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恥ずかしさと快楽。
よく羞恥プレイとかありますが 具体的に 恥 と 快楽 の 因果関係というモノはどういうモノなのでしょう?
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- moritaroh
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羞恥プレイにも、たとえば野外での露出、放尿・失禁、その他いろいろありますが、これらはSM的なプレイに含むこともできると思います。しかし、S側が行うムチで叩く、縄で縛る、といった具体的な行動が羞恥プレイにはほとんどなく、S側は命令するのみで、M側の行為や快楽が強調されているようにも思います。 さて、恥は、簡単に言ってしまえば、他人から見た自分が、およそ自分には似合わないような「恥ずかしい」存在になっている、という時に生まれます。 つまり、第三者から見た時のような客観的視点がない限り、恥は存在しません。 では、快楽とは。 快楽は、外的要因を受けるものの、それを受けてあくまでも自己の中で生まれ、感じるものです。 恥が客観だとしたら、快楽は主観…というわけです。 羞恥プレイの多くは、本来「恥」が生じる客観的視点に、主観的な「快楽」を位置付ける、ということではないでしょうか。 このことを分かりやすく言えば、男女どちらも、自分の姿を鏡に映してオナニーができるか否か、というのが境い目であると思います。 鏡に映っている自分が、自慰行為にふけり痴態をさらしている…という視点を楽しめるかどうか、です。 羞恥プレイに興じる人の多くは、傾向的に、社会的身分があったり、他人から見て普段はそのような変態的な欲求を抱えているとは思えないような『社会性により規定された(真面目な)自分』を持っていて、羞恥プレイはそのような普段の自分から解放してくれるもの…つまりは『客観により縛られた自分の快楽』を解き放ってくれるのでしょう。 もしくは、鏡のオナニーのように、ナルシスト的に、変態的なプレイに興じている自分を見てみたい、という欲求がそうさせるのかもしれません。 特に、社会的な身分がある人の方が、自分に対しての絶対的な自信も強く、それゆえに自己陶酔しやすい傾向もあるのかもしれません。 以前からも、特にSMにおいて、Mは社会的身分の高い人物(特に男性)に多いと言われています。常日頃、他者から見られる自分というのを意識し続けるがあまり、他者により自分がつくられ、本当の自分(=主観的な快楽)を見失っているがゆえに、M的な立場となることで、快楽を解放できるようになるのかもしれません。 いずれにしろ、羞恥プレイは、自分の恥ずかしい姿を見られたりすることで自分が気持ちよくなる、という意味では独りよがりなのですが、その快楽(=恥)の成立には客観的な視点が欠かせないのであり、単純なセックスよりは、ややまわりくどいものの、高等なテクニックなのかもしれませんね。
お礼
ありがとうございました。
補足
>S側が行うムチで叩く、縄で縛る、といった具体的な行動が羞恥プレイにはほとんどなく、S側は命令するのみで、M側の行為や快楽が強調されているようにも思います ここの指摘は面白いですね >快楽は、外的要因を受けるものの、それを受けてあくまでも自己の中で生まれ、感じるものです >恥が客観だとしたら、快楽は主観…というわけです >男女どちらも、自分の姿を鏡に映してオナニーができるか否か、というのが境い目であると思います。鏡に映っている自分が、自慰行為にふけり痴態をさらしている…という視点を楽しめるかどうか、です 衆人環視の中でのセックス 無人の教室の中でのセックス・・・ ここら辺も該当しますね その客観的自分への視座・・ 有人無人の中での自己顕示の引き出し それを超越した タブー(背徳)への陶酔・・ 自意識が強い人物がヤレばより強い陶酔に・・ それが眠っている人物がヤレば新たな覚醒へ・ 『客観的』視座の有無と恥の関係・・ 鋭い考察でした。