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結婚の挨拶から見える日本人の心
自立した個人という概念は外国から輸入されたものですから、その前は家が社会の最小単位 として存在感を持っていたそうです。 そしてその当時の結婚というのは、自立した個人と個人の結婚ではなく、○○家の長男と △△家の次女というように家と家の結びつきが強く意識されたものであると推測できます。 また、家長という言葉があるように家には代表者がおり(父親)、家長でないものに対して、権力・権威を当然持っているでしょうし、子供の結婚に関してもその影響力がないわけがありません。 ところで現代では結婚をするとき、結婚の挨拶をまずしますが、その内容というのが 「結婚を許していただけないでしょうか」というような、相手の父親に対して、男性が承諾を得るという形式を取っています。 しかし、自立した個人というものが社会的に認められており、現代に生きる我々も自立した個人なのだと自覚をして生きています。 なのに結婚に関することになると、この自立した個人はどこかにいってしまって、相手の父親に 許しを得なければならなくなってしまう。 これは明らかな矛盾です。 なぜこのような矛盾が容認されているのか、その原因は先に挙げた経緯を鑑みるに昔の結婚観と、 自立した個人を社会の中で「棲み分けさせてしまった」ことであり、結果として結婚の許しを請う 自立した個人という存在が出現したのだと思います。 共存しているわけではなく、棲み分けたのです。つまりシチュエーションによって相反する論理を使い分けるという一貫性を欠いた態度を取ることによって現在の社会における結婚の形が成り立っているのです。 ここから分かることが三つあります。 それは日本人は一元論的に物事を捉えようとしないということ(あるいは苦手)。 もう一つは、このような棲み分けは結婚に限らず、恐らく日本社会の様々なところに存在するであろうということ。 日本は歴史を見ても外国の影響を強く受けてきました。その結果として七五三をやって、教会で式を挙げ、お寺で葬式をするなどの統一感のない風俗が当然のようにある。結婚だけに限った話であるわけがない。 さらに、この棲み分けという特殊能力のお陰で、統一感は失ったとしても、様々な文化を取り入れることができる上に既存の秩序が損なわれ難い。つまり自立した個人を輸入してもそれは結婚では通用しないから、ということが言えてしまう。 ある意味、柔軟性があると言えるが、とても頑なであるとも言える。 矛盾を抱えながらも、それを容認できてしまう。 この柔と剛を併せ持つ精神こそが日本人の心なのではないでしょうか。 長文読んでいただきありがとうございます。 もしよろしければご意見ご感想を教えて下さい。
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