三国志 赤壁
にわか三国志ファンです。
赤壁の地名の由来について、教えてください。
以前、何かで赤壁の戦いのことを初めて聞いた時は、「戦争で燃やされた船の炎が岩壁に赤く映って壁が赤く見えたため、赤壁と呼ばれるようになった。」という説明に納得しておりました。
ところが、映画レッドクリフでは、戦争の前に曹操が見る地図には赤壁の地名が載っていました。
羅貫中の「演義」では、黄蓋が曹操軍の方へ船で向かう場面で赤壁の地名が出て来ています。(勿論、原書ではなく、日本語訳ですが。)
吉川英治版では、曹操軍の船が炎上する場面で、赤壁の名が出て来ていました。
北方謙三版では、戦争後に赤壁と呼ばれるようになったと書かれています。
ネットや他の書物でも、戦争後に名が付いたとする説明が多いようです。そうすると、羅貫中版や吉川版、映画版には強い違和感を持ちます。
どなたか詳しい方、教えていただけませんでしょうか?
お礼
「僕らの7日間戦争」は理不尽な大人の対応に不満を持った子供達が家出して倉庫に立てこもったって話でした。 イスラム国も社会に不満を持ったりはみ出し物の寄せ集め所帯じゃないんですかね。 あれはイスラム教徒じゃない、イスラム教徒を陥れるためにやってるんだって言われていますが。 西南戦争の西郷隆盛と不満士族みたいって見方も出来ますね。