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集団の中で必ず起こる 仲間はずれ
私は40代前半の女性です。 子供の頃から気になっている事があり、皆さんのご意見をお伺いさせてください。 高校生の時、いじめ(仲間はずれ)の被害者になりました。 親に心配をかけたくなかったので 我慢して学校に通って卒業しました。 中学生の時は、同級生が孤立していましたが、私を含め周囲の生徒は傍観者でした。 20代前半に就職した会社では、50代後半の部長(男性)が 若い男性社員をいじめていました。 いじめられている社員は、一人で耐え続けていました。 周囲の社員は全員、見て見ぬふりをしていました。 「50代後半になっても、弱い者いじめをするんだ。そして、周囲の人間が傍観者になるのも、学校と同じだ」と失望しました。 上記の経験をした結果、組織に入らなくても生きていける方法を模索し、現在は組織に属さずに生きています。 孤独な生き方ですが、上記の集団生活より 現在の生活のほうが快適です。 私は、一人でいじめに耐えている人を忘れることが出来ず、心の中で折り合いをつける事ができません。 一人でいじめに耐えている人の姿が、ふとした時に蘇ってきます。 「仕方ない」という言葉では、心のモヤモヤが消えません。 皆さんも、学校や職場で いじめを目撃した経験があると思います。 皆さんは、どのように折り合いをつけているのでしょうか?
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- a0123456789
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基本的に折り合いはつけていません。 ”イジメ”を受ける側は悪くはありませんが”イジメ”を受ける要因は持っています。 ”イジメ”を受けたくなかったら、”イジメ”の要因を排除すればよいだけのことです。 ”イジメ”の要因を排除したくない若しくは排除不可ならば、(1)対抗するか、(2)逃げるか、(3)耐え忍ぶかです。 前記3つの選択の中で(2)又は(3)を選択した場合、生涯にわたって”イジメ”に再悩まされる可能性が高くなります。(どこにでもイジメの”芽”はありますから) 後、貴方は偏見を持っていませんか? 中学生の時に見られた、孤立した同級生は本当に”イジメ”を受けていたのですか? 少なくとも私は仲間同士でつるむのが嫌で敢えて孤立していました。 20代前半に就職した会社での、50代後半の部長(男性)は本当に 若い男性社員をいじめていましたか? 貴方が勝手にそう思っているのではないですか? 会社はお金を払って勉強する学校ではありません。支払われる賃金に見合うだけの成果を示せないのであればその責任を追及されるのは当然のことです。 人は皆、色々な立場にあり、また異なった思想・理念・目的を持ち、日々己の思考できる範囲の中での最適な行動を選定して日々を暮らしています。 貴方が考える一般的な”イジメ”でも当の本人においては”イジメ”でない可能性もあります。 また貴方が心にモヤモヤを持っても持たなくても、当の本人には何の影響もありません。 (心にモヤモヤを解消するために、”イジメ”の対象者に助力をするのであれば話は別ですが) 最後に私は小・中学校の間は客観的には”イジメ”の対象でした。(基本的に我が強く、協調性に掛けていたため)また”イジメ”に対しては基本”倍返し”で対抗しておりました。(”仲間外れ”は私にとっては厄介者との付き合いをせずにすむことで”イジメ”とは感じていませんでした。受けていた”イジメ”は暴力・物損等です) ”イジメ”に対抗する最適な対処法は”賢者”になることです。なぜ相手は”イジメ”をするのかを理解します。 その後、どうすれば”イジメ”をしようと思わなくなるかを考えます。自分がどんなに不利な状況に置かれていても何らかの対処法は或るはずです。(喩えて云うなら、将棋や碁の棋士は駒落ち等の圧倒的に不利な状況でも素人相手では楽に勝てるように)最善策が見つからないのであれば、まだ必要十分は賢くなっていないので、もっと熟考をするようにします。そうすると少なくとも”くよくよ”と落ち込む暇はなくなります。 経験的には、結論がでる前に時間が問題を解決してくれることが多いですが。
