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叱ることで愛情を表現するって?
俗に言う雷親父のような「叱ることで愛情を表現する」というものがわかりません。 教えてください! 雷親父の存在を全く理解できないんです。 怒られるかもしれませんが正直、相手への尊重を欠いた、相手に甘えている人物だとしか思えないのです。子供だからと相手をバカにしていて、思慮が浅いなあと。 叱り方も荒いですよね。激しい怒鳴り声を出したり叩いたりするのも、不思議です。本質的には威嚇っぽくて、相手に恐怖心を与えるようなことをしているんですよね…。恐怖心を植え付ければ子供に言うことを聞かせるのが簡単かもしれないですけど、恐怖を感じた動物は脳が縮むそうですし、そんなんじゃ当然自発性や自信や肯定感も育たないし、柔軟な育児にならないし、本当に愛情なのか?と訝しいです。怒るのと混同していると言うか、感情をコントロールできない人のようにも見えて、未熟で子供っぽい印象が強いです。スミマセン…。 相手のためを思った行動だとしても自分の理屈を相手に力づくで押し付ける強引なものであることには変わりないですよね。愛という文句で誤魔化していますけど、自分の考え方や感情を相手より優先させていて(自己中)、それを裏打ちする多角的なものの見方ができない狭い視野、というようなことが原因じゃないかと。自己や他者の肯定である愛や思いやりとはそもそも相容れない位置関係にあるはずですよね…? 不器用な人なのよっていうお決まりのフォローも、責任から逃げてる言い訳なのでは…?相手とうまくコミュニケーションが取れない課題の多い人を正当化しても仕方がないんじゃ…? 小さな子供が危険なことをしてしまったときなど必要性あってのことならわかりますが、サザエさんのカツオくんなどは大したことでもないのに怒鳴られています。 「親を敬え」みたいなことも言われています。「この私がお前を生んだのだ、だから私の方が偉い!私を敬え!」ってことですよね…。相手を敬わないのに、相手に敬うことを強要してる横暴な感じがします。というか、子供って親を見て親を真似して育ちますよね。つまりそれって、親自身が子供や周囲の人を敬っていないってことでは…なんて思っちゃいます。 「叱ることで愛情を表現する」ってどういうことなのか、どういう心情のものなのか、教えてください!お願いします!
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- key00001
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まず「怒る」と「叱る」は区別が必要です。 「怒る」と言うのは、怒る側が自分の感情を発現しているに過ぎませんが、「叱る」の方は、相手を諭すことが目的であり、その手法の一つとして、自分の感情を発現させると言うことです。 叱る目的は、あくまで相手を諭すことです。 たとえば自動車運転で、怒気を含んで「前を向いて運転しなさい!」と言う場合、根底には「この人には事故を起こして欲しく無い」「死んで欲しく無い」などと思うから諭すワケです。 そこには愛情が存在すると言って良いでしょう。 相手が死んでも全く構わない様な人物であれば、そもそも諭す必要性もありませんので。 また、自分が同乗した状態で、主に自分が死にたくない気持ちなどであれば、「怒る」となるワケです。 叱られる/怒られる側に、この区別が付いていて、叱られた側が、キチンと「叱られた」と認識が出来れば、その根底に愛情などを感じ取ることは可能です。 逆に言えば、親子などで「根底には確実に愛情が存在する」などと言う信頼関係が形成されていれば、「叱られた」が成立し、反対にたとえ親子であっても、その信頼感が無ければ、「怒られた」との区別は困難です。 但し、親をバカにして、子供が殴られたとして、親がバカにされたこと自体に腹を立てて殴る場合もありますし、あるいは「親をバカにする様な人格に育って欲しくない」と言う、根底に愛情がある場合もあるし、更にはその両方の思いが混在する場合も充分に有り得ます。 それに対し、殴られただけのままであれば、親のどういう思いを汲み取るかは、あくまで殴られた側に一任されます。 一方、その諭す手法として「叱る」が存在するのですが、「叱る」は「数ある諭す手法の一つ」に過ぎません。 叱る側の諭す手法が、些細なことでも「叱る」のみであれば、信頼関係の構築も困難ですし、叱られた側が相手の真意などを汲み取る能力も成長しません。 