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ストレスの良い発散法について
わたし自身のことですが, わたし自身には,いろいろと「クセ」があります。 1.髪の毛を抜く (いつも頭のどこかしらに,“500円ハゲ”があります) 2.抜いた毛を食べてしまうときがある 3.指の皮膚をむいたり,爪を傷つけたりする (爪をみがいたとしても,すぐに傷つけてしまいます) 4.突然,自分が何かしらの「加害者」になったことを想像してしまう 5.外出するとき,必ずといっていいほど,3分ほどたつと,家のカギをかけたことを忘れてしまい,家に戻ってしまう 6.階段を下りるとき,階段から落ちるのではないかと思ってしまう(そして,転びそうになる) 7.過去の「怖い体験」,「辛い体験」を突然思いだしてしまうことがある わたし自身は,何かしらの「ストレス・マネジメント」がうまくいっていないので,このようなことになると考えています。 皆さんなりの,良いストレス発散法がありましたら,ご紹介願います。
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お礼
回答ありがとうございます。 回答者さんは,難しい質問をされたと思います。 しかしながら,西洋哲学を学ぶさいに,「神の存在証明」については触れるので,わたしなりの<解釈>を書きます。(西洋哲学を理解するためには,このことは「基礎」とされます。) 「神の存在証明」のひとつの「やり方」に,「ディーズム(Deism)」という考え方があります。これを「ヒント」にして,このようにして,「神の存在証明」を行います。 神とは,「この世の素」をつくった「だけ」。さらには,彼はその「スイッチ」を,「ポチッ」と押しただけ。神とは,このくらいの存在であると,わたしなりに考えています。こういった考え方は,西洋哲学や西洋史などにおいては,「神は時計をつくり,そのスイッチを入れた存在」として解釈されます。 わかりやすい例を挙げると,サイコロだと思います。 神がサイコロをつくり,それを振りました。そのおかげで,宇宙がつくられ,地球がつくられ,生物がつくられ,文明がつくられました。そして,神がふったサイコロは,神の影響を受けることなく,ただ,ひたすら,コロコロと転がっていきました。 神とは,「この世の素」をつくっただけであり,「その後,何が起こったか」については,「まったく関知しない」とされます。さらには,「以後,神の影響を受けない」とされます。 ですから,わたしなりの考えですが,「神」は存在します。しかしながら,多くの人々が考えるところの「神さま」ではありません。<神>と書いておきます。 <神>とは,単に「ポチッと」,時計のスイッチを押しただけ,あるいは,サイコロを投げただけの存在です。スイッチが押された時計は,止まることなく,ひたすら動きつづけます。<神>がもしも,そのスイッチを再び押したとしても,その時計は止まることはなく,<神>のスイッチを押すという行為を,ひたすら「無視」しつづけます。サイコロの場合であれば,ひたすら転がりつづけているサイコロを<神>が再び見つけることはできないでしょう。あるいは,仮にでもそれを見つけることができたとしても,それをつかみとり,その動きを「封じる」ことはできないでしょう。 非常に「古典的」な解釈かもしれませんが,わたし自身は,そのようにして,<神>という存在を認識しています。多くの人々が「神さま」として思いうかべるような,「全知全能の存在」ではありません。 「神の存在証明」について触れましたので,今度は「神の意義」について考えます。ここでは,西洋社会において重要とされる,「キリスト教の教義」とも関連づけて考えます。 キリスト教とは,わたし自身の解釈ではありますが,西洋・欧米における,社会の<前提>となるものです。それは,日本社会でいうところの,山本七平氏が指摘された,いわゆる「日本教」,「空気」といったものと「比較」できるものだと,わたしは考えます。 さらには,ここでわたしが指摘した<前提>とは,いわゆる「契約」ということになります。そして,この「契約」を理解するにあたっては,聖書の福音書にある,「キリスト教の歴史」について触れる必要があります。 「キリスト教の歴史」においては,イエス・キリストの数々の活動によって,キリスト教が形成されたとされます。その考え方とは,「原罪」を受けいれることで,「天国」に入ることが許されるというものです。実際には,この「歴史」は非常に複雑なものですが,簡潔に説明してみました。 この,「原罪」を受けいれることで,「天国」に入ることがゆるされるという<ロジック>が,西洋・欧米社会の「基礎」となったことは,いうまでもありません。ですから,これは,わたしなりの「理解」ですが,キリスト教とは,宗教という性格をもちながらも,そのメイン・ポイントとは,「社会が成りたつための基礎」であるということです。そして,現在,多くの人々が民主主義や資本主義を享受しているわけですが,こういった「イデオロギー」も,大なり小なり,キリスト教の影響,つまり,「契約」という考え方がもとになっています。 おそらくは,多くの人々にとって,もっともなじみのあるものであれば,「義務」を行使することによって,「権利」を得る,ということだと思います。