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司法への「権力」の介入について
私は、司法は公正・客観的な最後の砦…と考えていました。警察・検察・行政には政治権力が口利きにより容易に介入でき、建前規範は、きれいごとの抽象的・一般的な作文でごまかし、その具体的・個別的な事件の対応の実態は、国民の人権擁護にかかる事案についても、強い政治権力にしっぽをふり、どちらが損か得かの判断を重視して、トップが政治案件と判断、命令を下し、下の者は、上に従わないと損な目にあうために、多少はおかしいと知りながらも不正な、権力の濫用・逸脱が行われることが、しばしばです。 司法には、そんなことはない…と思っていましたが、実体は、司法は、司法官僚であり、霞が関の行政官僚と思考形態が同じで、弱者の国民の痛みより、自分の将来がどちらが得かに重心を置いた行動原理をとられる方が案外、多いのではないかと感じるようになりました。 そのことを実現可能にするのが、自由心証です。自由心証の仮面で、法と証拠を無視し、実質的には不正な判決、訴訟指揮をされる方が実際にはおられる…、怖しい現実です。 国民を守る最後のセキュリティシステムに大きな欠陥があると感じるようになりました。 同じような気持ちを持たれた方は、いらっしゃいませんでしょうか。
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- himichu
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そう感じた例をいくつか補足していただけませんか?
- hekiyu
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”国民の痛みより、自分の将来がどちらが得かに重心を置いた 行動原理をとられる方が案外、多いのではないかと” ↑ その可能性はあります、というかその通りです。 最高裁に逆らった判決を出すような裁判官は 出世できない、という良き伝統があります。 反面、 出世などは眼中に無く、己の信じる裁判をやる という裁判官には、左側の裁判官が多いのも事実です。 ”国民を守る最後のセキュリティシステムに大きな欠陥があると感じるようになりました” ↑ どんなに素晴らしいシステムを構築しても 最後は人間です。 米国辺りの愛国裁判官に較べれば、日本の裁判官は まともな人が多いように思います。
お礼
ご回答、ありがとうございました。素晴らしいシステムを構築しても、最後は人間です…このことには私も至極、同感です。 今回、私が自殺を考えるほど、追い込まれるようになった事件の原因は、直接の大元の犯罪を技量・モラルが著しく低い50代の女性医師が行い、隠ぺい工作のために同様の医学を悪用した傷害・殺人未遂を中核病院の30代の女性医師、さらに介護施設の職員、経営者に連鎖してしまい、たまりかねて訴訟提起したものの、一番、公正であると思っていた裁判所が、単なる時代遅れの「お役所」であり、裁判官がまるで、江戸時代の悪代官のごとくの訴訟指揮を行い、虚偽が明白な判決理由を破廉恥に平然と記述し、結果として被害者に最悪の事態がもたらされたことにあります。 医師も、裁判官も、官僚も、試験合格後の後で、いかに研鑽を積み、人格と合わせて仕事に対する能力を向上させていくことが肝要なことであると思いますが、今の日本の制度は、戦前の統治システムがそのまま横滑りしており、肩書きをもらったら、後は人を助ける心がなくても、組織の中をうまく立ち回った人が得をするような古い体質のままであることに大きな社会病理を生み出す根幹があるような気がしてなりません。
- bismarks0507
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重要かつ思慮する価値のある質問だと思うので、主観的であるが、回答したい >私は、司法は公正・客観的な最後の砦…と考えていました。 小生もそう思う。 そして、『十分ではないにしろ』他の三権(立法・行政)よりは、『公正・客観』に対する責任を消極的ながら果たしている、とは思われる。これは、あくまでも相対論に過ぎない。 実態として『十分ではないにしろ』という程度論としては、他の三権よりは、まだマシ、という評価が無難だろう。 十全を尽くせるように努力するのは当然にしろ、批判せずには居られないのは、司法権力への期待の裏返し、だと思われる。 >警察・検察・行政には政治権力が口利きにより容易に介入でき、建前規範は、きれいごとの抽象的・一般的な作文でごまかし、その具体的・個別的な事件の対応の実態は、国民の人権擁護にかかる事案についても、強い政治権力にしっぽをふり、どちらが損か得かの判断を重視して、トップが政治案件と判断、命令を下し、下の者は、上に従わないと損な目にあうために、多少はおかしいと知りながらも不正な、権力の濫用・逸脱が行われることが、しばしばです。 憲法訴訟・行政訴訟を代表として、上記指摘のように思われる訴訟・判示が多い、とは感じられる。 しかし、事情判決(行政事件訴訟法第31条)などの事例など、やはり、「致し方ない」という判示もありえるものであって、小生は一概に、上記批判を全肯定できないが、主観・感情論としては賛同してしまうことは多く散見される。 ただし、積極的な利益衡量判断などの事例を多様することの「法の安定」の緊張関係などはやはり司法の消極性という批判がありえる一方、司法の独断を廃し暴走静止との『権力自制の評価』もあろうと思う。 要は、司法消極主義の功罪でもあろうが、各人の主観的評価であろうが、小生は一概にマイナス査定であるべき、とは思わない。 >司法には、そんなことはない…と思っていましたが、実体は、司法は、司法官僚であり、霞が関の行政官僚と思考形態が同じで、弱者の国民の痛みより、自分の将来がどちらが得かに重心を置いた行動原理をとられる方が案外、多いのではないかと感じるようになりました。 指摘は、最高裁を頂点にした司法行政の領分の問題として、もはや法律論で解決・改善を模索することが不可能な問題だと思われる。 極論すれば、最高裁事務局の司法行政権を、より制限し、裁判官の独立性を尊重することが重要だと思うが、それによって質問者が求める司法肖像が保障されるとは言い切れない、とは思う。 ”人である限りにおいて、我が身が可愛いのは当然かつ仕方ない”という諦観が小生の本音であるが では、不条理・不合理な司法制度・司法行政体制を具体的に解消・改善する”具体的解決策”が見当たらないのが現実であろう。 小生も質問者と同じ見解であった時期があり、浅学ながら様々な司法制度改革を思考実験してみたことがあるが、浅学かつ法曹現場を知らないが故の『無知』な見解であったことを思い出してしまう。 >そのことを実現可能にするのが、自由心証です。自由心証の仮面で、法と証拠を無視し、実質的には不正な判決、訴訟指揮をされる方が実際にはおられる…、怖しい現実です。 国民を守る最後のセキュリティシステムに大きな欠陥があると感じるようになりました。 同じような気持ちを持たれた方は、いらっしゃいませんでしょうか。 自由心証の適否については、小生個人は”弁論の全趣旨の斟酌”がもっとも危険だと思う。 一方、質問に指摘されている「証拠能力(価値)の裁判官の自由判断(評価)」も怪しいものがあろうが、主観論的には批判できるが、客観的に批判持論の説得力を十分に持ち得るものではないことから、やはり「裁判官の自由心証」は”致し方ない”と思う。 それらを厳密・合理的に精査するメソッドにしても難しい問題であろう。 これは司法側に対する同情的見解ではあるが、 訴訟案件の絶対数量が過多で、裁判官の絶対数不足を解消することが先ず優先だと思う。 一人の裁判官が処理しなければならない訴訟案件があまりにも多過ぎるからこそ、十分な当人の司法判断が行えない、と思うのだが、根拠もない話と言われれば否定できないだろう。(小生がそう思っているだけの話ではあるが) ただ、小生は一方では以下のように思う 司法権が最後の砦、と考える現実はどこまで適切と言えるのか?という問題である 政治権力として至尊かつ最高責任を負うべきは、有権者であり国民であって、その責任から国民は、どこまで司法と相対しているだろうか? 司法制度改革によって様々な司法改革が行われた。その筆頭が裁判員制度などであろうが、国民の司法権への政治参加・政治意識は、裁判員制度を経ても盛り上がっていないように思える。 どこか司法権が「雲の上」のものとする感覚が強く、権力監視の意識が極めて薄いようの思えるのである。 実際に、最高裁裁判官の罷免権の行使である『国民審査』が十分に意義を持っていない問題がある。問題は制度論上の話もあろうが、一向に国民審査制度の改廃について世論喚起された形跡も見られないし、国民審査を取り巻く環境は、前述した「雲の上」の話になっているように思う。 もちろん、法曹界が法に無知な有権者によって恣意的に権力介入される危険性は十分に検討する必要性はあろうが、あまりにも国民レベルでの法曹界への意識が低いと言わざるを得ないように思う。 専門的で用語からして判り難い司法世界の現実的課題もあるが、本質的な部分で誤解されている部分が多々あるように思う。 