>皆さんも、学校や職場で いじめを目撃した経験があると思います。 皆さんは、どのように折り合いをつけているのでしょうか? そうですね、私もいじめ?といわれるような陰湿なものがあったわけではないですが仲間外れはあったし、自分もしてきました。 今、会社組織の中で生きてきて、疎外される人は傾向があるとはっきりわかりますね。 まず、学生のイジメは、なんの条件もなんの傾向もなく誰も彼もイジメのターゲットになりえると思っています。 逆に会社組織においては、確実に言えるのは調和を乱す人、仕事の出来ない人がメインです。学生のイジメと社会人のイジメは質が違います。 仕事がめちゃくちゃに出来る人が会社にとって必要であるので、イジメの対象にはならない。しかし敬遠されるというのはあり。 逆に、いい人でも仕事の出来ない人はイジメの対象になると思っています。 何故なら仕事に就くというのは、競争だからです。 椅子取りゲームとよく似ている。 1つしかない椅子を取り合う、それが仕事です。 調和を乱す人は、よほど優秀でもないかぎりイジメの対象になる。 この調和とは難しく、要するにうまく擬態化でない人が対象です。 つまり長きに巻かれ、上手に周囲に染まっていくことの出来る人はイジメにあわないというわけです。 仕方ないと思いますよ、みんなぞれぞれ生き方がある。 望むにせよ、望まないにせよ、自分の性質がありますから。 見て見ぬふりは当たり前です。 みんな好き嫌いがあります。 それを強制できないでしょう? その若い男性でイジメにあう人を、ああ、あの人はねと言う人もいるし、貴女のように心痛める人もいる。 逆に50代のイジメの首謀者を好きだという人もいる。 そこだけを見ないで、という意味です。 人はいい面と悪い面がありますから。 判断をしきれないという意味で、関わらないという見て見ぬふりをする。 逆に間に入ってきたら勇気は認めるけどずいぶんと尊大な人だと思う。 だって自分が偉い、自分が神だ!これを仲裁するぞ!というほうがおかしいわ。 見て見ぬふりをするのが、関わらないのが悪いという風潮がありますが、本当にそうでしょうか? 私はそのほうが疑問に思っていますよ。
- tomban
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目撃ではなく、あくまでも当事者であり、被害者でした。 私は「折り合い」というものは、今でもそうですけど、つけようと思ったことは一度もありません。 言うまでもないですが「私が悪いところ」というのは、何度考えても「無かった」から。 確かに、理由は思いつきますけど、それも私自身からすれば、他の人と同じように「不愉快なこと」だったし、何よりも他の人にはなかった「辛さ」というものも、感じていたわけですから。 つまり、私は他の人よりもっと「被害者」だったから。 もっとずっと不愉快で、悲しくて、辛かったから。 それでもなお、自分自身に「いじめ」の責任を求めることは、私には出来なかったですね。 だから「折り合い」はつける必要はなかったですし、周囲の人もそういうスタンスでした。 親もそうだったはずです。 親の欲目はあるにせよ、子供が辛いって泣いてるのに「アンタが悪いから」は無いですよね?。 イジメは、イジメる側が悪い。 これは原則そうです。 これが言ってみれば、私の当事者として得た「哲学」みたいなものでしょうか?。 だからこそ、反抗したんですよ。 そして、その反抗に対して「支持」してくれる人がいたこと。 クラスメートでも、教師でも、そういったスタンスだった。 それ故に、後になってからはイジメも無くなったし、自分を解放できたのだと思います。 お分かりでしょうか?。 「仕方ない」という一言こそ、イジメの「元」なのです。 諦めない当事者がいて、守ろうとする友だちがいて、教師がいた。 親が信じてくれたことがあり、イジメをしていた子も、自分のしてきたことを受け入れていこうという事も出来た。 いじめっ子にも親がいて、信じてくれる存在があったからこそ、自分の非を受け入れることが出来たわけです。 「仕方ない」という言葉を「言わないこと」「使わないこと」をしていかないと、イジメは続きます。 イジメは、その「行為」こそ、憎むべきです。 どんなに社会経験を重ね、わかったような気になっていても、そこで「仕方ない」の一言を言ってしまえば、それは「イジメ」に負けたことになるんじゃないでしょうか?。 イジメを許したことになりませんか?。 もう一度、過去を思い出してみて「あの時こうであったならば」と振り返ってみましょう。 今でないと出来ないこともあると思いますよ?。
