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障害者クラスと生き辛さについて
発達障害について、相談させて下さい。 私には3人の子どもがいます。 長女は中学3年生なのですが、その長女の学校には支援級というのがあり、普通のクラスとは別に障害を持つ子どもたちが通っています。 去年の林間学校のようなものの実施が、普通クラスと支援級で実施日が違った事でふと疑問を持ちました。思えば体育祭でも支援級は出られる競技がとても少ないし、学校に伺っても支援級がどんなクラスなのかという情報は入って来ません。 そんな時に長女が話してきた事があります。 「学校内での交流は年に1回の交流給食と、支援級の劇の発表会を1度見学するだけ、劇の発表も自分達は遣らないからすごく差別している気持ちになる。中には自分と全く変わらないような子もいるのにあの子は障害者クラスで凄くかわいそうだ。」と言っていました。 実は長女は成績が下から10番以内で、特に数字がとても弱く、小学校2年生の時点から私は学習障害を疑ってきました。 そして、生活面などを見ていても、発達障害と言えばそうかもしれないなぁと思う面もあります。 しかし、彼女は普通クラスでやってきました。 私も一度診断に行こうかと思ったこともあったのですが、なんとなく行かずじまいでした。 その長女が言う、自分と全然変わらないような子、というのが、実際は表に見えないだけでなにか大きな問題があるのかもしれません。 もしかしたら、本当に他差のないレベルの子もいるかもしれません。 ですが、私は思うのです。 普通クラスと全くと言っていい程接触がなく、学校内で、まるで世界が別ですよというような事がまかり通っているのであれば、それは差別行為ではないのかと。 結局、支援級というのは、一見発達障害のために特別に設けられている物のように見せて、実は普通クラスから扱いずらい子を除外するためのもの、に見えて仕方がないのです。 正直、私は差別行けない、助け合うという社会を目指すのであれば、障害児も同じクラスの中に居て、健常な子供が助けていくというのを当たり前と思う教育をしなければ、いくら口だけで差別はダメだ、助け合いだと言っても、社会の仕組みが差別し関りを持たなくしている状況で、どうやって?と思うんです。 学ぶ場もなければ実践する場もない。 自分よりも、クラスの中の子は一定のレベルに保たれ、みんなが同じでなければいけないという空気。 教師もそういう差別に疑問も持たない。教師自体が差別して扱う。 普通クラスの親は障害児クラスの存在なんてまるでないかのように振る舞う。 私達とは関係ないですよ、と言わんばかりの態度。 本当にこれでいいのでしょうか? NHKなどで発達障害について放送されていますが、いくらテレビで学んでも、世の中がこんな状態で、本当に障害児に対する理解が進むとは思えません。 身体的な障害や、ダウン症、脳性マヒや生まれつきの障害、発達障害、など障害には様々ありますが、障害を持つ人の生き辛さというのは、結局障害があるために、『一般人』と差別化されてしまうという、普通といわれる人々の意識からきているのではないかと思えてなりません。 支援を増やす、という前に、普通と言われる人の意識が変わる事が一番重要なのではないでしょうか? 皆さんはどう思われますか? いろんな立場の方からのご意見を聞きたいのでカテゴリは福祉にしませんでしたが、ここでいいのか分かりませんが、ぜひ皆さまのご意見を頂ければと思います。 宜しくお願い致します。
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- axes12
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こんにちは。 私の意見ですが…。 「差別」ではなく、「支援が必要な子どもを分ける」ということだと思います。 障害がある子どもは、質問者様の言う「普通の子ども(健常児と言わせてもらいますね。)」に比べて教育に時間がかかるため、より手厚く教育を受ける必要があることは理解していただけると思います。(例えば、障害児一人につき、教師は2人必要など、実際に手厚い教育が必要です。) また、子どもを分けて効率良く教育していくことは、健常児も教育現場で普通に行われていますよね。