逆に、平素は極めて温厚な人格者などが、声を荒げて叱るから、叱ると言う諭し方が有効になるワケです。 叱ることで愛情を表現するのは、非常に難しいです。 叱るだけでは表現し切れない場合も多いし、そもそも叱られたことを愛情か怒りかを決めるのは、叱られた側です。 また、叱られたことに対し、愛情を汲み取れる関係が事前に構築されていなければなりません。 ただ、「殴る親の手も痛い」って言いますが、親の心はもっと痛い場合が多いですよ。 多くの親は、子供を殴ったことは一生忘れられず、死ぬまで「あの時、殴って正しかったのか?」などと自問自答するのではないか?と思います。 子供が死ぬことは、自分が死ぬより辛いのが親です。 子供が痛いとか辛いのは、自分が痛いとか辛いよりも辛く苦しいことです。 それでも「叱る」のが、親が叱ると言うことです。 叱ってばっかりと言う親は、どうかとは思いますが、それでも、それでしか愛情表現が出来ない不器用な親なんだろうとも思います。
- sakura-333
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恐怖を知らない子っていうのも将来怖いですよ。 正当な意味もなく叱るとかキレやすいだけの人なんかは問題外ですけど・・ >「叱ることで愛情を表現する」 他人の子は間違えた事をしても強く言えない(もしくは無視する)けど、自分の子が間違えた事をしたら強く叱ってまともな大人へ導く。 人によりますし例外もありますが、自分に直接責任の掛からない祖父や祖母よりも親だからできる事でもある・・ と解釈する事もできます。 >カツオくんなどは大したことでもないのに怒鳴られています。 カツオくんみたいなタイプは雷親父がいないとロクな人間に育たないでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます!大変参考になります! 恐怖を知らない子が将来怖いのですか?どういうことでしょう。何かの際に恐怖による制御や支配の効かない人物が怖いということでしょうか。独裁的な社会では確かにそうなんでしょうね。現代でも必要でしょうか? >>他人の子は間違えた事をしても強く言えない(もしくは無視する)けど、自分の子が間違えた事をしたら強く叱ってまともな大人へ導く。 親が子供が間違いだと見たら、強く叱って止めさせ、親から見て子供にとってよい行いをするように強制することが結果的に愛情ではないかということですね。子供は間違うものですが、そこへの対処の仕方は様々ですね。何が一番なのか、模索していこうと思います。ほんとうに意見ひとつひとつがありがたいです。 >>カツオくんみたいなタイプは雷親父がいないとロクな人間に育たないでしょうね。 そういう解釈もあるんですね!自分への信頼感がない、肯定のされない、雷親父のせいでああなった被害者と私は解釈していました。ちょっとびっくりです。時代って違いますねー!
補足
お礼の、「時代」というのはサザエさんの時代の感覚ということです。回答者さまに失礼にとられかねない表現であったことをお詫びします。
- hakka77
- ベストアンサー率10% (6/60)
どこに載っていたのかわかりませんが、 「叱ることで愛情表現する」というのは、確かに変かもしれませんね。 「愛情があるので叱ることができる」ということだと思います。 冷蔵庫の父親のプリンを子どもが勝手に食べたとして、 「なに、おまえ、おれのプリン食べてんだよ!!」っていうのは自分本意ですが、 「勝手に食べたらだめでしょ!!」というのは違うわけです。 それでも、子どもは同じことを繰り返すかもしれません。 わかってもらうために、強く言わなければならない場面もあると思います。 高圧的な態度で「自分が上だ」とでも言わんばかりに主張することと、 本気で相手と向き合い、熱を込めて、相手に思いを伝えることを一緒にしているのであれば、 区別していただければと思います。 怒鳴りつけているその場面だけ見れば、質問者様のように思えるでしょう。 質問者様の言う雷親父というのは、 365日起きてる間、ずっと怒鳴ってるわけではないのです。
お礼
ご回答ありがとうございます!大変参考になります。 これ、逆なんですね!「愛情があるので叱ることができる」。確かにそうですね。 自分本意で怒っているわけではなく、繰り返す相手にたいして熱を込めて伝えようとしているというのに納得です。 >>質問者様の言う雷親父というのは、 365日起きてる間、ずっと怒鳴ってるわけではないのです。 なるほどー。雷親父にこそ優しさがあるから、周りは受け入れるんですね。本当にありがとうございます!