- 1961aug
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50代男です。私の子供時代はまだいじめが少なかったですが、中学校時代に1つだけ、特定の子が、体格の小さい特定の子にしょっちゅうプロレス技をしかけていたことがあります。 そんな時は強くではないですが、「やめとけよ」「もういい加減にしたら」とか水を差すようにしてたと思いますが、ある時「これは2人のおきまりの遊びか?」と思うことがあり(その2人はいつも一緒にいたので)、止めに入るのをやめたことがありました。その後で、いじめられていた方から、「○○は止めてくれると思ったのに・・」と言われ、「あれは遊んでたのでなく、嫌がっていたんだ」と気づきました。 集団の中でいじめられる場合は、それが遊びや役割のように見えてしまい、いじめ(=本人が嫌がっている)かどうかわかりにくいように思います。 もう1つ孤立の方ですが、必要なことまで話さないのは問題ですが、仲よしと言えない相手に仲良くしろとも言えませんので難しそうです。私も学校時代は休憩時間を一人で過ごすことが多かったですが、必要があれば話もしていましたし、いじめられている・・というものではなかったように思います。 会社で上司の部下いじめは見たことがありますが、その場合はやられていた方とアフターで飲みにいったり、やっていた方にも機会があればやりすぎではないかと話ていましたが、多くの職場はそんなもんではないでしょうか? 今は、TVのニュースで見るような自殺を強要するようないじめがあるようですが、これは難しい問題だと思います。 私の子供時代(昭和)は「ちゃんとしていれば、人生それなりに」と誰もが信じていましたが、しかし今は、子供ですら「どうせお先真っ暗」と思ってしまうような時代です。 将来への不安というストレスが、その吐け口として、弱いものを見つけたり、作り出したりして“いじめ”をさせているとしても不思議ではありません。 「弱いものがさらに弱いもの見つけて虐待する」のは不安が強い社会集団の常で、ユダヤ人を虐殺したヒトラーの支持者も社会的弱者が多かったと聞いています。 そういう時どうするかは大変な決心が必要になりそうです。ヒトラーからユダヤ人を殺せと命ぜられて、従わないと銃殺すると言われて、それでもユダヤ人を救うことができるか? 「命を失くしても信念をな失くさない」ような人間になれればいいですね。
- k-a-r-a-p-a-n-a
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「八割現象」という言葉があります これは自衛隊幹部が隊員の行動から 発見した現象なのですが 100人隊員がいたとして 大体2割くらいの 脱落者が出る それでは残り8割の80名は 全員優秀かというと またそこから2割 つまり12人 脱落者が出てしまう現象をいいます 脱落者20名の中からも さらに8割の脱落者が出ますが 残りの2割の隊員は なぜか100人いたときと同じレベルの 優秀な隊員になると聞きます どうも質問者さまの質問を読んでいると なんだかこれに似た現象のような気がします はっきりとは書けませんが 病気で隔離された施設でも 人種が違うということで 同じ病気でありながら 人種差別があったと聞きます 形はいろいろと違いますが 人が集まると おなじようなことが 繰り返されてしまうのは 仕方がないことなのかと 自分で納得しています
- しくみ(@Ndilo)
