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親しさと馴れ馴れしさの境界線とは?
- 吉行淳之介の小説には「愛することは、自分の分身を持つこと」と書かれており、自分に対する顧慮が倍になる反面、わずらわしさも増えると述べられています。
- この文章に共感し、自分では相手との距離を意識して近づき過ぎないようにしていますが、反動で相手に心をとらわれることもあるようです。
- 親しさと馴れ馴れしさの境界線は一体どこにあるのか、質問したいと思います。
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うーん、吉行淳之介の文なんですが、私は少し、捉え方が違います。 顧慮…「たのみ」ですよね?…欲、と言い換えてもいいのかな?…が、もうひとつ増える、と。 自分自身の分身だからこそ、そこに「激しい情愛」が生まれるのだが、それは同時に、自分というものを嫌がおうにも倍見なくてはならないから、身を避けているのだ…ということでしょうか?。 つまり「愛するということはエゴである」ということですよね?。 でも、私は 「エゴならエゴでいいじゃない?…私は私でしか無いのだし」 …と、思うのです。 他人を好きになる、ってことは、やはりどうやっても「エゴイズム」だと思います。 行き過ぎると「ナルシズム」になりますけど、やはり少しくらいはみな、自分勝手でいいのではないか?と。 エゴ丸出しになる時もあっていいのではないかと。 所詮、自分は自分以外にはなれないし、それが他人という鏡というか「虫眼鏡」で、時にはジリジリと焼かれるようにかえってくるわけですが…それは敢えて受け入れたいと思うのです。 指摘されたり、何らかの行為で激しく動揺させられたりするわけですけど…自分が、自分に対してはどうしても甘くなりやすいものなので、時にはそういうことがあってもいい。 自分で自分を「発見」させられてしまうのは苦しみが大きいけど、他人からならかえって「楽」じゃないですか?…嫌なら蹴り飛ばしてしまえば良いのだし、否定したって構わないのだから。 他人というワンクッションを置いて、自分がわかるのであれば、これは「幸運」だ、と私は思うのです。 分身なんて、所詮は分身…写身に過ぎませんよ。 ダメージを食らうことを恐れないほうが良いと思いますけど…どうでしょうか?。
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依存があるかないかです。 その人がいないとダメ、イヤってのが、なれ合い。 その人がいなくても、ひとりでも十分楽しい。 でも、その人といると楽しいっていうのが親しいってことです。
お礼
回答者様のご意見、なるほど!と納得しました。 >その人がいなくても、ひとりでも十分楽しい。 でも、その人といると楽しいっていうのが親しいってことです。 こういう恋愛をしてみたいものです。けれど、そうするには自分も一人の女性として自立しなければいけないということでしょうね。 回答ありがとうございました。
- aymhfgy
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親しさというのは仲好くしてはいても、相手のプライバシーに決して踏み込まないことだと思います。 馴れ馴れしいというのは、相手が聞かれたくないことをつい聞いてしまったり、自分の素のままを出したり、相手に対して遠慮がなくなることだと思います。 親子でも恋人でも友人でも夫婦でも、余り近づきすぎて馴れ馴れしくなってしまわないということが、人間関係を築く上で大切だと思えます。
お礼
親しき仲にも礼儀あり、ということですね。 私はまだ独身でありますが、結婚したらどうなるんでしょう…^^ 心の何処かに、こういう気持ちを持っていたいものだと思います。 回答ありがとうございました。
- バグース(@bagus3)
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自分がどういう言動をしたかではなく、相手がどう 受け取ったかが決定権を持ちます。 先生に同じように叱られた生徒でも、受け取り方はさまざまです。 すっかりへこんでしまう子、すぐ忘れてしまう子、先生を恨むようになる子、 猛省して自分を改善しようとする子。 親しさとなれなれしさの境界線も、行為者も第三者も決められません 受け止める相手が決めることなので定義できません。
お礼
>親しさとなれなれしさの境界線も、行為者も第三者も決められません 受け止める相手が決めること 仰る通りでしょうね。親身になるという言葉がありますが、こちらは、そのつもりでも相手にはお節介と思われてしまったり…。 人付き合い、難しいです。しかしながら、私の様に一定の距離をおくことばかり考えていると、喜びも半減してしまうのかな、とも思っています。 回答ありがとうございました。
お礼
吉行淳之介の文章にも、ご意見下さりありがとうございます。 私はこの文章の【顧慮】とは心配事といった意味で捉えております。 他人との距離の測り方を誤ってしまうと、どうしても心配事が増えてしまう、厄介なことを抱え込んでしまうわけです。特に私はそうした傾向がありまして、この小説「驟雨」を読み深く頷いてしまったわけです。 晩年の吉行淳之介の随筆などを読みましてもそこかしこに同様の文章があります。彼が亡くなられたのは私が確か中学生の時であり、文壇では大家といわれ、銀座のバーなどでは、右に出る者がいない、との評価があったらしいですが、リアルタイムでは全く知りません。しかしながら、実際のところこの方は女嫌いではなかったのか、女性との距離の取り方があまり上手な方ではなかったのでは?なんて思ってしまうのです。それでも死後に何人かの愛人が暴露本もどきのものを書かれたので真偽は定かではありませんが…。 >ダメージを食らうことを恐れないほうが良いと思いますけど 確かにそうですよねえ。あまり臆病になってしまうと人との関わりから得られる喜びも半減してしまうわけですしね…。 何かエールを頂いたようなご回答でありました。 ありがとうございました。