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日本社会が求めている「絆」の「本質」が知りたい

質問: 現在の日本社会においては「絆」の大切さがさけばれていますが,その一方で「キャラ化する人間関係」に代表される,「絆」とは大きく異なる,「上っ面だけのつながり」が指摘されています。 ほんとうに日本社会に活きる人々は「絆」を必要としているのでしょうか?ペシミスティックな考え方ではありますが,じつは現代日本社会においては「絆」を必要としない社会になってしまったのだと考えるときがあります。 *質問文はここまでになります* 以下,質問を考えるための「ヒント」を,いくつか提示します。 (1) 「絆」の定義 ここでいう「絆」とは,「信頼関係で結ばれた人間関係」のことを指します。そして,ここでいう「信頼関係」とは,いくつかの「リスク」を克服することによって構築されたものであるとします。 (2) 「他者の理解」 「絆」が重要視されていない社会においては,「他者の理解」が不必要となる可能性があります。なぜならば,「他者の理解」は「絆」をつくるうえで重要な要素になるからです。「他者」を「理解」すること,「他者」とのあいだに「分かちあえるもの」を見つけることによって,「人間関係」がつくられはじめ,いくつかの「ハードル」を克服することによって,それは「絆」に発展すると,わたしは考えます。 (3) 「便利な社会」の一方で… 産業や経済の発展により,多くの人間(とくに,経済先進国等においては)にとっては,日々の生活が過去のそれと比較すると,大変便利なものになりました。「便利な社会」は一見すると,理想のようなものではありますが,「便利が過ぎること」によって,「他者の存在」が無視されることがあります。 たとえば,日本全国津々浦々に小売店が存在しますが,そのなかには24時間営業のものも少なくはなく,「店に行けば何か買える」,「誰かに物事を頼む必要などない」状態をつくる一因となります。 日本社会において「他者の理解」がおろそかにされつつある理由のひとつには,このような「便利な社会」の「弊害」があると,わたしは考えます。 (4) 「異質性の排除」 いわゆる「行動する保守」の活動が報道されるようになりましたが,これらの組織の活動において重要とされることは,「いかなる異質性を排除する」ことにあると,わたしは考えます。「異質性の排除」とは,「他者の排除」でもあります。「他者」を「排除」することは,「他者の理解」の対極の行為であり,そのような風潮が現在の日本社会において浸透しつつあることは,「他者の理解」がもはや日本においては「不必要」であることの「証左」であると,わたしは考えます。「タテマエ」では「絆」と主張しつつ,その「ホンネ」とは,「異質性」をひとつ残らず社会から叩き出すことを「正義」であると勘違いしてしまっているのが,ペシミステイックなものではありますが,「日本社会の現状」であると,わたしは考えます。 *異質性の排除においては,「ホームレスにたいする暴行事件」がその顕著な例です。たとえば,関東地方のある都市で起こったホームレス暴行事件では,暴行をした容疑者たちが,ホームレスを社会から排除することは「社会正義」にかなっているという「主張」をしました。 (5) 「拝金主義のようなもの」との関連性 「婚活」,「恋活」,「合コン」,さらには,「街コン」,「女子会」,「オフ会」,「カップリング・パーティー」など,日本社会においては「絆」をつくるための「チャンス」がたくさんあるとされます。インターネットの質問掲示板等においては,「出会いがないので困っています」などという質問をよく見かけますが,それにたいする回答は「出会いなどどこにでもある」といったものが多数を占めます。 上に挙げた「チャンス」のなかには,「ほんとうの出会い」につながるものも,あるのかもしれません。しかしながら,上に挙げたものの「本質」,「資本主義の一部」であって,「拝金主義のようなもの」でもあります。たとえば,「女子会」を例にすると,女性同士の「アクインタス」をつくるということであれば,何らかの「効果」はあるのでしょう。しかしながら,その現実は「女性に飲食店でお金を少しでも多く落としてもらいたい」ということだと,わたしは考えます。「婚活」,さらには,「カップリング・パーティー」もそうです。これらは「商売の一環」であり,「絆」をつくるためのものではないと,わたしは考えます。 (6) 東日本大震災による影響 東日本大震災によって,日本社会には「絆」の大切さが,さまざまな方向性をもったかたちではありますが,再認識されるようになりました。たとえば,先の震災を「社会の危機」として受けとめ,友人のみならず,近隣に住む人々との「絆」を再評価した人々がいましたが,それは大切なことであると,わたしは考えます。その一方で,いまだに先の震災を「社会の危機」であると受けとめることができずに,表向きには「絆は大切」といいながら,「(被災地の状況は)対岸の火事である」といった認識をもっている人々がいます。さらには,この震災にたいする「復興」を,「未来のための復興」ではなく,「2011年3月11日午後2時45分に戻すことが復興である(つまり,持続可能性を求めていないこと)」と認識している人々がいます。 (7) 「対話」の欠如 「絆」の大切さがさけばれている一方,「他者との対話」の大切さもさけばれるようになりました。「対話」という言葉を強調すると,まるで宗教団体のようなイメージをもたれますが,「持続可能な社会」をつくるためには,「必要不可欠な要素」であると,わたしは考えます。「他者」とのあいだに「積極的な対話」を設けて,そこから「お互いが分かちあえるもの」を見出すことは,「絆」をつくるための「大きなチャンス」であると,わたしは考えます。