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はじめまして。 >「仕方ない」という言葉では、心のモヤモヤが消えません。 でも、やはり仕方ないのではないでしょうか。 いじめの話題を聞くと、私はいつも野生の動物を思い出します。 彼らは、強いものだけが子孫を残し、種を維持しています。 身体に障害があったり、集団に適応できない個体は長くは生きられません。 生存に不利な性質を子孫に継ぐことは、絶滅に繋がりますから。 種を地球上の環境でより有利に後世に伝えていける 一握りの優秀な個体がいれば、その他は特に必要ではありません。 ましてや劣っている個体はいない方が都合がいいのです。 これは特に野生に限ったことではないと思います。 そもそも野生と野生じゃない境目ってどこですか? もし、ある環境で集団に適応できないものを排除する手段が 世間でいういじめだとしたら いじめは集団の質を高めることに寄与していることになります。 いじめられている人が、いじめられている理由に気づいて いじめられないようになるのがいいのでしょうけれど そんなことができる人なら、はじめからいじめられていないでしょう。 ひとつ救いがあるとすれば、 いじめられている人が環境を変えることです。 人間社会は他の生物よりも多様ですし、 環境によって人の評価は変わります。 今いじめられている人が、 今後評価される環境に出会えること。 また、それまでにいじめに耐えられることを 願うことしかできないのではないでしょうか。 chima77さんがそうなれたように。
- pigunosuke
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イジメる側にも、イジメられる側にも イジメを静観する側にもなった事があります イジメられる側の、なんでイジメられるの? という疑問も 当然持った事はありますが イジメる側に立ってみると イジメられる側が持っている問題に気付く事ができました 一応言っておきますが イジメる側という言い方をしてますが 私は仕事の仲間に注意をしていただけのつもりなのですが その仲間が私に 「いじめないで」と 訴えてきた事から 自分の行動がイジメに近いのだ と 気づけた訳です このような経験を元に イジメを受けていた頃の自分の事 イジメられている人の事 イジメに悩んでいる人の事を観察してみると イジメを受ける側には イジメを受けやすくなる、「性格的な問題」を 持っている場合が多いと感じました だからこそ 「イジメを受ける側も悪い」という主張にも、 納得できる部分が有るのですよね イジメられる側は、自分の気づいて無い所で 「イジメて欲しいオーラ」を出してます だからイジメるのです だから私は イジメられてる人を見ても、何もしない事に決めました 困っているのに、困っていると言わないなら 私は手を貸しません 誰かが助けてくれると 期待してるだけの人には手を貸しません 助けてください と 乞われた時だけ、助けるようにします
お礼
回答ありがとうございます。 頂いた回答の中で、一番共感できました。 「仕方ない」という言葉は、私が他人から何度も言われた言葉です。 どうしても この言葉に納得できないまま何十年も過ごしてきました。 >「仕方ない」という言葉を「言わないこと」「使わないこと」をしていかないと、イジメは続きます。 >「仕方ない」の一言を言ってしまえば、それは「イジメ」に負けたことになるんじゃないでしょうか?。 全く同感です。 しかし、他の回答者も、「仕方ない」と書いていますよね。 大多数の人は、この言葉を使い続けています。 >守ろうとする友だちがいて、教師がいた。 守ってくれる人が学校にいたのは良かったですね。 私の学校では、誰からも守られずに堪えていた子がいました。 いじめられて自殺する子に関するニュースを聞くたびに、一人で耐えていたのだろうな…と思います。 >過去を思い出してみて「あの時こうであったならば」と振り返ってみましょう。 守ってくれる友人も教師もいなかった子供は、学校で どうすればよかったのでしょうか。 現在は、「いじめられているのなら、ここに電話してください」という広告を見ることがありますが、私の学生時代にあったのかな。。 >今でないと出来ないこともあると思いますよ それが何なのか、模索しているところですが、見つかっていません。