- Subaru_Hasegawa
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駄目なことを駄目と言えない愛情では、鳩山みたいな大人にしかなりません。 叱咤激励の言葉どおり、どっちも必要なのです。
お礼
駄目なことを駄目と言うのは大切ですよね! ご回答ありがとうございます!
- まさしろ(@masasiro)
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ご質問者様こんばんは。 前に「怒ると叱るは違うこと」という言葉に出逢いました。 「怒る」とは一過性のものです。感情は持続しませんからね。相手に不機嫌を与えたことをこちら側は「反省」しなければなりません。 「叱る」とは怒ると比べてもう少し意味合いが深くて「もう二度と、同じ行為は繰り返して欲しくない」と叱ってくれた相手はあくまで理性的に私の行く末を案じて導きを与えてくれているのです。ですので叱ってくれた相手にはこちら側は「感謝」をしなければなりません。 「怒られたら反省し、叱られたら感謝する」このような気持ちはとても大切だと思います。 暴言や暴力についてですが、このことを否定することは人間を否定することと同じかもしれません。人間は罪へと向かうものだからです。また、人間は不完全なものしか生み出すことは出来ません。とても残念な現実です。しかし、起きてしまった出来事に対して人間は意味を見出すことが出来ますね。そのことが未来の人達にとっても、自分自身にとっても、自分以外の生命にとっても意味のあるようなものであるなら、それは受け入れられるものにもなるかもしれません。 人間が絶対にしてはならないことが2つだけあります。 それは「他人のものを奪うこと」「他人を奴隷のように扱うこと」です。このような姿勢を持つ人間とは断固戦わなければなりません。いわば「自由を守る」戦いです。自分の自由が冒されないことが大切なように、他人の自由も守らねばなりません。自由はとても奪われやすいものです。自由は生命の尊厳を守る砦なのです。 しかし現状はご質問者様の感じられている通りです。自由を冒す者は、自由を守る為の戦いから逃げ出した者達なのです。自由を守る為の戦いから逃げ出すことである意味での不自由であるという居場所を見つけた者達です。本人に自覚があるかは疑わしいですが、水は低きへ流れる如く、人間の心も低きへ流れやすいものなのだと思います。 不自由であることの不幸も、幸せもこの世界にはあるのですよね。 ご参考になれたら幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます!本当に知りたいことばかりで、とても参考になります。 怒るというのは確かに一過性のもので、叱ることには持続性がありますね!なるほど、わかりやすいご説明感謝します! 「もう二度と、同じ行為は繰り返して欲しくない」というのを伝えるために、「叱る」ということですか?なぜなのでしょう?実に興味深い考えです。 >>暴言や暴力についてですが、このことを否定することは人間を否定することと同じかもしれません。 思いもよらないご意見でビックリしてます。どういった見地なのでしょう?厭世的で、不自由であることの幸福というのも不思議で、謎解き状態で読んでおります。
- usagidoshi7gatu
- ベストアンサー率32% (88/271)
質問の文章を読んで、違和感を感じました。 >「叱ることで愛情を表現する」ってどういうことなのか、どういう心情のものなのか、教えてください!お願いします! 少し「叱る」意味を確認してみましょう。 ネットで検索すると、goo辞書がヒットしました。 goo辞書 しか・る【叱る/×呵る】 [動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」 「叱る」意味は、決してあなたが言う様に。 >相手のためを思った行動だとしても・・・・位置関係にあるはずですよね…? と言う様な叱り方だけでは無いのです。 