それが,資本主義においては,たとえば,「料金」を支払い,「サービス」を受けるということ,さらには,「労働力」を提供して,「賃金」を得ることになります。 また,キリスト教については,「道徳観の形成」にも大きな影響をもたらしました。その最たるものこそ,マックス・ウェーバーが指摘したものでしょう。創世記にあるエピソードからですが,死ぬまで,あくせく働くこと,こういった「教え」をとおして,「道徳観」が形成され,それは欧米の経済的発展にもつながりました。しかし,そのような「道徳観」が形成された一方で,ニーチェが指摘したように,科学技術の発展などによって,それまで,キリスト教をとおして形成された身体論などの一部の道徳観,倫理観が「時代遅れ」,「時代錯誤もはなはだしい」とされたことについても,深く考える必要があります。 たとえば,「同性愛」,いまだにこれを「弾圧」するキリスト者は多くいます。わたし自身は,みずからをプロテスタントであると考えてはいるものの,こういった「存在」がいることについては,非常に遺憾なことですし,「批判」の対象でもあります。先日,プロテスタントのあるグループが同性愛者の男性を聖職者にしましたが,それはキリスト教にとっては,良いことであると考えています。 おそらくは,このようなことを書くと,多くの人々が,わたし自身の「倫理観」を疑うと思います。しかしながら,わたしの,このような<倫理観>は,「外国につながる日本人」という,わたし自身の「出自」や,「マイノリティ」として活きなければならない,わたし自身の「心の内」を反映したものであると,わたしはそのように考えています。 *蛇足ですが,「九星」をつかって,わたし自身の名前を鑑定したところ,「異質な倫理観を持つ」という結果が出てきました。(笑) では,なぜ,わたしはプロテスタントになったのでしょうか?それは,わたし自身が,「他者にたいする思いやり」というものを重視したからです。わたし自身は,おそらくは,非常に特殊なやり方で,聖書を読んでいます。ひとつは,それを宗教ではなく,西洋史を理解するための,ひとつの「戦略」として受けとめているからです。さらには,キリスト教を理解することは,異文化理解でもあり,他者の理解でもあります。そういった,プラグマティックな理由があって,わたし自身はプロテスタントになることを選択しました。こういったことを書くと,おそらくは,ほかの人々から,いろいろと批判されることでしょう。わたし自身が,いわゆる「モテない」のも,実は,こういった,「異質な価値観」をもっていることが,わたしを見た多くの他者が,それを感じとっていたからだと(そういう,「オーラ」があるのだと),わたしは思います。 次に,進化論のことですが,これは真核細胞の形成にも大きく関わっています。動物や植物の細胞は,真核細胞とよばれています。細胞には,細菌,サイアノバクテリアなど,いくつかの種類があるのですが,そのなかでもよく知られているのが,真核細胞です。スプーンで口のなかを,すこしこすり,それを顕微鏡で観察すれば,真核細胞がどのような存在なのか,すぐにわかると思います。 真核細胞とは,いくつかの細胞が生物学的に共生することによって,形成されたと考えられています。そして,これはどの生物にも当てはまるのですが,生物とは周囲の環境に適応することと,みずからの子孫をつくることを目的に,その「かたち」を変化させてきました。それは,現在もなお,おこなわれています。回答者さんが言及された,進化論とは,このような考え方だとおもいます。 多くの人々は,進化論というと,サルがヒトになったという,非常に短絡的なものを思いうかべると思います。あるいは,ラマルクの要・不要説のように,生物の器官は使用頻度によって,そのかたちが変化すると考える人々もいます。「動物園のサルがヒトになるのはいつですか?」などという質問を考えるよりかは,要・不要説に向きあっていたほうが,意義のある議論ができそうな感じがします。 さらには,近年になると,ポケモンの影響から,進化とは,ある種がとつぜん,そのかたちを変えるものだと考える人々もいることでしょう。ちなみに,「ポケモンでいうところの進化」とは,生物学的には,「変態」とよばれるものです。サナギが成虫になるように,ヤゴがトンボになるように,です。このほうが正しいのですが,そうすると,「鼻の下が伸びてしまう」かもしれませんし,子供たちが無節操に「ピカチューがライチュウに“変態”した」などと口々に言ってしまうと,「教育上好ましくない!」などと非難されてしまいそうです。 回答者さんが言及された「進化」という概念を,わたし自身は支持しています。なぜならば,進化とは,多くの世代をかけたものであり,数百年,数千年という時間の長さを要するものではありますが,さまざまな方法で「証明」のできるものだからです。 さらには,進化の否定もふくめて,人間を極度に特別な存在扱いする人々がいます。一部のキリスト者のなかには,そういった,「人間至上主義」がまかり通っていることがあります。こういった「イデオロギー」がもたらしたものこそ,「人種差別」です。ですから,キリスト者であるには,そういった「歴史の経緯」を深く理解する必要があります。愛の宗教であると同時に,差