みんなの回答

回答No.6

絆というのは思っているよりドメスティックで、なおかつ精神的な上下関係がさほど無いものです。 必要とされているのはむしろ団結ではないのかなと思います。もちろん、善悪どちらの意味に取って 頂いても結構です。 1)リスクの詳細が分かりませんが、そこまで求めているかは疑問です。 2)絆を求めずとも他者の理解は社会にとって必要だと思います。 それを絆と言われると個人的に重いですね。 3)その通りでしょう。しかし、不便だから絆が生まれるかどうかは保証出来ません。 4)昔からあるので簡単には解決しません。都会には都会の、田舎には田舎の 排除体制ができあがっています。馴れ合う事と絆は違うのでしょうから、 このあたりは別問題と考えます。 5)そうですね。絆の値段を考えると怖いです。 6)天災において身代わりすることも出来ませんし、難しい問題です。 幾ばくかの寄付をすることぐらいしか出来ませんね。 7)近年は物質的な世界観から精神的な世界観へと誘うかのようですが、 人がどれだけ人として生きるかという事よりも、もう少し等身大、 生き物として生きていけないのかと感じています。 まあ、これは私のわがままなんですが。

noname#181693
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「団結」という考え方は,とてもわかりやすいものだと思います。 確かに,現代日本社会においては,人々が何かしらの目的のために「団結」することが,あまりありません。多様化したことによって,「目的」そのものが,可視化されにくくなったのだと,わたしは考えます。そのような社会事情があるとはいえ,何かしらの「事態」のために,「相互扶助」という考え方は分かちあったほうが,何かと便利なのではと,わたしは考えます。 ただし,いわゆる「行動する保守」のように,排外主義で「団結」をしようとするようなことは,あってはなりません。

  • m2052
  • ベストアンサー率32% (370/1136)
回答No.5

「絆」にしばられない絆ですかね。 絆は本来、精神的な結びつきなのにそれを前面に出した風潮は「軛」かと思うほどです。 人と人が繋がる、その最後の拠り所を絆というのではないですか。 「絆」によって人と繋がることを当然というのは全く反対です。

noname#181693
質問者

お礼

簡潔かつ,わかりやすい回答ありがとうございます。

  • nagaineko
  • ベストアンサー率28% (563/1990)
回答No.4

>ほんとうに日本社会に活きる人々は「絆」を必要としているのでしょうか? 昔に比べたら、明らかに、不必要だと考えている人の割合は 増えていると思います。 >現在の日本社会においては「絆」の大切さがさけばれていますが, そんな世の中だから、声高に叫ぶ必要があるのでしょう。 みんなが必要だと考えていれば、わざわざ声に出す必要は 無いと思います。 親戚などともつきあう煩わしさを越えるほどのメリットがあるとは 思えません。 結婚披露宴をしない人が増えていることも、それを反映している。 お金さえあれば、困ることはないような世の中になってしまった。 それが現実だと思います。 >じつは現代日本社会においては「絆」を必要としない社会になってしまったのだと考えるときがあります。 同感です。

noname#181693
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 資本主義の影響や,複雑化した社会による影響など,さまざまな「事情」が人間関係にはあると思います。このような「世の中」に適した<人間関係>がどのようなものなのか,色々と考えていきたいものです。

