こんにちは。
カトリック信者ですが、修道者になる方法については詳しくありませんので、そのつもりでお聞き下さい。
将来は司祭になりたいなどではなく普通に修道者になりたいだけなら「派」を決めてその「派」の教会に行き、司祭に話を聞いてみれば良いと思います。
将来司祭になりたいなどだと、神学科のある上智大学などに出向き、神学科の先生などともお話をされると良いかもしれません。
「人のためにやっていたつもりの色々な事が実は迷惑になっていた」との事ですが、100%完全に「ため」になる言動というのは多分ありません。
その場は完全だったとしても、時間が経ってから考えるとそうでもない事はよくあります。
また、「人の迷惑になっていた」との事ですが、何を基準に「迷惑」と断定したのでしょうか。
「良薬口に苦し」という言葉があるように、「ため」になることは何の「ため」なのか理解していない人から見れば迷惑に映りますが、その人の自覚の有無にかかわらずそれが「良薬」ならその人のためになっています。たとえその人本人に「迷惑だ」と言われてもです。
それから、「派」を選ぶと言いましたが、「派」という言葉には暗黙のうちに「偏った」という意味が含まれています。
その「派」が掲げる考え方や行動指針などと相反する別の「派」があるかもしれませんが、どちらが善でどちらが悪というものではない事が多く、各々大切な事だが、一緒にいるべきものではないだけという事も良くあります。
水も火もどちらも大切なものですが、どちらかの量が多過ぎるともう片方を消してしまいます。
適度な量と適度な距離というものが必要ですが、この加減が解っておらず、相手を否定しかできない人もいるかもしれませんし、お互いに争いという言葉が適切な関係に成り下がっている事もあるかもしれません。
そんな時でも、どう自分が自分の所属する「派」で立ち続けるか、言葉を発し続けるか、行動し続けるかを強く持っていないと、修道者というのはそう生易しいものではないと思います。
世俗から離れて修道する事はとても素晴らしい事だと思いますが、世俗が完全悪な訳ではない事、世俗でしか学べない事もあるかもしれません。
ですが、それらを捨てて修道会に入るとても強い決意も必要です。
正式な修道者になるためには入会から数年(もしかしたら10年近くかも)かかるような気もしないでもないような気もします。
とにかく、「派」選びから始めないと行けませんから、とりあえずカトリック教会に足しげく通う事から始める事だと思います。