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非暴力主義
インドのガンジーやキング氏は、非暴力主義で活動していましたよね。 何故ですか? 暴力を使うより、非暴力で物事を解決することは、重要なことだとは理解できます。 暴力を使って解決しようとすると、暴力と暴力のぶつかり合いで上手くいかないですよね。 でも、彼らはなぜ非暴力主義者になったのでしょうか?その経緯が知りたいです! そして、非暴力の重要性を知りたいです! 高校の討論の授業で、ガンジーやキング氏は非暴力主義者であったが、暴力と非暴力どちらが良い(?)かみたいなお題で、討論したのですが、 僕は「非暴力が絶対良いに決まってる!暴力と暴力のぶつかりあいは良くない!」と思ってたんですが、 暴力派のチームに、「暴力やられたらやりかえした方が対抗できる」「非暴力主義を貫いて成功した例があるのか」「非暴力主義を貫いたら暴力されたら、怪我したり命の危険に関わる」という反対意見を言われ、何も言い返すことができませんでした。 だからといって、暴力派に変わる意思はありません。しかし、どうやって上手く反論したら良いのかわかりません。 非暴力主義が良いということが立証(?)できたり、ガンジーやキング氏が非暴力主義者になったことについて詳しく載っている文献があったら教えてください!! また、暴力派に勝てる意見を考えたいので知恵をお貸しいただけますか? 至急お願いします!!
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- hey_hey_11
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ガンジーやキング氏が、非暴力主義を貫いたのは、それまでに暴力による連鎖を何度も見てきており何も解決しないことを悟ったのではないかと思います。 でも、非暴力主義を貫くのは並大抵の精神力ではできませんよ。 凡人は直ぐに怒って暴力を暴力で返してしまいますからね。 しかも、自分の命の補償が無い状態ですからね。 >暴力派に勝てる意見を考えたいので知恵をお貸しいただけますか? 逃げる程度なら、武道を習うのもよしですが、仮に暴力にあった場合は、被害届を出して法律的に解決するのが良いのではないでしょうか。
- gggooogg
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夢をぶち壊すようで悪いですが暴力の前に非暴力は無力であり死を待つのみですよ。 強い側が甘い人であればあるいは許されるかもしれないが現実は甘くない。 そもそも既得権の拡大のために抵抗するわけで、 権力側があっさり利権を手放すことのなどこの世に無い。 トルストイ ガンジー キングの流れで達成された解放は一つの民主的な国家の中で、 社会としてまとまるためには彼ら弱者の意見も無視できないという前提があった。 人は生まれながらに平等というような思想が後押しした。 先の方の回答に日本と韓国中国が暴力云々とありますが、 日本と朝鮮の間に暴力はありません。 併合です、誤解のないようにしてください。 北朝鮮が日本にミサイル打ち込んだら世界が北朝鮮に戦争をしかけるみたいなことかかれてますが、 これも希望的観測でよその国がかわいそうとかで自国の人命を危うくするようなおろかな国はありません。 どこまでも国益に合致するかどうかです。 中国が日本に核ミサイルぶちこんでもアメリカは中国に核ミサイルで反撃することはありません。 日本が全滅すかどうかではなくアメリカ本土が攻撃されるかどうかです。 非暴力とか平和主義とかはフィクションの世界では美しく輝きますが、 現実はみじめな敗北と死しかありません。 非暴力の豚が屠殺を免れられないように暴力の前に逃げ場所はありません。
お礼
ありがとうございました。
- DieMeute
