至極難しい問題でありますね。
まともの回答はできそうにもない。しかし、私はこう考えます。
1980年ごろからと記憶しておりますが、学校教育に異変が現れたような感じを受けてまいりました。
それ以前には、少年犯罪は非常に少なかったように思います。
私が少年の頃も滅多に少年犯罪を聞いたことがありません。
有るとすれば、学校のガラスを割ったとか、個人的に無謀に挑戦するような事を他人の迷惑を顧みずに行った者は多く居たようにも思います。
その他、学内のグループによる、他の学校のグループとの喧嘩。その他は暴走族通しの喧嘩。
県境で起こした暴走族による一般車両への攻撃が大きな事件として記憶にあります。
但し、殺人とか人を傷つける事件等、眼に見えるようなものは、無かったように思います。
即ち、これらの犯罪は間違いなく社会性に起因しているものである、と私は考えております。
端的に言えば、これら現在の犯罪が発生する起源は大人の無責任差と云え、一概に犯罪を犯すものが悪いとは言えないようにも思います。
人間は知能が備わっており、少年及び大人でも犯罪が行われない構造改革を行うべきであると考え、犯罪が起こってから、罰する内容を議論しても始まらないようにも思います。
現在の日本人は異常的とも思えるほどに自己主張をします。
報道者の恰も遺恨を抱いたような徹底した攻撃的報道。
また、政治者を視れば頷ける事と思いますが、各党派内でも党の指針が有るのか無いのか、夫々に勝手気ままに運営する者は、我侭な人間形成が成しえるものと思います。
これら、社会性の起源とも思えるものですが、
皆さんは如何解決を見出していくか?
単に犯罪者を罰する事のみに集中し、原因要因を探すものに研究する者が皆無であるとも言えますが、私の思い過ごしでしょうか?、
何故、犯罪を犯すものを一方的に、恨みを抱いているように集中攻撃するのか?
私には理解できるものではありません。
少年を罰するとか保護するとかの検地ではなく、多くの人達が、何故このような社会性になったのか考えて頂きたいと、切に希望するものです。
お礼
回答ありがとうございます。 多数が必ずしも正しいとは思いませんけれども、目を覆わんばかりの犯罪を犯してしまった少年と 同じような境遇の他者のほとんどは同じ犯罪を犯さないわけです。 犯罪を犯す人とそうでない人との違いはわかりません。 まぁどうであれ自分がおこなったことの重大性を認識させる方法が現行のものは効果が疑わしいまたは 無意味に思えるのです。被害者の関係者として直面したとしたら正気を保つことが難しいほどの行為を、 加害者にはやんわり教唆しましょうでは、いかがなものでしょうか。 社会の責任はあるでしょう、でもさすがにキリが・・・。 ふと思いついたことを申し上げれば・・・。 社会の未成熟な人間教育プログラムや経済力を持つことを至上とする世界観、自己の満足を得る為 には他者を駆逐せざるを得なく、70億の人口を支えられない物質世界。行きつく先でこんなところが 影響しているのでしょうか。お金を大でも小でも求めるだけで歪が生じているんだと思います、今の世の中。