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私は死んだ方がいい人間ですか

なんで生まれてすぐ人には不平等があるのでしょうか。 ネットできてるんだから不平等もくそもないんですけどね。 恵まれているおもいます。 前を向かなきゃいけないんですけどね 前を向けば制止され、立ち止まって考えればせっつかれ いつも『これじゃいけない』 幼少期から母に折檻を受けて生きてきました。虐待かどうかは自分では判別できません 離婚時に父が私の布団に潜り込んできました 本当に好きになった人との仲はズタズタにされました 父の借金を払ってきました 結婚しても魔の手が やっと幸せになれる出産は、みんなに祝福されるものではなく、条件つきのもの それでもその都度、周りが求める私で居られるよう、どんなに痛くても即座に立ち直ってきました。 笑って笑い飛ばしてきました。 泣くのはご法度。 やっとじっくりものが考えられるかなと思ったら、 こうやって生きてきた人間は、立ち止まるとか支えてもらうことはできないようなのです。 今ある幸せを噛み締めて生きていけ と言われますけど 今まで糞壺に貯めて無理矢理押し込んで蓋をしてきた負の気持ちはいつどうやって処理するのですか? いつも誰かのために、必死に我慢してきたのに。 聞いてくれる人なんかいません。 だけど私はいつでも聞いてきました! 私は鼻紙じゃないんです! 私は死んだ方がいい人間ですか? もう楽になってもいいと思うんです。 なんで私は普通の家に生まれなかったのですか? 前世に何か悪いことをしたのですか?

専門家の回答 ( 1 )

回答No.4

こんにちは。 読ませていただきました。 おぞましいくらい過酷な人生を送っておられると拝察します。 >今まで糞壺に貯めて無理矢理押し込んで蓋をしてきた負の気持ちはいつどうやって処理するのですか? そうですね、安心出来、信頼できる無条件に自分を受け入れてくれる人がいないと、人はどうしても生きていくのがつらくなります。 あなたがおっしゃるように、 >私は死んだ方がいい人間ですか? というのはその通りだと思います。 もし私に特殊な能力があってあなたの人生を映画でも見るようにありありと眺めることができたとしたら、私はあなたのお考えになられていることを世俗の価値観でもって頭ごなしに否定することはできないでしょうし、あなたと同じ気持ちになると思います。 あなたが生きてきたことは、あなたがおっしゃられるように、 >いつも誰かのために、必死に我慢してきたのに。 であるわけですから、考えてみれば、あなたは生きながらにして生きていなかった、生きることができずにいるのに等しいわけですから、今更死んだとしてもどうだとお考えになるのはもっともだと思います。 では、あなたはこのように相談を私たちに持ち掛け、回答を得たいというこの情熱は、いったい何であるのかと考え直しますと、このような人生であったとしてもあなたご自身としては生きたい、もっと言えば、自分自身の思うがままに生きたいということなのだと思いますし、自分を無条件に受け入れてくれる人と改めて巡り合いたい、静かに自分と向き合いたい、生きる希望を見つけたいということなのではないかと拝察します。 そして、このように潔く死ぬこともできず生きようとすることをやめることができない、もっというと、生きなければならないという絶望感があるのではないでしょうか。 人というのは何とも業の深い生き物だと思います。 だとすれば、この忌まわしい人生をいったんリセットするという、このような世の中からおさらばしたいというお気持ちは、私も合点がいきます。 つまり、あなたが本当に望んでいることは、死ぬこと=人のために必死で我慢する生き方をやめる、捨てるということだと思うんですね。 このようなことでイメージするのは、出家して仏門に入るということです。 断髪して仏門に入るということは、俗世的には死んだも同じ事と考えられており、世俗の価値観が一切入り込まない世界に入ることですし、死んだらみんな仏様という考え方も、世俗の価値観とは全く異なる世界に入ることからきています。 家族を捨て、すべての財産を捨て、衣服や頭髪さえも捨て去り、ひたすら仏と対話するというのは、死ぬことと同じ意味です。 世俗から離れて立ち止まり、ひたすら自分と向き合う生活は、世俗の価値観からは生きることを放棄したように見えますし、死んだも同然のことかもしれません。 もちろん私は宗教家ではありませんから、どこそこの寺がいいとか、教会でこういうところがあるとお勧めすることもできません。 とはいえ、あなたのお書きになられたものを何回も読んでいると、単に辛いとが悲しいとか寂しいという単純な気持ではなく、誰でもが心の片隅に抱いている、そして歴史上多くの人が取り組んできたとても深い宗教的な悲しみを強く感じます。 そして、あなたの深い悲しみは、あなたのご両親やあなたを酷使する周りの人たちという個別具体的な人たちに向けられているのではなく、神や仏を恨むかのような、人の業や生の定に向けられているように思えて仕方がないのです。 どうでしょう、今更すべてを捨てたとして誰かは困るでしょうし、多少は悲しまれるかもしれませんが、改めてご自分の思うがままの人生を歩まれてはいかがでしょうか。 死んでご自分の運命の思うツボにはまるのではなく、逆に出家するように自らの勇気で運命の呪いを解くくらいの覚悟をもって、ご自身の人生をやり直してはいかがでしょう。 それは誰も知らないどこか遠くに旅に出ることかもしれませんし、今までの生活と何ら変わらないものかもしれません。 しかし、ご自分で考え選択した生き方であれば、それはどのようなものあってもこの意義と価値は変わりないと思います。 これが本当の意味での出家なのだと思いますし、生きながらにして生まれ変わることなのだと信じています。 ここまで考えてみて思うのですが、どんなに辛い生き方をしていたとしても、人の魂というのは、おのれの思うままに生きようとするものなのだということです。 だとしたら、そうする以外にはない。 そして、共にそうあることを認め合うしかないのだと思いました。 思えば、観音は身の回りの生き物を見ては泣いてばかりいましたが、転生を繰り返した後、微笑みを絶やさずすべての生き物を救う千の法力を得たといいます。 あなたの気持ちが少しでも実を結びますように…。 応援してます。

noname#213477
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうです。 何度も胸に包丁を当てて倒れこもうとしたり、首に縄もかけました。 旦那だってそれを見たのです。 でも、私の言葉を聞くものなんかいませんでしたよ 言葉運びが悪いと聞いてくれなくなり、 無視されます。 なのに死ぬなとか これから頑張れとか 何を頑張るんですか 今は世の中の全てを恨んでます。 死ぬときには菩薩の気持ちを持てるように生きていきたいものです

吉田 修(@osamucom0409) プロフィール

産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会) 吉田修(株式会社Dream・Giver) ■ご質問者・みなさまへ■ コーチング最新メソッドを使い、自分でできる、気持ちの切り替え方法をご提案しま...

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