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再犯のなのに

植草一秀教授の事件を見てびっくりました。素晴らしい 経歴を持ちながら見事に堕ちてくれましたね。たぶん すべてを失うんでしょう。大学の教職、経済評論家 など富と名誉を一気に失うでしょう。 しかし疑問に思うのが再犯なんですよね。過去に 同じように盗撮で捕まっています。その時は 今ほどマスコミに出てないので騒がれなかったかも しれませんが、やはり社会的に責任のある要職に 就いているのですから当然制裁を受けるべき ですよね。でも盗撮なんかせいぜい執行猶予 ですから刑には服さないで済むわけですよね。 となると自ら申告しないと軽い犯罪なら 社会的な制裁は受けないのでしょうか? 私の身の回りでも飲酒運転などで懲戒免職に なった知人がいるので気になります。

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  • JACO1011
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回答No.3

過去の犯罪歴というのは戸籍だとか身分証明書だとか住民票みたいな公的文書には記載されませんし、警察に問い合わせても基本的には教えてなんかくれません。履歴書の賞罰欄に本人が記載して申告するのでなければ、原則としてわかりません。 警察には、社会的制裁を促す責任はありません。犯罪者が未成年でなくて、特にその他の必要も無ければ、職場や家庭に対して必ずしも報告しなければならないわけではありません。 飲酒運転で懲戒免職になった人はその事実が会社にばれてしまっただけで、ばれなかったら一市井人が飲酒運転で逮捕された事実なんか事後的に調査しようが無いです。 社会的制裁というのはバレて初めて社会から受けるもので、「受けなければならない」とどこかに定められているわけでもありません。結局はバレるかバレないかという次元の問題です。バレないこともままあります。 たぶんわかってれば早稲田も少なくとも教授にはしなかったんじゃないでしょうか。 過去の犯罪自体は罰金や服役で贖罪されてるので、贖罪された犯罪歴自体は就職などを断る正当な理由にはできませんが、普通はなんだかんだで助手にも採用しませんね。 私なんかは社会的な体裁気にしませんから、植草さんが贖罪した後に仕事したいって言って来たら、安いお給料で採用しちゃうかもしれません(笑)

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  • tennnou
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回答No.4

まず、犯罪と宗教は全く無関係の事象です。宗教が無かった太古から人と共に犯罪は存在していました。時代と共に、または土地によって何が犯罪なのか基準が変化します。中東方面では報復を奨励しています。日本では報復は重罪悪です。戦前の日本国は一般的には不承不承みんなで戦争を賛美してそして参加しました。終戦後一夜明けたらみんなが一斉に戦争反対と言い出しました。あんなに戦争を奨励していた新聞ガミも一夜明けたら手の平返して平和主義者に成り済ましたではありませんか。時代・土地が違うだけでこんなにも概念が変わるという一例です。 ぐっと下がった話で、日本では痴漢行為は日常茶飯事で、大罪とは認知されていません。しかしシンガポール・欧州では重罪です。以下、シンガポールの例。被害者が訴え出て確たる証拠があれば、また当局捜査官が目撃した場合は、年齢・身分を問わず即有罪が確定し服役します。そして服役中に最低一発でも鞭打ちの刑を受けなければなりません。この痛みは生涯忘れることが出来ないでしょう。社会制度制裁と身体制裁両方という重罪です。年齢を問わずTV・全国紙で写真住所入りで報道されるのは無論です。犯罪を犯すと制裁されるのは至極当然だという社会が正しく機能している例です。 翻って日本ではどうでしょうか。上から下までみんなで、もうやりたい放題をやっている昨今です。それは法整備の立ち遅れと民族性が大いに関係していると考えられます。臭い物には蓋をしちゃえ、見て見ぬ振りをしちゃえ、当座しのぎで間に合わせればいいや、やってる振りしてれば偉そうに見えちゃう、温情の間違った解釈 などなどが原因と考えられます。法の未整備を悪用して犯罪を繰り返す輩も出てくるでしょう。 それなら日本の人民みんなで社会制裁という方法で償いをさせるように持って行ったらたらどうでしょうか。つまり'やり得'の存在しない社会を造ると言うことです。ましてや'再犯'なら何をかいわんやです。 初めはlivertyさんと私二人で社会に訴えかけて、やがては全国的なコンセンサスになる日を夢見たらいかがでしょうか。日本の現状を鑑みるとこのくらいしか手立ては無さそうですよ。 お上の再三・再四の勧告を無視して戦争地に出かけて行き、お上のやることに不満をむき出しにし、それを喜んで売文記事にするような連中がいる日本では相当に踏ん張らないといけませんね(汗)。 『罪を悪(にく)んで人を悪(にく)まず』と言うけれど、これは大人の世界の国のことで、どこかの幼稚な国では無用な言葉ですね(爆笑)。 不公平がはびこる日本、今でも12歳れす!・・・マッカーサーJr(仮名)。 以上ぜ~んぜん疑問のお答えになってませんね。あしからず。彼の国より徒然なるままに。