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ガンジーとキングが非暴力で活動したのは「信仰」と「人類愛」があったからです。 ガンジーについて・・・ ガンジーはインドで非暴力主義活動を行う前に、南アフリカにおいてインド系移民の権利向上のために、活動していた事があります。その時、ストライキ等による運動を行ったわけですが、それが一定の成果をあげており、その体験からインドでも非暴力主義活動に徹しました。 また、ガンジーは敬虔なヒンドゥー教徒であり、彼の非暴力主義の根底には彼独自のヒンドゥー教の解釈・宗教観があったと言えると思います。 ガンジーは非暴力と神と信仰を結び付ける発言を何度もしています。 「きちんと信仰を持つ人は、口で神の名を唱えながら悪をする事も剣に頼る事もない」 「神をまじめに信じている人は、手に棍棒を持つ必要はありません」 「我々が祈りを信じているのであれば、互いを攻撃したり、相手を敵とみなす事などできない」 神に対する生きた信仰を持つ人は他人を殺す事などできないし、人類はみな兄弟であるという事を受け入れる事だというような事も言っています。 そして命に対して、人は生きている命を奪う権利は無いと言っています。 他の宗教にしても、イスラム教の神とキリスト教の神とヒンドゥー教の神は同じ神、というような発言もしています。 また、ガンジーはイギリスに対して非暴力主義による抵抗を行いましたが、それについてイギリス人を敵であると考えた事は一度も無いとも言っています。 要するにガンジーの非暴力主義の根底にあるものは、相手も含めた兄弟愛・人類愛であり、宗教(神への信仰)に大きな影響を受けた考えであると思います。それが、南アフリカでの体験と結び付き、インドで非暴力主義に徹した行動になったと考えます。 キングについて・・・ キングは自身がキリスト教の牧師であった事と、ガンジーのインドでの成功に大きな影響を受け、それが非暴力主義への活動になりました。イエス・キリストは暴力に走る事なくゴルゴダの丘で張り付けにされ処刑されました。キリスト教の原理主義から言えば、本来キリスト教は非暴力です。そのキリスト教の原理とガンジーの教えをアメリカで結び合わせたのがキング牧師です。 また、キング牧師の前にも非暴力で黒人の地位向上を目指したブーカー・タリフェーロ・ワシントン(1856~1915年)のようなアメリカ黒人もおり、キング牧師はこの人にも影響を受けたようで、ブーカーの言葉を演説に使うなどしています。 キング牧師は暴力を用いる事について、次のように言っています。 「人種的正義を実現する手段として暴力を用いる事は、非現実的であるとともに、不道徳的でもある。なぜ非現実的かというと、暴力は螺旋下降であり、最終的には全てものを破壊しかねない。・・・(中略)・・・暴力は愛ではなく憎しみの上に育つから不道徳的である。それは共同体を破壊し隣人愛を不可能にする」 キング牧師もガンジーも全ての人は究極的に兄弟であると考え、人類愛から暴力を否定したと言えると思います。 非暴力での討論と言っても、国家間のレベルから個人におけるレベルまであり、それを同列で論じるのは無理があるような気がしますが・・・ ともかく国家間レベルで言えば、戦争した場合、多くの犠牲者が出ますし、戦争が終結しても当事者国の間にはしこりが残り、戦後も遺族の悲しみや憎悪が残り、外交や貿易でマイナスになる事も珍しくありません。 日本と韓国、中国の例を見ればわかると思います。 逆に話し合いで片付けば、死者も出ず、外交や貿易でマイナスになる事もありません。 例えばアイスランドの独立の例があります。 アイスランドは昔はデンマーク領でしたが、1800年代から独立運動を始めました。独立運動と言っても暴力は使わず話し合いで、まずデンマーク王にアイスランド議会の開設を認めさせ、後に立法権や財政権を認めさせ、どんどん権利を拡大していき、100年以上経った1944年についに無血の独立を達成しました。 この独立で誰も死にませんし、憎悪が生まれる事もありませんでした。 現在もアイスランドとデンマーク間の関係は良好です。 ノルウェーも1905年にスウェーデンから無血の独立を達成しています。 