例えば、高校教育では、理系や文系クラスに分かれますし、難関大学に進学するための特別進学クラス等を設けて、異なるカリキュラムで学んだりしますよね。 特別な教育を必要とする子どもを、普通の子どもから分けて支援学級で教育しているだけですから、私は何も問題には感じません。 むしろ、普通学級の中で、健常児と同じ教育を障害児に「押し付ける」方が、障害児にとっては苦しいのではないでしょうか? そもそも、支援学級が作られた経緯は、「本来は支援学校に通って、手厚い教育を受けるはずの障害児が、普通学級で過ごさなくてはいけない現状」から、作られたわけですし。 扱いづらい子どもに対する「差別化」ではなくて、「普通学級で苦しい学校生活を強いられている、児童への救済措置」です。 また、普通学級の親は、支援学級の子どもを知らん顔と仰いますが、障害のある児童が、支援学校または学級で通っている事実を「決して認めない親」だっていますよね?ご存じとは思いますが…。 だから、ある意味、昔は、障害のある子どもを認めない親が、エゴにより、普通学級での学校生活を「押し付ける」ことがあったんだと思います…。支援学校しか当時は存在してなかったですし、支援学校=重い障害、と、少なからず誰しもが抱いているイメージだと思いますし。 そうではなくて、一見「普通」にみえる子どもが、実は「障害」が原因で、友達や学校に馴染めない子どもが「存在する」限り、支援学校だけではなく、支援学級での教育は必要なのだと思います。 さらに言えば、支援学校の教育や普通学級での教育のどちらにも「学校生活が苦しい障害児」も存在します。 その子どもが支援学級で、のびのびと学校生活が送れる子どもだっています。 他にも、障害は多種多様で分かりにくいですから、小学校の低学年では問題が見つからず、高学年で初めて分かるということだって十分有り得ます。 そういう意味で、医師からの「診断」を受けて、障害者であることを「社会に認めてもらう」ことで、医療や福祉、教育等の様々なサービスを受けながら(支援してもらいながら)生活できるという側面もあります。 また、「診断」→「社会に認めてもらう」ということに関しては、障害者に限ったことではありませんよね? 電車やバス内の優先席、車の初心者やシルバーマーク、妊婦カード、女性車両、喫煙所、等、私たちが生活する中で、「社会的に認めてもらう」ことの大切さが、至る所にあるはずです。 その「社会的に認めてもらう」ことと、「社会的に認めてもらった存在に対して、どう感じるか」は、「個々の価値観」でしかないので、価値観を統一することは不可能です。 質問者様は、その点を混同してしまっているのではないですか? また、さらにいえば、質問者様は、「障害者の立場からものを言っている」と思いますが、私には、「健常者の立場からみたもののみかた」という印象が感じられます…。 支援学級や、診断、支援学校は、障害者からの立場でみた場合の制度だと私は思います。 話を戻しますが…。 価値観の統一→思想の統一。これは、ある意味で、社会主義であり、民主主義ではありません。 なので、質問者様が仰るような、世間一般的には差別はダメだと言われているのに、現状はそうではない、ということに関しては、「障害者うんぬん」とは別問題です。価値観の違いを認めている民主主義の日本では、健常者が「考えを変える」ことは、ある意味ムリだと思います。 「答え」なんてものは存在しない、と私は思います。ただ、大多数の人が感じることが、世間一般的価値観になりやすいということだと思いますし…。 健常者が差別するから、障害者がいるのではなく、障害者は、この多種多様の社会で生活するのは、想像以上に大変な努力が求められます。 もう少し、「障害の種類等」に関しても、質問者様と議論してみたいところですが…。
- aho0xff
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いや。申し訳ないけど。それは無理。 理由は単純明快。「みんなで仲良くがんばろう」そんな社会ではないからです。 マザーテレサさんが生前来日した際に日本人は心が貧しいと言い切りました。 http://nippon-senmon.tripod.com/column/mather.html たった数日の来日でこれが言える事の意味を考えてみてください。 質問者さんは「発達障害のある子供」にスポットを当てていますが マザーテレサさんがこの結論に至った理由は「道行くおっさんの酔っ払い」です。 質問者さんは、明け方泥酔した見た目よろしくないおっさんに声をかける事が できますか?私はできません。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