noname#13376
noname#13376
回答No.2

訂正 (あなたが男性だとすると)女の子のパンチラが本当は好きだったり、   ↓ (あなたが男性だとすると)女の子のパンチラが本当は好きではなかったり、

noname#13376
noname#13376
回答No.1

警察というところは、初犯の場合で、十分な反省がみられれば「説諭」だけで開放します。もちろん、上申書(もういたしません、という反省書)は書かせます。 ですから、前回は、説諭で放免だったのでしょう。 それから、確かにハレンチな犯罪でしょうが、それに見合う罰則ではないのも、事実です。罪と罰のバランスが悪すぎるのです。 しかも、2回目とされている今回は、本人は容疑を否定してすらいるのです。それでも、彼は社会的制裁として、職をうしない、家族もその所属する集団からはみだし、あるいはいじめられているでしょう。 他の犯罪よりも、はるかに、社会的制裁がきびしいのです。 しかも、(話は脱線しますが)痴漢は、被害者が「このひと痴漢です」といっただけで、それ以上の捜査はなにもなしで、犯罪者にされます。もちろん、本当にやったなら自業自得ですが、そうじゃなくても・・・です。 そう冤罪です。 でも、痴漢というレッテルが一度貼られると、もう取り返しがつかないくらい、社会的に抹殺されるのです。とても、理不尽ですが。 どんな人間にも、ココロのすきまというのは、できるものなのです。 どんなにアタマのいい人間でも、「明日のことを考えられない一瞬」というのができるものなのです。 だから、「自分は絶対に罪がない」という考え方は、おろかで傲慢で独りよがりの考え方なのです。 聖書に、次のようなエピソードが出てきます。 姦淫した女を取り囲み石を打とうとする群集がいます。 そこにイエス・キリストがいました。 群集の中のひとびとは、ここでイエスがなんというのか、注目しました。 そして、イエスがこういいました。 「あなた方の中で罪のない人だけが、この女に石を打て」と。 ユダヤでは、姦淫した女に群集が石を打つのが制裁として当然のことでした。 だからこそ、群集はそのユダヤの教えどおりにいうのか、それとも新しいことをいうのか、それを注目していたのです。 しかし、イエスの言葉は前述の通り。 そして、ひとり、またひとりと、その場を立ち去る人々。最後には、イエスとその女だけがその場に残ったのでした。 あなたが、本当に罪のない人、この場合は、(あなたが男性だとすると)女の子のパンチラが本当は好きだったり、(あなたが女性だとして)嫉妬や妬みや独占欲がない人間だったり、そういう人であり、心の中の考えを人にのぞかれて、なんら恥じるところのない人間だ、と断言できるなら、 どうぞ、くだんの彼を責めてください。 「私は思っているだけで、実行していないから罪がない」 という人もいます。 しかし、「心の中で姦淫したら、実際にしたのと同じだ」ともイエスは言っています。 この通りに思え、ということをいってはいません。 しかし、これほど厳しい倫理観もある、ということをいっているのです。 人を(このような公然の場で)批判するなら、それくらいの高い倫理観をもって、批判して欲しい、といっているのです。 なお、この文章を「批判」と受け止めるのはご自由ですが、これは「批判」を目的とはしていません。 もしそう思うのでしたら、それはあなた自身に何か感じるところがあるから、でしょうね。