  • gisahann
  • ベストアンサー率37% (973/2616)
回答No.3

随分と高尚な解釈を述べれられておりますが、それほどの知識を持っての本当の質問内容はいかがなんでしょうか。 その必要性については・・・ 私の考えは、近年の「個」を大事にする教育のあまり、大家族的の協調・自然な中の見守りが (特に急速な高齢社会化に対し)薄れていくことへの懸念から、また社会の仕組みが改善される ことを願っての地域の結びつきを重要視しているものと解釈しています。 また個人サイドで考えるとき「私はそう言う煩わしいあるいは監視されているようなことにそぐわない」とおっしゃる人も多く、なかなか難しい場面もあるように感じます。 さらに付け加えるならば「個人情報管理の運用」の稚拙さがそうさせているものと思います。

noname#181693
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「個」という考え方については,いまだに日本社会においては浸透できないでいるアスペクトがいろいろとあると思います。「個」を尊重しつつも,日本社会のなかにおいて形成された<集団>,<ムラ>,そして<コミュニティ>と,どのように「両立」させるのかについては,まだ「議論」が必要だと思います。 そして,「個人情報」にたいする「理解のあり方」についても,まだまだ「議論」が必要です。今回の回答内容から,さまざまな「課題」がみえてきました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

”ほんとうに日本社会に活きる人々は「絆」を必要としているのでしょうか”       ↑ 日本人が必要としているかは判りませんが、日本にとって 必要なのは確かだと思います。 欧米のキリスト教文化圏においては、個人主義をとっています。 これは、個人は神と結びついているだけで、個々人とは結び ついていない、という考え方です。 つまり、人々は、神を通じて他の人と結びついている訳です。 しかし、日本にはキリストのような神は存在しません。 そういう日本では、人と人との直接的なつながりが必須だと 思います。 日本で欧米の真似などしたら、大変なことになります。 欧米ではキリスト教という倫理道徳の軸、枠がありますが 日本にはそんなものはありません。 日本にあるのは、他人と結びつくことによる相互牽制だけです。 これを「世間」と呼んでいます。 日本で、欧米流の個人主義を導入したら、それは ただの自己中心主義になってしまいます。 その萌芽が見えています。 そういうことで、日本にとって、絆、というものは絶対不可欠に 必要なものだと思います。 尚、質問者さんはいろいろな原因を挙げていますが、私はその他に 憲法をあげたいと思っています。 あれは、欧米の権利中心の個人主義で構築されています。 その弊害が、徐々に顕れているように感じています。 モンスターペアレントなどは、権利中心の個人主義が生み出した ものではないでしょうか。

noname#181693
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 あなたは「宗教」にたいする「あり方」をひとつの「ヒント」として挙げましたが,このことは大変重要なことであると思います。作家の遠藤周作さんの作品を読んでも,このことの「大切さ」が理解できます。 そして,「世間」という考え方については,山本七平さんの著書などが有名ですが,いわゆる「西洋からやってきたもの」と「日本において形成されたもの」をどのように「扱う」のかが,いまだに,明治維新以来の日本における「課題」なのだと思います。 そのヒントになるものは,たとえば,日系人でしょう。彼ら彼女らは日本のアイデンティティをまもりつつも,アメリカやカナダなどの西洋の社会のなかで生を営んでいますが,彼ら彼女らの<社会事情>なり<アイデンティティ>を知ることで,将来のための日本社会への「ヒント」がみえてくると思います。 また,法制度における問題についても,良い指摘だと思います。憲法の改正もふくめて,日本社会の事情やこれからの国際社会のあり方を考慮した法制度を整備することは,現在の日本の「責務」であると,わたしは考えます。

回答No.1

これってレポートのたたき台にしたいんだろ?

noname#181693
質問者

補足

「レポート」にまとめることなどは,一切考えていません。「純粋に」,現在の日本の社会状況を,どのような「まなざし」で見ているのか,どのようなものとして受けとめているのかを知りたく,質問をしました。