授業に関しては、分けないと難しいです。 交流方法に関しても、実は難しいのです。普通のクラスの子供は問題無いですが、支援クラスの子供達は普通クラスと関わりが難しい子供も居ます。今は支援クラスの子供が普通暮らすに歩み寄るような形で、進められています。 社会は障害者に優しい世界ではないので、それに対応出来るようにしているのが現実です。 こちらでは、発達障害の子供だけかな。交流教室として普通クラスに入って学習させるなどの事もしています。そういった形での関わりもあります。でも、やっぱり難しいのが子供達の言葉遣いです。これらが原因となり入れない、その為に一般の子供達との関わりが制限さるという問題もあります。 保護者も引け目を感じていることもありますね。まぁ、わが子達は支援クラスに居るけどね。 小学校では結構自由度が高いので、交流やらを深めようと努力して居ます。でも、中学校になると、難しいようです。それと、先生自体がまだまだ対処出来ない事も多いので。 それと劇に関しては、これは支援クラスの子供のためです。人と接するのが苦手だったりが強いので、こういった取り組みで人前にでる練習なんです。出来ないで終わらせない為に。その為に相当練習しますからね。一般子供達以上に。 後はPTAの取り組み方も関係します。 子供の人数も多いと、難しいのかもしれませんけどね。
- JqqF
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私は成人後に診断を受けた、アスペルガーです。 で、診断を受けたことで就学時の経験が、ぱぁーと蘇ったんですね。そういえば、母親に連れられて施設に通っていたなとか、私だけ同級生とは別行動をとっていたなとか。私の母親は呑気な人で「発達障害って何や分からん」でしたし、発達障害に関する対処も確立されていない時代だったので、ただただ問題児であると自他ともに自覚して過ごしてきました。なんと私の場合は、時間割りの活用法を知ったのも卒業後です。時間割りをどう使うのか分からないまま、学校に行ってるんですから問題山積です。そして何よりも我慢ならないのは兎に角学校は騒音が激しすぎる場所ということでした。で、小学二年以来から生粋の不登校児になるわけです。朝に三人ばかりの教師がやって来て担がれて登校するような日もありました。そんな事件は大抵の場合で周囲が無理にやったことなのに、私が起こした事だと責められるんです。大変自尊心を傷つけられたし、大迷惑でしたよ。そして私は学校内では何も出来ない人になるんですから、学校に行く意味がないんです。多勢の大人を相手どって自宅自主学習の権利を闘争しましたよ。その闘争は常に無残な負け越しで、毎日教師が訪問しては大騒ぎの日々が卒業するまで続きます。呑気な母も相当参っていました。結果、テスト成績だけは卒業するまで上位でしたし、不思議なことに40歳手前の私の大親友として数人の当時の同級生もいます。就いた仕事でも評価を受けていますし、結婚出産も経験しました。卒業後全てがつつがなく、滞りなくあったわけでは勿論ありませんが、人生の切磋琢磨は誰しもが避けては通れないことでしょう。私にとっては、学校に行かなかった後悔や、不便など微塵もありません。ですが、自身が多数派の所属ではないとする自覚があって、この自覚こそが私の人生を開拓する武器であったことは間違いないです。その自覚を強固にさせたのは学校の存在であることも間違いないです。 私は、多数派にとっても自分達はたまたま多数派に所属しているに過ぎないという自覚が大事だし、人生を生き抜く武器になると考えます。多数派であることが、常に社会にとって優位であることの保証にはならないからです。1対1で対峙した時には、定形発達者は発達障害に圧倒される場合が多い事実があります。これは、多数派が少数派と比較して個人的能力に欠けることの証明ではなく、多数派の自身の性質に対する自覚が足りなさ過ぎることの結果だと考えます。だから、多数派にとって少数派が脅威になるんです。 現在、発達障害児に対する学業支援のありかたは、地域や学校体質によって様々でしょうが、全般として定形発達児の保護に傾いているは否めない事実だと思います。あくまでも看板は発達障害児支援と掲げていますけれどね。その状況が発達障害児の将来に悪影響を与える可能性は少ないです。もとより、環境からの影響を遮断したい性質を備えていますから。影響をダイレクトに受けるのは空気を読みたがる定形発達児です。自覚から遠ざけられて、ある日突然、修羅場に放り出される。自己救済の為に「苛め」をやるしかない。大人の責任は重いですよ。
