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精神病院の歴史
- 精神病院ができる前は、日本では密教系と浄土真宗系、日蓮宗系の宗教団体が精神的な治療を担当していた。
- 近世、日本でも公立の精神科病院ができはじめ、その数は世界一となった。
- 向精神薬の登場により、日本の精神医学が飛躍的に進歩し、乞食や浮浪者の減少にも貢献した。
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こんにちは。 精神病院に的を絞ると http://www.siruzou.jp/seikatu/12074/ この中に。<日本の精神科の入院日数は諸外国と比べると群を抜いて長い実態にあります。それで、病床数がダントツに多くなるのです。>と、書かれています。 つまるところ、病床数が多い = 精神病院が多いという図式が成り立ちますね。 この図式からすると、ある意味では質問者さんがおっしゃる「精神科で喰ってきた国なのでしょうか?」ということが当てはまることかもしれません。 余談になりますが、精神科医となると、一番多いのがフランスで人口10万人に対して20人、二番目がカナダで12人、三番目がロシアとイギリスで11人、四番目がアメリカで10.5人、五番目が日本で8人となっていて少ないです。 これで言いますと、精神科医の人数は、必ずしも精神病院の数に比例してはいないことがわかります。
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>江戸時代まで続いた部落差別が部落民の精神を蝕んできたという歴史があり、明治維新以降はこうした部落民の中でも特に精神を病むほど差別を受けていた部落民の保護のために精神科が作られたと、私は解釈しています。 日本に精神科が多いのは、部落差別が悲惨であった事の証明であると共に、国がこれを何とかしようと取り組んだことの証明でもあると思います。 ええ、確かに戦前はこの通りであると思います。 >しかし、そろそろ減っていっても良いはずと思うのですが、問題は精神科で食べてきた層をどう減らして行くのかというところなのかなと思います。 現代は労働環境の悪化が根底にあるので、労働によって精神病患者が大量生産されてます。特にうつ病が!精神科で食べてきた層は、ますます向精神薬で「一儲け」しています。
お礼
向精神薬や精神科病棟というものは、むしろ必要なくなってきています。 実際、犯罪にいたるほどの精神病者がいなくなってきているからですね。 なので今まさに、これらで稼いできた人々自らが、向精神薬や精神科を廃止しようとしている。 そして次のターゲットはというと、もちろん犯罪を犯す可能性がある対象もそうですが、働くのが苦手な人、コミュニケーション能力が劣っている人(生涯独身になる見込みの人)などの対策に活路を求めているのかなと。 つまり向精神薬や精神科病棟、電気ショック療法などがなくても、治療ができるレーダー設備や軍事衛星の配備が整ったのかな?と個人的には見ているのですが。
補足
質問を締め切るに当たって追加です。 日本の精神科病床の95%は単科精神病院にある。 近年、身体拘束の患者が少しづつ増えてきている。 1997年から「心療内科」という科が新設された。日本以外の国には、このような科は存在しない。 日本の精神科は、なぜか歯科と併設されていたケースが多い。 精神科病床の大半は統合失調症(精神分裂病)の患者で占められている。 諸外国の精神科は大半が公立だが、日本の精神科の大半は民間。だから、安易に減らせなくなっている。
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元期間工「自動車工場で働くのは絶対にやめておけ。精神がおかしくなって絶望に変わる」 2015/4/30 労働雑談 管理人より 期間工はキツイキツイとよく言われてますね。 1: 雨降れば名無し 2015/03/30(月) 18:18:20.19 et BE:509143435-2BP(1000) 鎌田慧「自動車絶望工場」 夢も希望も奪い去る労働 1972年秋から6カ月間、愛知県豊田市にあるトヨタ自動車工場で期間工として働いた。当時、34歳。 その体験を基に書いたのが『自動車絶望工場』だ。そこには合理化を進める企業と疎外される労働者の姿があった。 若者たちの「夢」は日々、「絶望」へと変わっていった。40年たった現在も、その構造は変わっていない pic00008 青森県六ケ所村について書いた記事を読んだ見ず知らずの農民から寄せられた手紙が、トヨタの工場で期間工として、働くきっかけになりました。 手紙の主は青森からホンダの工場に出稼ぎに来ていました。その彼と会った時に「どこの自動車工場が一番、きついのか」と尋ねたら「トヨタだ」と答えたんです。 労働の合理化に興味を持っていて、どういうふうにきついのかを知りたかった。それで一番きついトヨタの工場で働いてみようと思ったのです。 このルポの前に、公害の取材で九州に6カ月、滞在していたため、お金がなかった。期間工として働けば、お金が入るというのも理由の一つでした。 トヨタにいた時は何度も辞めようと思っていました。