怒鳴りつけるとか、相手に力づくで押し付ける強引な方法だけが、「叱る」では無いのです。 丁寧な方法で、「叱る」事も出来るのです。 >「叱ることで愛情を表現する」ってどういうことなのか、どういう心情のものなのか、教えてください!お願いします! 実社会では、自分自身がよくない言動で人に損害を与えてしまうことがよく有ります。 誰か他の人に損害を与える前に、目上の人が欠点を指摘して強くとがめてくれるとするなら、誰かを傷つけずに済むかもしれないのです。 そのような場合、叱られているときは不愉快でも長い視点で見れば自分自身は大変な得をしたことになります。 質問者さんは、「叱る」と言う言葉を消極的に捉えすぎです。 「叱る」には、相手の人格を乱暴な言動で否定する意味はありません。 その欠点を指摘して、とがめるだけです。
補足
ご回答ありがとうございます!大変参考になります! 丁寧な方法で叱るというのもあるんですね。私は叱るという言葉をやや誤解して捉えていたのかもしれないです。 >>誰か他の人に損害を与える前に、目上の人が欠点を指摘して強くとがめてくれるとするなら、誰かを傷つけずに済むかもしれないのです。 そのような場合、叱られているときは不愉快でも長い視点で見れば自分自身は大変な得をしたことになります。 そうです、まさにこれが理解できない考え方なんです!ありがとうございます。 欠点をなぜ、強く咎める必要があるのでしょう?欠点を根幹的に直すなら、さっくり言うと誤解をとけばいいだけで、咎めるよりもずっと早くすみます。咎めるって、自分が正義で相手の不義に物申すの状態ですよね。叱るためには、さらに上下関係を利用して強制力をもたせてるんですよね。必要以上に不愉快なものになれば、反感も買いかねません。叱られる方は長い目で見て得かもしれませんが、叱る方にとってはむしろリスキーな選択なのでは?
お礼
ご回答ありがとうございます! >>その手法の一つとして、自分の感情を発現させると言うことです。 そのようですね。でもなぜ最も伝わりにくい方法を選んだのかが気になるところです。 >>たとえば自動車運転で、怒気を含んで「前を向いて運転しなさい!」と言う場合、根底には「この人には事故を起こして欲しく無い」「死んで欲しく無い」などと思うから諭すワケです。そこには愛情が存在すると言って良いでしょう。 理屈はわかりますが、怒気を含んで言わなければならない関係性を受け入れている人たちに見えるので、なかなか不可解です。根底の愛情は正しく表現されないなら傲慢以外の何者でもないと思うんですが、そういう人ほどすべて愛情だからと開き直っているように感じます。愛情があるなら相手の気持ちなど考えず何をしてもいいという理屈ですよね。 >>叱られる/怒られる側に、この区別が付いていて、叱られた側が、キチンと「叱られた」と認識が出来れ ば、その根底に愛情などを感じ取ることは可能です。逆に言えば、親子などで「根底には確実に愛情が存在 する」などと言う信頼関係が形成されていれば、「叱られた」が成立し、反対にたとえ親子であっても、そ の信頼感が無ければ、「怒られた」との区別は困難です 叱られる側に判断が一任されるところが叱ることが愛情であるかどうかの分岐、だから難しい、ということですね。なるほど。その通りですね。極論、相手がわがままで上から目線で怒っているだけだとしても、怒られた側が「自分の為に叱ってくれているんだ、だからこれは愛だ」と思うのも自由なのかもしれませんね。かなり健全ではないでしょうけど。 >>逆に、平素は極めて温厚な人格者などが、声を荒げて叱るから、叱ると言う諭し方が有効になるワケです。 確かに、穏やかな人格者ならば叱り方も心得ているのでしょうね。 >>叱ってばっかりと言う親は、どうかとは思いますが、 それでも、それでしか愛情表現が出来ない不器用な親なんだろうとも思います。 不器用なのかもしれないですね。とても参考になりました。 問題も犯罪も言ってみれば「不器用だから起こること」ですから、そこから追っていけばまだマシという意味で愛情があると言われるのかなと思いました。あまり褒められるようなことではないですが。