- zozokegatatu
- ベストアンサー率25% (379/1495)
>あなたが突然不慮の事故で半身不随になり、仕事も出来ないほどになったとして、仕事もできなくなったほどの人は、身内でも面倒をみる必要はありませんよね。 当たり前の事でしょう?だって何の利益になりませんから。そのために代償を稼いでいますからね。代償を持った人間は強いのですよ?金のないやつ、稼ぐこともできないヤツは生きていても仕方がないのですよ。 私の総資産いくらあるか知ってますか?貴方の子供では3代4代になっても作ることも出来ない金額です。 ごめんなさいね、こんなことを言ってる自分は、他人様なんて金と契約以外で信用もしませんから。 無償で何かしろなんてキチガイの思考は持たないのですよ。 頭のあるカタワは使い物になります。頭のないもののは親の性癖で生かされて飼われている犬です。 こんなことを言うと犬に失礼ですね。 貴方はq今後それを飼う資金はありますか、資金文、人は時間で面倒を見てくれますよ。
- hideka0404
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発達障害と一口に言っても・・・ 実際には 神発達遅滞(知的障害)- 一般的に、精神発達遅滞のみの症状の場合は、発達障害に含まれない。 軽度精神発達遅滞 中等度精神発達遅滞 重度精神発達遅滞 最重度精神発達遅滞 精神発達遅滞、重症度特定不能 広汎性発達障害 (PDD) 自閉症(ICD-10での名称)/自閉性障害(DSM-IVでの名称) レット症候群(ICD-10での名称)/レット障害(DSM-IVでの名称) 小児期崩壊性障害 特定不能の広汎性発達障害 高機能広汎性発達障害(高機能PDD)- 広汎性発達障害とされるもののうち、知的障害のないもの。 高機能自閉症(ICD-10での名称)/高機能自閉性障害(DSM-IVでの名称) 学習障害 (LD) 読字障害 算数障害 書字表出障害 特定不能の学習障害 運動能力障害 発達性協調運動障害 注意欠陥障害 (ADD) 及び破壊的行動障害 (DBD) 注意欠陥・多動性障害 (ADHD) 特定不能の注意欠陥・多動性障害 行為障害 反抗挑戦性障害 特定不能の破壊的行動障害 コミュニケーション障害 表出性言語障害 受容―表出混合性言語障害 音韻障害 特定不能のコミュニケーション障害 ・・・とこれだけあります。 対応も個々に違うのです。 正直クラス訳程度では意味をなしません。 これを健常者と競争させる事自体ナンセンスです。 僕は食物アレルギーを持つ子供も区別すべきと考えます。 他の子供と同じように食事させるから事故が起きるのです。 その子だけ特別な給食。 ある意味「特別扱い」ですよね? この発達障害学級も「特別扱い」なんですよ?
お礼
対応というのは誰がするのでしょうか? それぞれ個人は対応せず、エキスパート達が対応するのでしょうか? これほど障害があっても、まだまだ専門的な支援のできる人材は足りませんよね。 それよりも、一人一人がそれぞれ、相手を理解して助ける、という事は不可能なのでしょうか…。 回答にありました、競争させる、という言葉がすごく重く感じました。 健常者は常に競争している、ということでしょうか? 健常者同士でも助け合いは希薄なんですよね。 競争ではなく助け合うということが意識に刷り込まれていないと実現できませんね。
- saki_nagatsuka
- ベストアンサー率8% (19/226)