寮に帰ると階段も上れないほど疲れている。「今日、辞めると言おう。今日こそは……」と思いながら日々を過ごしていました。期間満了の6カ月を残して辞めたら、本は書けないぞと思っていたから、最後まで続けられたんだと思います。 タイトルに「絶望」という言葉を入れたのは、大きな工場で働くという夢が、実際に働くことによって「絶望」に変わっていくと感じたからです。 寮で同じ部屋で暮らしていた工藤クンの気持ちをどこかに反映したというのもあります。同郷だった21歳の工藤クンとは偶然、職安で出会いました。 彼の「身上調査表」の志望動機の欄には「貴社の将来性」と書かれていました。仏壇づくりから転業したかった彼は「本工に採用されたい」という希望を持っていたのです。 しかし働き出してから4カ月後、工藤クンは工場で倒れました。結局、首になって田舎に帰されました。本工どころか、「期間満了」さえできなかったのです。 2: 雨降れば名無し 2015/03/30(月) 18:19:08.40 et BE:509143435-2BP(1000) 数年後、工藤クンを見舞いに病院に行きました。リハビリを受けていた彼は、わたしのことを思い出せませんでした。 それから何年かして、彼の実家を訪ねてみると、家は無くなっていました。もう彼の行方はわかりません。 今年1月、労働ペンクラブのメンバーと、日産の神奈川県・追浜工場の見学に行きました。 工場は自動化が進んでいましたが、やはり無機質で硬い時間が流れていました。時間に人間が押し込まれて、その中で動いている。 あの当時と何も変わっていません。 製造業は、ますます不安定労働に依存するようになっています。 以前は期間工しかなかった。いまは、期間工の下層として、派遣労働者が大量に採用されています。 期間工の寮は無料で風呂もついていましたが、派遣はそれすらない。状況は悪化し、労働構造はさらに複雑化しています。
補足
うつ病患者数ランキング。北海道がダントツですね。 http://todo-ran.com/ts/kiji/14741 ( ̄▽ ̄;)
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>しかし、なぜ日本だけこんなに多いんでしょうか? それは、トヨタ自動車の歴史とリンクしているからです。 >現在でも、世界の中でも孤高の精神科大国。 愛知県豊田市は間違いなくそうでしょうね。 >精神科で喰ってきた国なのでしょうか? いいえ、自動車製造、販売で喰ってきた国です。
お礼
貴重なヒントをありがとうございます。 (*´ー`*)
補足
アフラマズダと関係があるのかと思ってました。ゾロアスター教。マツダですね。 江戸時代まで続いた部落差別が部落民の精神を蝕んできたという歴史があり、明治維新以降はこうした部落民の中でも特に精神を病むほど差別を受けていた部落民の保護のために精神科が作られたと、私は解釈しています。 日本に精神科が多いのは、部落差別が悲惨であった事の証明であると共に、国がこれを何とかしようと取り組んだことの証明でもあると思います。 しかし、そろそろ減っていっても良いはずと思うのですが、問題は精神科で食べてきた層をどう減らして行くのかというところなのかなと思います。
お礼
日本最初の精神病院は、浅草のエタ頭、つまり部落のリーダーにゆだねられたという背景がありますね。 部落といえば、宗教団体との繋がりが色濃い。 真言宗、浄土真宗、日蓮正宗と創価学会。世界救世教(教祖が浅草出身)。などなど。 もともと、精神科というのは、宗教団体でした。中国道教のキョンシーにしても、あれは精神科の仕事ですしね。 つまり精神科病院というのは、宗教施設であるとしても間違いではないかと思います。歴史的背景から考えても。医療施設としては、精神外科(後の脳神経外科)のほうになりますね。 いずれにせよ、昔は宗教団体が請け負っていたものですね。
補足
歴史を紐解いてゆくと、部落差別などと密接な関わりを持っているようですね。 日本に精神科が多いのは、いまだに部落差別が残っていることとも関係あるのでしょうか? 以下、メモです。 日本が近代化を急いだ明治維新以降、それまでの日本に根強く残っていた奴隷制度のようなシステムを廃したことで、コジキや浮浪者が路頭に溢れた。奴隷として過ごしてきた黒人達が奴隷開放宣言のあと路頭に迷ったように、また長年刑務所や精神病院に入所していた人が出所を嫌がるようになってゆくように、コジキたちも路頭をさ迷うしか、生き方を知らないようになっていた。 これを排除するため、まずは私宅監置というものが行われた。精神病者を家族が管理、監置することを目的として制度であったはずなのに、精神科医ではなく警察が定期的に監視に来ていた。 そのあと、いちおうこの自宅監置という監禁行為をやめさせるという名目のもとに、日本中に精神病院が作られていった。 精神科を増やすための法整備も行われた。医師や看護婦が少なくても病院を運営できるようにした。 あるとき、鎖に繋いだり監禁したりという事をやめて、治療に専念しようとした医師がいたが、行政から叱られた。あくまで家族から精神病院に監置権が委譲しただけで、治療は本来の目的ではないといったしかられ方であったという。 手術部門の精神外科は、のちに脳神経外科と名前を変えた。