No.10,11です。ご返信、ありがとうございました。
先にNo.10の件について返信しますね。
>酷い病人は健常者は目に見えてわかるので丁寧に。
病人と健常者の間、その中途半端な理解に立つ俺達は、健常者の健常者側に傾く理解の裁量で理解され。
結局は健常者が偉いんです。気持ち悪いですね。
そういう見方もあるけれど、
「人は目に見えることは直ぐに理解できるけれど、見えないことはなかなか理解できない」
「人は直接見たり接触する機会のない出来事に関しては、正しく認識するとが出来ないものである」
と、ここでは そういう話をしたかったんです。
発達障害当事者も家族も、「発達障害という概念を知らなければ」、「性格や個性」と考え、出来ないことに対しては「努力不足」と考える。
その点では、健常者と同じです。
でも、「疑問を持ち、何か真実があるはずだ」と考えたとき、「発達障害という概念に行き当たる」。疑問を抱くまでは名前さえも知らなかった場合もあるでしょうし、名前は知っていても、そんなのは考え過ぎだとか、医者が勝手に作り出した机上の空論だとか、鈍い人の言い訳や慰めのために作られたでっち上げだと、「妄想の産物と軽視していた人でさえ、真実を知りたい」と考える。
そして、やっと「現実が見えてくる」んです。
「現実が見えてくること、それが理解への第一歩」です。
結局、「人は真実を知りたいという気持ちがなければ、見ることすらできないし、理解することが出来ない」という話がしたかったんですよね。
だから、あなたが言う偉い人とは偉い人ではなく、「自己完結している人」とするのが正しいと思います。
鬱病を患っている人の中には、努力、努力の繰り重ねで、それで何とか成績を上げ、アップアップしながら仕事をしている発達障害者も混じっています。
でも、そういう人は努力でカバーできているから、自分が発達障害とは疑わずに、思うように仕事をこなせないのは自分の努力不足だと「自己完結」して、自分を更に苦しめている、そういうことだってありますよね。
そして、体を壊して病院へ行き、検査を受けてやっと発達障害だったということがわかる。そんなケースもありますね。
真実が解らないまま自己完結している人は、健常者の中にも発達障害の人の中にもいます。どっちが偉いとか、偉くないとか、そんな話ではないと思いますよ。
偉いとか、偉くないとかに拘るのなら、「偉いのは真実を知ろうと努める人」、そういうことになりませんか。
だから私は、「結局は健常者が偉いんです。気持ち悪いですね」とは思いません。
「無関心だから理解できないんだな」と思うだけです。
口では関心を示しているようであっても、理解したいと思えるほどには関心がないのだろうと。
どんな人でも、自分で疑問を持ち、関心を持たなければ理解には至らない。
それは、健常者も発達当事者も同じことです。
だから、偉いとか、偉くないとか、そういう概念に縛られることはないと思います。
真実を知りたい、知ろうとする気持ち、そちらの方が尊いし、偉いという言葉が本来持つニュアンスに近いと思います。
そう考えると、真実を知りたいと思っているあなたは、無理解な人を軽蔑したり、そういう人に踏みつけられていると自分を卑下する必要もない、とそう思うのですがね。
私は、解らない人は解らなくても良いと思っています。
知りたくなったときに、尋ねてくれればそれでいいと。
知りたい人、知ろうとしてくれる人には、障害について話をします。
そういう人は、真剣に話を聞き、理解に努めてくれます。
それで良いと思っていますよ。
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No.11の件について返信します。
ピカソの話をすると、そういう反応が返って来るかなと思いました。
でも、ここで言いたかったのは一長一短の話だったんです。
ピカソは確かに天才だったけれど、ものすごく端的に言ってしまえば、
「好き嫌いのハッキリした極端な人が、理解ある環境(成育環境だけではなく自らも積極的に作った)を生かし成功を収めた」んだと思います。
画才がずば抜けていた、これは成功要因として大きいけれど、発達という観点から見たら、ものすごくアンバランスな人だったから、そうする(画を描く)よりなかったとも言えます。でも成功の鍵は、自分が好きなことをずっと好きでい続けられたことだと思います。彼は、普通であることに固執しなかったから、常人なら劣等感を抱き克服しようともがくようなこともバッサリと切り捨て、妻も恋人も捨て、好きなように生きた。
