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エホバの証人の輸血拒否を非難する人の矛盾点
エホバの証人の輸血拒否問題について、私は以下のような見解を持っています。 要するに、医学界がエホバの証人の患者の「命と信仰の両方を救う」医療技術を一般的に提供できるようになれば、完全解決するという見解です。 よければ、お読みいただき、ご指摘・感想等をいただければと思います。 尚、Okwaveから議論を禁止されています。でければ、回答者お一人につき一回答で完結という形でご投稿願います。 ----------------- (要点): ●人はそれぞれ「命よりも大事なもの」を持っており、時にそのためには命をさえ懸けることがあるという事実。 ●結局、あなたが気に懸けているのは何? 患者の命? それとも、信者に信仰を捨てさせること? ●エホバの証人の信仰を変えさせるのは困難。それよりも、「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供する方がはるかに近道。 ●医学界があまり真剣に動かなかった原因の一つは世論にもある。「信仰より命を選ぶべき」という非難的な世論は、「命と信仰の両方を救う」医療技術の促進を妨げている。 ●それは矛盾していないか? ----------------- (最後のまとめから引用) もう一度、尋ねます。あなたの動機は? 患者の命? それとも彼らの棄教? そして、もう一つ、患者が命と信仰の両方をとってはいけませんか? さらに、そのような医療技術を医学界は提供する能力がないのですか? ----------------- (本文): <人には命よりも大事なものがある> よくある考え方だと思いますが、「命が何よりも一番大事。だから何があっても助けなければならない」という正義感、使命感のようなものが根底にあるのかと思います。それはそのとおり。しかし、「命が一番大事」というのは正確には事実ではありません。 逆に「命以上に大事なものが何かありますか?」と聞かれたらどうでしょうか。家族とか特に子供のためなら、あるいは自分の仕事や研究のためなら命を懸けてもいいという人もいるかもしれません。確かに、時として自分の命を投げ出してでも守りたいもの、成し遂げたい目標などがあるものです。 一方、「自分の命さえ救われれば、何をしてもいいんだ(仕方がないので)」という考え方は上の考え方と比較し時、どう評価しますか? 例えば、飢きんの状況で、餓死寸前、食べる物は何もない状況、しかし、ある人が、先に死んだ人の肉を食べよう、と言い出した。そういう状況で、「いや、どんなに苦しくとも道義に反することはできない、さもなくば潔く死のう」という人と、「やむを得ない。こういう状況だから、食べたくはないが食べよう」という別の人。両者をどう評価しますか? (あなたにも「たとえ何があってもしてはいけないと思っているもの」があるでしょう?という意味) 時として、人は道徳・正義・主義・思想を守るために命を懸けることがあります。例えば、昔、強姦されそうになった女性が辱められて生き恥をさらすよりは、と舌を噛み切って死ぬこともあったかもしれません。そのような道徳観念は十人十色ですが、エホバの証人にとっては他人の血液を自分の体に入れるという行為を本気で受け入れられないと考えており、強制された場合、それは強姦されたも等しいとさえ考えているほどです。 このように、ぞれぞれ人は命よりも大事なものを持っているものです。それは各自で異なりますが、エホバの証人の場合はそれが神への「信仰」であるということです。したがって、「命<信仰」と考える彼らの命を救うには、彼らの命だけでなく、信仰をも考慮しなければならない、ということになります。 <あなたの動機は?> しかし、あなたは本当に信者である彼らやその子供たちの命を気遣っているのでしょうか? それとも、ただ、信者に信仰を捨てさせようとしているのでしょうか? 恐らく、ほとんどが前者でしょう。では、なぜ、「命<信仰」と真剣に考えている彼らに「命か?信仰か?」と二者択一を迫るのでしょうか? その両方をとることは許されないのでしょうか? <完全解決策は、「命の信仰の両方を救う」医療技術にある> 信仰は当人にとっては時に命よりも重要視されるという事実を認めるなら、それらをも同時に救い得る方法を検討していくべきではないでしょうか。あの大ちゃん事件から27年。日本の医学界がエホバの証人のような信者の「命と信仰の両方を救う」医療技術をすでに提示していてもよいはずではないでしょうか? それまで何をしていたのか? それともそれだけの技術がないから? それとも、そもそも、そのような努力をしなかった? エホバの証人の輸血問題を非難しても、患者である信者、また子どもたちの命は救われません。どんなに非難しても、彼らの考えは変わらないでしょう。 それよりも、本当に彼ら、また彼らの子どもたちの命のことを気遣っているのであれば、繰り返し言っているように、「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供できるように医学界が努めることが最も近道です。日本の医学界にはそれを成し得る能力があります。一部そのような技術を提供しているところもあります。もし、その技術がごく一般的な標準医療となれば、このような輸血拒否問題などはなくなり、完全解決するでしょう。 <非難は矛盾していないか> もう一度、尋ねます。あなたの動機は? 患者の命? それとも彼らの棄教? そして、もう一つ、患者が命と信仰の両方をとってはいけませんか? さらに、そのような医療技術を医学界は提供する能力がないのですか? 「信仰よりも命を選ぶべき」という非難的な世論は、医学界が真剣にそのような新たな医療技術を導入する妨げとしかなっていません。それは非難している人々の思惑とは矛盾していませんか? 患者の命を気遣いながら、その命を救う(信仰ごと)方法の普及を妨げているのです。 むしろ、「命と信仰の両方を救う」べき、との世論が強まるなら、医学界もそれに応じて、真剣に新しい医療技術を導入することになるでしょう。
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お礼
まったく、私も痛ましいことだと感じています。 しかし、親が「自分は死んでも絶対に受け入れない」と信じている行為を、子供にならさせてもかまわない、とは普通考えられないでしょう。 それに、一番泣いているのは信者である親自身であることは明白です。親としては、自分が死ぬよりも自分の子供が死ぬのを見ることの方がはるかに苦しいかと思います。それでも、彼らは信仰を曲げない。これは本物の信仰か、それとも異常なのか? いずれにしても、このようにして、子供がむざむざ死ぬのを手をこまねいて見ている必要があるでしょうか? 医学的に救えるのであれば、是非救ってあげるべきではないでしょうか? その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。