はっきり言えば、それは仕方がないのですよ。差別ではなくて区別ですね。 お子さんは数学がダメと言いますが、他の科目もダメなことが多いようですね。しかも それに輪をかけて酷いのが質問者自身です。何故それに対して説得力のある言葉を 出せないのか、それで人の親と言えるのか、親とは子に対して教育者である一面を 持ちますが、何故それを自ら放棄するのか、この事に激しい違和感を覚えます。 子供一人一人の実状を理解しないで、表面上同じようにやればそれだけで差別ではない と言えるのか? それは健常者の傲慢さから出てくる物でしかありません。まず、 リスクがありますし、それに備えてインフラを整備しなくてはいけませんが、日本の 障害者福祉の整備は、その他周辺諸国より遥かに出遅れています。現場にいる友人の 意見です。また、実際に社会に出る時に区別されてふるいにかけられます。当然です。 競争社会ですから。 質問者自身も自認していますが、何をどう教えていいか大人が分かっていない のですから、それが学校にも出てきているだけです。まあ、学校は施設管理責任者として 事故に遭わないように無難に動いているだけでしょう。本来ならば、そっち系の専門家が 必要なのですが。 質問者に一言申し上げます。あなたこそ障害者を嘗めています。現実の生活においては ただ生きていくだけでしんどいのです。それを乗り越えて生きているということは、 周囲の協力ももちろんあるが、健常者より遥かに強いと言ってもいい。まあ、テレビで 何かが学べるかなんて寝言に等しい。できる事をできる限りやる、それでいい。 障害者ブロックで立ち話をしているクズを見ると、大変申し訳なく思うことがあります。 質問者には何ができていますか? 社会がどうとかではない、貴方自身はどうなのか。 それを見つめ直して、今後の子供さんへの教育を考え直しましょう。100%の答えなんて ありません。俺も同じですから。
お礼
説得力のある言葉というのはどういったものなのでしょうか? もちろん長女の学習のサポートはしていますが、そういったことや、診断名をつけない事でしょうか? 診断名があることにはメリットもありますがデメリットも大きいと思っています。 それがこの差別だと思うのです。 この社会で障害という診断名を持って生きるには、まだまだ理解が足りない。 差別要因を持つということは、今の社会では大きな弊害になると思うのです。 >子供一人一人の実状を理解しないで、表面上同じようにやればそれだけで差別ではないと言えるのか? 私は表面上同じようにやれと言っているわけではなく、一人一人の実情が同じ世界で生きていなくて理解される訳がない、という事です。 しかし、人の限界かもしれないのかもとも思います。 人が進化しているとしても、当事者を他者が理解する、という力はまだまだ人類には求められないものなのかもしれませんね。
- zozokegatatu
- ベストアンサー率25% (379/1495)
健常者から言わせて貰えば 一部の生徒で授業が遅れることのほうが不利益です。 お手手繋いで皆一緒なんて ただの戯言です。そんなことでは良い学校にも行けないのです。 知識を付けるために学校に行くのです。 厄介者の世話を無償でするためにいくわけではありません。 綺麗汚いのはなしではありません。 健常者の生活を脅かすようなものは邪魔であり、差別があって世の中は回るのです。 そこらで寝ている乞食が総理大臣になれないでしょう? 100+2500も出来ない人間が銀行員や会社の経理になれないでしょう? 子供には将来夢があります、そんな足を引っ張る邪魔者は、子供であっても迷惑です。 助け合う必要などありません。助けて欲しければ、代償を出す。それがないなら人様の前に出ない それが現実社会です。 足が痛ければ 10分や1時間ナンボか銭を出せば足をもんでくれるでしょう?薬も出るでしょう? それをただでやれなんて、馬鹿馬鹿しい。 健常者様とは住む世界が違うのです。福祉なんて商売でやればいいものであって、無保証でやる馬鹿げたことを 推奨する必要はありません。
お礼
なるほど、そういった本音があっても不思議ではありません。 では何のために良い学校に行くのですか? 何のために総理大臣になるのですか? なんのために銀行員や会社の経理になるのでしょうか? その方が(お金が稼げて)生きやすい社会だからでしょうか? 総理大臣というのは社会を良くしたいと思う人がなるものと思っていましたが、あなたの感覚では違うようですね。 では、あなたが突然不慮の事故で半身不随になり、仕事も出来ないほどになったとして、仕事もできなくなったほどの人は、身内でも面倒をみる必要はありませんよね。 家族であっても、代償が得られないですから。 もちろん身体障害者として福祉を受けることも、障害年金を受け取ることもされないのですよね? 健常者ではなくなった場合、同じことを言われてもしかと受け止めて頂けますか?
お礼
戦争になったら日本銀行券は無価値になりますが、その時は誰も頼らずに頑張って下さい。