結局、「障害というのは、自分で劣等感を抱かなければ障害にはならないし、何でもかんでも手に入れようともがけばもがくほど、障害を感じるのではないか」という話です。
ピカソは今の世でサラリーマンをしていたら、発達障害者のレッテルを貼りまくられていたと思います。でも、彼は苦手なことには固執しなかった。というよりも、好きなことにだけ固執した。好きなことを手放さずに情熱を傾ける。これって本当は相当に孤独なことでもあったと思うんです。
「時代遅れの画家」「狂った老人の落書き」と言われてもへこたれないほどに芸術に全てを賭けていた。それは、芸術が彼のライフワークだったからだと思います。
>彼のように生きるのも一手だと思いますよ
と言っているのではないのです。
趣味と言ってしまうと軽すぎると思うのだけれど、自分を突き動かす原動力となり得るもの、アイデンティティーの源となり得るもの、そういうものがないと心は萎縮したり疲弊してしまう、そういう話をしたかったんですよね。
こればっかり(自分を突き動かす原動力・アイデンティティーの源)は、自分で見つけるしかないんですよね。
「好きこそものの上手なれ」というでしょう。
周りがどう言おうとも、「好きなことがその人の適正」なんですよね。
でも、ネガティブな感情に押しつぶされたり、それでは食べていけないと手放してしまう、そして存在そのものを忘れようとさえしてしまう。
それをしないで、自分のために打ち込む時間を持つべきじゃないだろうか?
自分の心を豊かにするために。
自分の心を豊かにすること、それが心の基礎体力と言えるのではないのかと。
…というのが、ここで一番言いたかったことです。
>それに友もおかしかったと思います。そんな友に救われるのって、地獄に引き戻されるような、足を引っ張られるような感じしますね。
その人は友達ではなくて、ただの腐れ縁だったのでしょうね。
無理に合わせてばかりいると、そんな関係になるのでは…。
聞く耳を持つ人が良い友達だと思いますし、自分も聞く耳を持つことだと思います。
言いなりになるということではなくて、共感し合える関係、発想の転換を教え合える関係、そういうのが友達といえるのでは。
でも、それも小さな縁の積み重ねですね。
心が後ろ向きなときは、なかなか出会いも縁もないと思いますが、小さな縁を大切にすることが第一歩だと思います。
>クロスワードの件ですが、ネットで調べれば効果ないと書いてありますが。
認知症の初期症状に「物の名前がすぐに出てこない」というのがありますし、「言葉そのものが連想できない」というのがあります。
ですから、認知症予防にクロスワードパズルが良いと言われています。
今も続けていらっしゃるのか解りませんが、若かりし頃の山田邦子さんは、お笑い芸人という仕事柄、言葉を直ぐに思い浮かべられるようにと、クロスワードパズルを日課にしていたそうです。
私は効果があると思いますよ。連想できること、これは会話するうえで最も大切なことですから。連想できるから、言外の意味は解ったりということもある、そのように思いますね。
>どっちなんでしょう。新論に振り回されるの疲れてきました。
発達障害のことも妄想の産物と言い切る人の意見が載っているネットですから、あまりネットを偏重しない方が良いと思います。
No.6でも書きましたが、
「ともかく一番大切なのは、ストレスを感じない範囲で楽しむこと、どんなに小さなことでも技が身に付くことでプラスになっていると希望を持つこと」だと思います。
心のタフな人って、みんな希望を捨てていないですよね。
後、良い意味で自己暗示が上手です。
楽しめていて、明日に疲労が残らないのなら、好きなゲーム(もちろん、テレビゲームも)を続けて良いと思います。
この件に関しては、主治医にも どう思うか聞いてみてください。
それと、ゲームに費やした時間は表にして書き出しておくなどの工夫をした方が良いと思います。(更にいうなら、他の日常生活の時間配分についても記録しておくと、生活リズムの改善に役立つと言われています。)
少なくともゲームの時間だけでも書き出しておけば、後からでも客観的に振り返ることができるので、やり過ぎ防止にもなると思います。
お礼
ご回答有難うございます。 今は心がざわついていますので、あとで読みます。