国家の独立には流血を伴うものが少なくありませんが、非暴力で血を流さずとも達成できる場合もあり、その方が犠牲を出す事もなく、憎悪を生まず、両国にとって賢明と言えるのではないかと思います。 個人レベルで言えば、一般的に言えば、非暴力は道徳的であり、人間の正しい生き方と言えるでしょう。 暴力は暴力を生み憎悪の連鎖を招き、相手と共に生きる事や助け合う事もなく、苦しみしか産み出しません。人生のマイナスにしかなりません。 暴力的犯罪に巻き込まれたなどという特殊事例に遭遇したのでない限り、普通に生活する分には暴力とは無縁の筈で、非暴力主義でも問題ない筈です。何かあった場合は逃げるとか、警察を呼ぶとか、暴力を行使しない手段もあるでしょう。 ただ、まあ世の中には必要悪というものもあります。 人類みな兄弟、暴力はいけないと言っても、理屈が通じない場合もあります。 2008年6月の秋葉原通り魔殺人事件では7人が殺され、10人が負傷しました。犯人を取り押さえるのに警官は「暴力」を行使したわけですが、それは必要な事でした。暴力は悪で悪い事だとは言っても、使わなければどうしようもない事もあります。まさに必要悪と言えるでしょう。 非暴力主義で議論するなら、個人レベルの犯罪と、国家間や権利獲得運動などの大きなレベルの話は切り離して論じた方が良いと思います。
お礼
ありがとうございました。
- phj
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まず討論部分の指摘から、 >暴力派のチームに、「暴力やられたらやりかえした方が対抗できる」「非暴力主義を貫いて成功した例があるのか」「非暴力主義を貫いたら暴力されたら、怪我したり命の危険に関わる」 という指摘を受けているようですね。 非暴力派としても、しごくごもっともな意見でこの部分に反論するのは難しいでしょう。また、非暴力主義でも「完全な力の排除」を希求しているわけではありまえせん。 ただし、暴力対暴力が成立するのは「対等な関係」という前提が必要になるのです。アメリカ合衆国とタイではそもそも戦争しても勝負にならないぐらい暴力(兵力)に差があるでしょうが、それでも「独立国」としては対等であり、アメリカがイヤなら同じぐらいの国力の国と同盟してアメリカに敵対する方法もあります。 国と国との利益のぶつかり合いは、国連があっても戦争になりやすいですから、軍隊という暴力で解決するのは不合理ではありません。推奨しているわけでもありませんが、厳然たる世界の事実だということです。 このような場合はある国が「うちは非武装だから攻めないでね」と言っても他国の利益のためなら攻めてくるのが現実でしょう。北朝鮮の拉致問題などは、日本領海から領土に侵入し拉致しているのですから、十分に戦争の理由になりえるわけです。 これをやめさせるには「うちの国民を一人でも拉致したら、お前の国の国民がどうなるかわかっているんだろうな」という脅しが必要になります。結局は暴力を肯定するしかない部分もあるのです。 その点で、スイスは永世中立国ですが、国民皆兵制で「スイスに攻め込んだら国民全員が死ぬまで戦うからな!!」という脅し(軍事力)が非暴力主義といえる永世中立を保障しているのです。 しかし、ガンジーやキング牧師のような「非暴力」の考えもあります。 これの前提は、そもそも相手と対等な関係ではない、ということにあります。 ガンジーが生きた時代のインドはイギリスの植民地でしたから、インド人には人権など無くイギリスの支配に抵抗すればどのような理由をつけてでも逮捕監禁できましたし、場合によっては合法的に殺すことも出来ました(つまり裁判で法に則って殺すわけです) キング牧師の時代も、黒人に対する公民権が認められていなかったため、ほぼ同じ状態だったといえます。 こうなると武器をもつだけで弾圧され、集まるだけで弾圧され、指導者は抹殺される状態になります。 このような状態を止めるにはどのようにしたらいいのか、と考えたのがガンジーの非暴力主義です。 彼が行ったのは「イギリス人もインド人も関係なく、人である。