例えば、(明白な)『違憲・違法ではない』というだけに過ぎない判示を、”合法(合憲)”と理解誘導・理解するような傾向について十分に<本質的問題>として問題にするべきように思う。 少し乱文になったが、表題について私見を述べておきたい ”司法への「権力」の介入について”という表題だが、 小生は、権力介入そのものは否定しない。問題は介入されてそれに影響されない司法の姿勢を問題にするべきであろうと思う。もしくは影響されても、より現実的かつ合理的な説明によって司法が独自に判断し、その判断過程を伝えることが重要だと思う。 権力は相互介入する関係が望ましいのであって、独立性は建前論に過ぎないものとして認識している。 そして、どういう介入であるか?が問題であって、恣意的かつ作為的な介入を批判するべきであって、介入そのものを包括的に問題視するならば、小生は首肯できない上に、批判することになるだろう。 <付言> 大変意味・意義のあるように思う質問なので、多くの返答が付くことを期待するのだが 真っ当で健全な法律の専門家になればなるほど、政治的領域には言及したがらない傾向からして 小生のような浅学な人間しか回答を提示しないように思うのだが・・・ できれば、しばらく回答募集してほしいのだが・・・・ 以上
お礼
真摯なご回答、ありがとうございました。事件の内容は、No.3のご回答の補足欄で、詳細が分かるようにしておきました。大変、異常な事件が起きたのです。医師の犯罪が連鎖して、隠ぺいのために中核病院の医師が協力、さらに特別養護老人ホーム、デイサービスの経営者が協力して、密かに薬剤を投与する形の傷害・殺人未遂事件が連鎖してしまい、介護サービスを利用できなくなり、完全に在宅で一人の介護となり、それが一年半続き、今月初め、自宅で倒れ、救急搬送されてしまい、介護があるために点滴で急場をしのぎ、自宅に帰り、現在に至りました。 芋づる式に犯罪者が連なっていきましたが、もはや逮捕者が出ることはありません。捜査機関まで、隠ぺい工作に加わったからです。そのため政治家の出番となったのでしょう。前田検事は、犯罪をねつ造しましたが、今回の検事は、犯罪を隠ぺいしました。逆前田検事の事件となりました。前田検事の事件より、悪質なものとなったのは、裁判官までが隠ぺいに協力したからです。 貴方の言われるように、恣意的かつ作為的な介入を私も問題視しているのです。22年末の時点で、あるマスコミは事件の経過を知っていました。そして、「この事件は、もう何をしてもダメだから…」と少し含み笑いをしました。公正であるはずの裁判所までもが、そのマスコミの予言どおりの行動をしたのです。しかし、とんでもない八百長の訴訟指揮をした裁判官は、過去にも問題がある行動をとっていたことが分かりました。原告が、その裁判官を忌避した後で、焼身自殺するなど…、最近になって、初めて分かりました。本当に怖ろしいことです。 何故、公正であるべき裁判所で、このような不正が起きるのか、今回の不正は、家裁、地裁、高裁と、不正な裁判、審判内容が深く連動して起きています。そのために、単に一人の裁判官だけの偏見によるもの、とは考えにくいのです。 教科書的な理念では、三権分立ですが、最高裁判所の裁判官の任命権が内閣にあることから、事実上は、政治権力に都合が悪い事件については、二権分立なのかなあ…という印象を抱かざるを得ません。
補足
事件の内容については、過去の質問の際の補足説明とお礼のところで具体的に記述しました。法律の分野の質問で、4月22日付けで、「医師が採取した血液を故意に廃棄した場合の犯罪名」、4月25日付けで、医療の分野の質問で、「症候性てんかんの意味」、4月26日付けで、メディア・マスコミの分野の質問で、「捜査機関の不手際の隠ぺいにかかる報道規制について」の質問と補足説明等をご覧いただければ、幸いです。 端的に言えば、不法行為の直接証拠としての薬剤の鑑定を申し立てる予定であった控訴審の第1回口頭弁論で、不意打ち、騙し討ちのごとく、裁判長が一方的に弁論を終結する宣言をし、仰天した私が必死に弁論再開の申し立てをしても完全に無視し、でたらめが外見上も明白である事実認定のもとに棄却されたのです。あまりにも戦前の特高警察のような権力の横暴的な訴訟指揮に疑問を感じ、このようなやり方であれば、過去にも同様の被害者が多くででいるのではないか…と思い、調べてみたら、その裁判長に対して忌避の申し立てをした原告が焼身自殺をして抗議した事件があったことが分かったのです。歴史は繰り返す…のでしょうか、やはり、その裁判官の訴訟指揮には何らかの問題がある…と思わざるを得なかったのです。