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神社に御利益が有ると言われる所以は?
明治神宮に初詣でに行き、おみくじを引いた所、その文面が明治天皇と奥さん(ゴーストライター?)の作った文章なのですね。 その時初めて、明治神宮では明治天皇を祭って有ると知り、神社に参拝すると御利益が得られると、ただ無意識に信じ込んでいた事に気が付きました。 そこで質問なのですが、どうして皆、明治神宮を初めとする神社に参拝し厄よけや合格の祈願などをするのでしょうか? 願いが叶えられると信じられる根拠にどのようなものが有るのかが知りたいのです。 何か、その場の雰囲気と勢いで、お守りまで買ってしまいましたが、明治天皇が厄よけの願いを叶えてくれるとは思えないのです。と言うか、皆さんのご意見をご回答願えませんでしょうか?
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どこまで真面目な質問なのかちょっとわかりづらいのですが、簡単に2つの事を書きます。 ひとつは、神と天皇について。 古代における神というのは、人間にとってかなり理不尽な存在です。「日本書記」などをみると、前触れもなく突然ひとの前に現れてある命令を下し、それが満たされないと過酷な災いをもたらすのです。いわば神は「祟り」(この言葉も意味が広いのですが)という手段を通じて意思を表す絶対的な存在であったわけです。 しかも、古代の祟りは単に神だけがもたらすのではなく、例えば桓武天皇などの「山陵」、つまり天皇陵にある天皇霊も神と同列で、適切に扱われなければ災いをもたらすものと信じられてきました。律令時代~平安時代頃の長い時期を経て、徐々に荒ぶる神の祟りというものが全く不合理なものから因果的に説明のつくものになってきました。「こうすれば神は祟らない」という対処の方策、つまり祭祀が様式化されてくるわけです。 やがて現代に至って神は穏やかなものと観念されるようになってくるのですが、明治天皇が神と同列に祀られることが不自然でない遠因は、かなり古い時代から準備されていたといっていいでしょう。 日本人の霊魂観というものの原則を知っておくと大変理解が早いと思います。 柳田國男が定説化させたことですが、日本人は亡くなって間もない魂は「荒魂」(あらみたま)などといってさまよい荒れやすく、従って飢饉や災害など社会に色々な災厄をもたらすものだと考えました。仏式であれ神式であれ、これが時間をかけて適切に祀られている間に段々と穏やかになり、やがて社会に恩寵をもたらす「和魂」(にぎみたま)となる、という考え方です。 荒魂となるのは、特に天皇を始めとする社会的に力のあった人たちであり、また菅原道真や相良親王のように不本意な思い・怨恨を抱えて亡くなったとされる人たちでした。彼らの持つ巨大なパワーを鎮めるために人々は大きな社を建てて祭祀を行うわけですが、やがてそのパワーは和魂となると逆に大いなる福をもたらす力ともなり得るものでした。 こういう感覚に、現代の人間がその力を求めて参詣をする心理的な遠因があると言えます。明治天皇という極めて強大な天皇の力のイメージは、そのまま神としての力への信仰にスライドし得るわけです。 2つめは賽銭について。 色々な解釈がなされていますが、ここでは(そのものずばり)新谷尚紀「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」から概説します。 新谷の説をごく簡単に言うと、神社仏閣はいわば巨大な「ケガレ」の吸引装置として存在しており、賽銭を投げる時我々は貨幣に自分の「ケガレ」を託しているのだ、ということです。「ケガレ」というのは「汚さ」ではなく民俗学的な概念で、罪や不潔、社会的に悪をもたらすものの一切、生命活動に危機をもたらす全ての包括概念です。 災いをもたらす神が祀られるうちに恩寵をもたらす神になり、その神は具体的な良いことをもたらすというよりむしろ、いわば個人についたケガレという社会的な「悪のたね」を貨幣を通じて吸引し、無力化することで間接的な恩寵をもたらすわけです。当然、かつて怖れられたり生前に存在感の大きかった神ほどその力は強いと感じられることでしょう。宗教文化的にいうと神社は、「ケガレ」というマイナスの力をプラスに変える、言わば社会における巨大な価値転換装置として機能しているのだ、というわけです。 こう考えたうえで質問に返ると、明治天皇が厄除けをしてくれる、というのとはやはり少し違うのでしょう。明治天皇という巨大な存在感のあった、本来神に近いと観念された人物が慇懃に祭祀されているその場に臨み、その力を頼んで我々は、意識しないけれども自らの「ケガレ」を落とそうとしているわけです。つまり、志望校合格などいろいろな実益は、人が「ケガレ」を落とした結果として間接的にもたらされる、と信じられているということですね。 もちろんこういう文化的に複雑な行為は、そう単純化して説明できることではありません。この解釈は沢山あるもののうちのひとつに過ぎませんし、全てを説明できるモデルではないことは付記しておきます。 脇にそれるかも知れませんが、こういう問題へのアプローチについて一言。 神が「言あげしない存在」であるのは事実ですが、それは裏返して言えば「私たちがそこに言葉の説明を求めないで済む存在だ」ということです。つまり言葉にしなくてもわかり合える集合的な感情や行為の諸々、いわゆるエートスで成り立っているということです。西行法師が「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌ったのと同じことですね。こういう問題には宗教民俗的なアプローチは不可欠だと思います。 こういう社会現象について、いわば神の側から教義的な目線でもって「正しい」という言い方をすることはふさわしくありません。そのような存在に、何かしら利益を求めてしまう私たちの自然な感情を含めて神道という宗教も成り立っていることを忘れるべきではありません。およそ宗教とは、一片の教義を世俗的な慣習やエートスが何重にも取り巻いて成立しているものなのです。 ※ざっと書きましたので読みにくい文章であればご容赦下さい。また意に添わなければ適宜取捨なさって下さい。
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- void2000
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日本の神社神道といわれる宗教は、もともと「ことあげしない」宗教と言われています。それは何も説かないのですね。法を説く仏教とはえらい違いです。 だからご利益がありますよとも言わなかったのです。 明治神宮は明治天皇を神として静まっておられる場所です。神というのは人間に対して悪いことをしないのですね。だから人間側も尊敬してその徳をほめたたえるわけです。ただそれだけのことです。だから神社は素晴らしいのですね。 ところがそういう考え方では神社の経済が成り立たないので氏子とか参拝の人がお金を寄付して維持しています。 そうしてご利益があるとかということを言い出すわけです。 だからご利益とか厄除けとかを目的に神社へお参りするのは動機が不純なわけです。 明治天皇にあこがれて尊敬して、お参りに行き、何のご利益も期待せずにお賽銭をあげてくるのが、正しい参詣ではないかと思います。
お礼
ご回答有り難う御座います。 明治神宮の建築は平坦、ご本尊も無ければ、おみくじ には【大吉】などのランクも書かれていなくて、せっ かく元旦の朝早く行ったのにがっかりでした。 正月の一大エンターテインメントとしては、イベント 性に欠けビジネスモデルとしては今一つのようです ね。 明治天皇にはあまり馴染みがないので、あこがれて尊 敬できる人物かどうかよく調べてみます。
お礼
とても分かりやすく、詳しく解説して下さり、有り難 うございます。 何十万人もの人が、ただ何の理由も無く明治天皇に参 拝し散財して行くのだとしたら、群集心理と言うもの はそら恐ろしいものだと思い、この質問をしました。 神社信仰、賽銭の歴史が明治天皇の歴史よりも遥かに 長いと分かり、とにかく安心しました。賽銭も今後は ほどほどの金額にしておこうと思います。 有り難う御座いました。