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愛って目に見えないのになぜ信じる事が出来るのですか
愛って目に見えないのになぜ信じる事が出来るのですか? もしかしたら「愛されてる」って言うのは、 自分の思い込みかもしれないのに
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質問者が選んだベストアンサー
大変な質問をしてしまいましたね。取り敢えず男女の愛として考えますね。 一番即物的に愛を感じるのは、自分の場合、SEXですね。結合したまま身体で会話が出来る時に、即物的に愛の存在を感じます。 夫婦とは言え、それ以外は別々に行動しているのですから、その間何をしているのか判りません。疑おうと思えば幾らでも疑えます。でもそれはそれでいいと思っています。一個の個人の自由な心理や行動を拘束する権利は誰にもないと思っています。「その時」に信じられればそれで愛の存在を信じます。 取り敢えずここまで・・・。
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- yonesuke35
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> 愛って目に見えないのになぜ信じる事が出来るのですか? 見えない物に愛は有りません。 愛は目えなくて当然だなどと思っていますか? 愛は具現化されないうちは愛ではありません。 愛しているなどと言ってもそこに愛はないのです。 つまりウソでしかないのです。 端的に云えば愛は契約とカネです。 カネのないところに愛は有り得ません。 契約のないところに愛は有りません。 物々交換の世界であれば財産の裏付けのないところに 愛はないのです。 夫婦では奥さんを夫は愛します。 しかし奥さんの生活を面倒見ない夫、一切カネを出さない夫は 奥さんを愛しているとはいえません。 例え毎日抱き合って愛情の交歓をしていてもそこに有るのは 性欲の発散行為だけです。 たまに軽率な女はそれを愛と勘違いして後で泣く純粋な方もいます。
お礼
ありがとうございます。
- hyuuma8579
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形がないからこそ、無限の力と永遠の力、絶対的な力を秘めているわけです。 逆に形があるもので、それと同等の力を秘めたものは、世界中を探してもありませんよね。 器に入りきれないほどの内容があるからこそ、はじめから形がないようになっているわけです。 但し、愛そのものの形はなくとも、それが現象化するために愛だとわかるのです。。 たった一つの何気ない行動や語る言葉に愛を感じることがあります。 愛を感じた瞬間・・・ピタッと同時に信じる心も発露します。 思い込みという次元で感じるような野暮な愛ではありません。 しっかり、くっきり、はっきり、心の真っ芯に入ってくるのが愛というものです。 鮮明な記憶として、心や脳髄だけでなく、 細胞のひとつひとつに記憶されてしまうわけですから、愛というものがどれほど強烈で刺激的な存在かということです。 無形だからといって、あやふやな存在ではないのです。
お礼
ありがとうございます。
愛を信じるじゃなくて信じる事が愛なんです。 愛は一方的なものだから見返りを求めるもんじゃありません。 つまりは一方的に思い込むこと自体が愛なのです。 相思相愛ってのはたまたまその方向性がお互いを向いているってだけの話…
お礼
ありがとうございます。
- bari_saku
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あなたが片思いしている相手に告白して「愛は目に見えないからあなたが私を好きだというのが信じられない」と言われたらどう思いますか?
お礼
ありがとうございます。
- alterd1953
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愛は行動や態度に出ますので目に見えます。 交際中は、会うと嬉しそうにしてくれ 別れ際は淋しそうになり 誕生日にはプレゼントをくれ 他の女性を褒めると悲しそうになり 結婚してからは毎日明るく「いってらっしゃい」「お帰り」と言ってくれ 私の子供を産みかつ育ててくれ 定期的に私の好物のおかずを作ってくれ 出会ってから延々と仲良く喋り続けている相手の愛を疑うことは 私にとって馬鹿げたことです。
お礼
ありがとうございます。
- suzuko
- ベストアンサー率38% (1112/2922)
ちょっと違う視点から。 人はまず生まれてすぐには「愛」を知りません。 ただ、欲求するだけです。 でもすぐに「愛着行動」と言う、親との「愛情の交換」を始めます。 自分に人の顔が近づいたら笑い、人の顔が見えなくなったら探す。 自分の注意を向けたものをじっと見てから、親の顔を見る。親が同じものを見ていれば笑い、見ていなければ指さしをして”見て”と促す。 これらの「愛情の交換」が「愛情への信頼」となります。 ちょっと飛躍ですが、親の愛を十分に受け止めた子ほど「愛を信じることができる」のではないでしょうか? そして、信じるからこそ「愛」は深まっていくのでは? 私見です。
お礼
ありがとうございます。
愛って空気と同じです。 何も感じない人は存在すら感じない。 信じる人には信じられる。 ありがたさが分かる人にはわかる。
お礼
ありがとうございます。
- fuefue12
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自分の思い込みかもしれないし 人によっては自分が理解できない愛の形もありますしね。 それでも「信じることが出来る」のは 自分が「この人が自分を愛してくれている」と信じたい気持ちと 愛してくれる人に限らず色々な人と接していくうちに 人間の大体の「愛の形」がどういう風か理解できるようになってくるからだと思います。 例えば2人の男性が「愛している」と口にしたとします 1人は長年付きあっている大好きな恋人 1人は今日初めて会った男性 同じ台詞でもその台詞を受け取った人の感じ方はそれぞれ違いますよね。 まさかそこで初めてあった人の「愛してる」を心から信じる人はあまり居ないと思います。(単純に顔が好みの男性だから言われて嬉しいとかはあるかもしれませんが) そう判断できるのは自分の経験が影響してるからです。 相手の事を知り、愛していると本当に思っていそうかいなさそうか、経験から予測が立てられるんだと思います。 とはいってもなかなか理解しにくい「愛」も世の中にはあるわけで これの分かりやすいのは多分「親子の愛情」だと思います。 親が思う「愛している」と子どもが感じる「愛されている」って全然別の理論で求めているものが違うと思うのです。だから子どもは大人になってからじゃないとなかなか「愛されているんだな」と実感できなかったりします。 何を持って「愛している」と言う言葉が真実であるかは私もはっきり明言できませんが、相手の言葉を信じられるか否かは自分が相手の事を「どれだけ信用しているか」がかなり影響しているように思います。
お礼
ありがとうございました。
愛は与えるものであって与えてもらうことではないからでしょう。 また、感じる場合は態度や目線で示されるから判るんだと思います。 (抱きしめられたり、おいしいものを自分は我慢してでも食べさせてくれたりみたいな) 思い込みである場合もあるでしょうけどね。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。