「隣国と仲良くしたい」は、間違っていた?
以下は、いままで長い間「隣国とは仲良くすべきだ」と考えていた私が、「それは間違っていた」という、いわば反省文です。この反省は間違っているでしょうか。
日本は総体的に善良な人が多い国でしょう。それゆえに、わが国では「隣の国とは仲良くしないといけない」、と思う人が結構多いようです。政治家のなかにもいるようです。私も、今日までは、そうだなぁ、と思っていました。
韓国紙・中央日報が、2013/5/27付のコラムで、日本への原爆投下を「神の懲罰」だと書きました。私は、そのときも、やはり同じ考えでした。
しかし、最近になって、どうも、その思いが怪しくなってきたのです。例の「ホワイト国」除外問題から、隣国の国民が、これでもか、これでもか、と全国的かもと思われる規模で、反日運動に熱を上げています。この状態を、ある人は、「反日民族運動」だと表現しています。
その隣人が、「1965年に日本の国と結んだ日韓請求権協定は違法だ」、として、守らないと主張するのです。
昔から、いつも、どこでも、隣人とは特別な関係のようです。次の様な諺もあります。
「隣の貧乏鴨の味」
人はとかく他人の不幸を願うものだというたとえ。隣の家が貧乏だと、まるで美味しい鴨でも食べているようないい気分になるという意。
「隣の花は赤い」
他人の物はなんでもよく見えて羨ましく思えるというたとえ。隣の家に咲いている花は、自分の家の花より赤く見えるという意から。
これで、分かるように、もともと、隣人と仲良くすることは、至難の業のようです。隣人と仲良くしようと考えていた今までの考えは、間違っていたようです。
個人の家とは難しいけど、遠くの家とは仲良くできます。それは直接の利害関係がないからです。元々、隣とは仲良くできないのです。学校の場合もそうです。学校の成績が1番の人と2番の人は仲良くできません。40番の成績の奴と一番の人は仲良くできます。
ある人は「隣人とは憎みあい、遠くの者と仲良くするということが地政学の常識です」と警告しています。
このような事象は、原理原則です。隣国とは仲良くしようとしてもできないのです。仲良くしようと頑張るのは、「地政学の常識」に無知な者が考えることだと、今回の「事件」で理解しました。
隣国とは、仲良くする努力などしても無駄なことで、殺し合いの戦争をしないように気を付ければいいのです。経済的な戦争があっても、構わないのです。経済的な戦争が絶えないとしても、それは、地政学的には普通の状態なのです。特に心配することはないのです。
今日、隣国から日韓秘密軍事情報保護協定破棄のニュースが入るかも知れませんが、大型台風予報ニュースくらいに聞いておけばいいのです。
お礼
ありがとうございました。 腹立たしいですね。