- ベストアンサー
愛すべき人と他人の違い
僕は最近、苦しみや悲しみ孤独、などの場面を乗り越える為にはその人自身の強い思い出を思い出す事が重要だと感じます。 大切な誰かと一緒に食事したり、一緒に映画見たり、一緒に旅をしたり…いろんな楽しい事をしたりやいろんな哀しい事を感じ、いろんな思い出を共有した人こそ友達だし愛すべき人。ただの1つも深い思い出も楽しい時間も共有したこともする気も無いうわべだけの人は、ただの他人にしかなりえない。友達でもましてや愛すべき対象でもない。そう思います。皆さんはどうおもいますか?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
noname#201242
回答No.4
その他の回答 (5)
- pecory
- ベストアンサー率23% (67/281)
回答No.6
noname#201242
回答No.5
- Arekoresore
- ベストアンサー率26% (27/103)
回答No.3
- pecory
- ベストアンサー率23% (67/281)
回答No.2
- ととかる ちょっぷ(@totocalcio-p)
- ベストアンサー率46% (134/288)
回答No.1
お礼
回答ありがとうございます。すべき…というのは僕の照れから生じる言葉の誤魔化しでした。誤解させてすいませんね。 ストレートに言うと「人を愛する為に思い出になるように場面を共有したい」のです。 たぶん間違っていると思います。それはあなたの様に精神的に正しく育った人の感覚とはかけはなれていると思うからです。 しかしこれはどうですか?例えば音楽。アーティストはアーティスト、ファンはファン。どちらもビジネスライクで、同じ時間や空間を演出する為のパフォーマーなのかなと感じます。どんなにそのアーティストへのキモチが強くても、思い出に成りうるほどのキモチとは違います。一方的だったり。そういう音楽環境の中で僕は曲に感動したとか歌詞で人生の教訓や元気にはなりますが強い思い出になることはあまりありませんでした。 むしろ僕にとって大事な場面で自分を支えるなどの「強いキモチ→思い出」とは、多くの時間を共有した家族や友達や恋人と過ごした思い出でしたね。どんな素晴らしい音楽や芸術や表現行為もそれなしには生まれません。今の僕は「エリーゼのために」を聴きたいのではなく「エリーゼが欲しい」とでも言うのでしょうか…。音楽はメジャーアーティストなどの高度な表現を除くとほとんどの場合、表層的なモノと思いますから。