ生き方を見透かされたくはないのかも しれません。 「お前の夢は、どうしたんだ。デザイナーとして活躍するんじゃなかったのか?」 などということは彼は言わないだろうけど その噺家の笑顔にむけて私は歪んが笑みを浮かべてみせるしかないでしょう。 「そんな、言うほど簡単じゃないんだよ。」 「あきらめるから、いけないんじゃないか。いまからでも遅くないぞ。」 「バカ言うなよ。遅すぎる。遅すぎるさ。」 といいながら、私の脳裏には、昔描いたデザイン案が往来したりするとしたら これは冷笑ではすまされません。

noname#226970
質問者

お礼

旧友のお話を伺っていると、昔のドラマ『早春スケッチブック』を思いだしました。 学生時代の友人。一人は今は平凡で堅実なサラリーマン、もう一方はインドかどこか僻地の無医村での医師。 医師の方は平平凡々(に見える)旧友を侮蔑のこもった眼差しで見ます。 しかしどちらがより偉いとか、より立派とか、そんなことはだれにも決められません。 >人生賭けて落語をやってきた男に自分のありきたりの人生、中間的で 安全なゾーンに隠れ逃げこんだ生き方を見透かされたくはないのかも しれません。 >「私はだれもが口をそろえて正しいとすることを、たぶん、であるからこそ、いぶかしみ、はなはだしくは憎むという長年の悪い癖がある。 誰もがゆるやかに認めざるをえない中間的で安全なゾーンに隠れ逃げこむ詩や思想を、であるからこそ、私はまったく信じない。」 >なんてのは、文学や芸術家だから言える言葉です。 その通りかもしれない、いや、そう思います。 けれども、尚その上で、冷笑家や皮肉を浴びせる人はこの社会にはいつでも必要なのだと思います。 つまり、わたしたちが当たり前のように日ごろ身に纏っている社会通念を、ときにその寒波でもって引っ剥がしてくれる人間が必要なのだと思います。 「車の見えない道路で赤信号を愚直に守っている」ことは本当に「善いこと」なのか?滑稽ではないのか? 「物を盗むこと」や所謂「違法行為」は「問答無用」に「絶対的に」、「遵奉行為」より悪いことなのか? 「勲章を貰うこと」ってそんなに誇らしいことなのか? 芥川が言うように 「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮さつりくを何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭らっぱや軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然きんぜんと敵に当ることである。   この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅ひおどしの鎧よろいや鍬形くわがたの兜かぶとは成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」 そんなことに気づかせてくれるのが皮肉屋だと思っています。 再度のお礼を。

noname#226970
質問者

補足

>「お前の夢は、どうしたんだ。デザイナーとして活躍するんじゃなかったのか?」 などということは彼は言わないだろうけど その噺家の笑顔にむけて私は歪んが笑みを浮かべてみせるしかないでしょう。 「そんな、言うほど簡単じゃないんだよ。」 「あきらめるから、いけないんじゃないか。いまからでも遅くないぞ。」 「バカ言うなよ。遅すぎる。遅すぎるさ。」 といいながら、私の脳裏には、昔描いたデザイン案が往来したりするとしたら これは冷笑ではすまされません。 仰る通りです。 わたしだってそういう人と付き合いたいとは思いません(苦笑) だってそういう人は「熱い人」であって、「シニシスト」ではないから。 つまりシニシストは、常に懐疑の目を我と他者に向けている者であって、 「こうであるべき」などという「信念」を語る時点で既に「冷笑家」ではありません。

関連するQ&A