人は生きる権利がある。」という主張であり、そのデモンストレーションとして「人として扱われないなら自ら食を断って死を選ぼう」という非暴力を体現するための断食と、人として扱わない主人(奴隷から見た主人)に対する不服従、を選んだのです。 ガンジーの時代でもキング牧師の時代でも暴力によって差別を解消しようとする動きは当然にあったのですが、むしろそちらのほうが成功していないのです。 また非暴力主義は「理性的な誰か」にアピールすることを目的としています。ガンジーが目的としたインド独立も、イギリス本国にいるイギリスの知識人層に訴えることと世界中の人々の世論に訴えることを目的としていました。つまり先ほど書いたように、どちらも「自分の正義(たぶんに自分の利益)」を主張してどちらも同じぐらい正当性がある場合には、戦争という解決法は現在でも否定できないのです。 逆に言えば、外にいる誰か、第三者の誰かの人間性に訴え「こんな野蛮なことはやめよう」という働きかけが非暴力主義の真髄だといえます。 さて、先ほど日本は9条があっても北朝鮮の拉致を受けた(だから防げなかった)と書きました。9条は確かに非暴力主義の洗礼を受けているのです。 しかし逆に9条があるからこそ、北朝鮮は絶対に軍事力で日本を攻めることはできない、と言うこともできます。(拉致のようなテロは別です) なぜなら北朝鮮が非暴力主義(と9条で謳っている)の日本にミサイルの1発でも打ち込んだら、世界中の国に「北朝鮮に軍事力を投入して将軍様を引き摺り下ろす」という理由を与えることになるからです。 これに対しては(ミサイルが打ち込まれた以上)、中国も北朝鮮も日本の同盟国や国連軍の侵攻・反撃を止めることはできないからです。 私も非暴力主義に賛成ですが、時と場合によっては効果がない、ということも知っておくことが重要だと思います。
お礼
とても参考になりました!回答ありがとうございました。
- Mumin-mama
- ベストアンサー率45% (1140/2503)
個人的意見ですが、 非暴力主義で、民主主義に則って話し合いをすれば、根本的な問題が良く見え、それだけを話合うことが出来ます。 暴力主義で相手に攻撃をしかけた場合。 その攻撃も新たな問題に持ち上がり、問題は多数になり解決も複雑になり、根本の問題よりも攻撃したことが問題になったりもします。根本の問題が全く見えなくなってしまうこともあります。 また、いくら正当防衛だと主張しても、その被害の大きさなど第三者からは理解が出来ないことも多く、ますます解決の出口から遠ざかります。 暴力主義ははじめるのは簡単ですが、暴力は暴力でと応酬になり、解決は大変難しくなります。
お礼
ありがとうございました。
- gadovoa
- ベストアンサー率28% (835/2909)
なるほど論破したいわけですね。 暴力では暴力を解決できないと悟ったからです。 例えばあなたが銃を取って独裁国家を倒そうとした場合。 独裁国家は正当防衛という名目で銃を持っているあなたを殺し、 その後国家反逆者を射殺したと言えばそれで終わります。 しかし武器を持っていない人を殺したらどうなりますか? そんな国家を誰が信用しますか? その不満がやがて大きな力になって国家を転覆させる力になるのです。 今回のリビアではカダフィーを実質倒しましたが、 これは数の論理です。 国家転覆を祈る人が国の軍隊よりも多かったからできたんです。 もし少人数で国家転覆を狙ったら返り討ちに合い、 逆らう奴は皆殺し。と逆に恐怖を植えつけられます。 暴力主義は同情を得られない。 同情は民衆の力なんです。 「暴力は対抗できる。」 それは対等だったときです。 こちらが小数なら皆殺しになり、 同情も得られず、他国の協力も得られません。 「非暴力主義を貫いて成功した例があるのか」 ガンジー、キング牧師。 「非暴力主義を貫いたら暴力されたら、怪我したり命の危険に関わる」 確かに命の危険はあります。 でも暴力で対抗したって命の危険に変わりはありません。結果は同じではないですか。 それよりも考えてみてください。あなたが兵隊だったら。 相手が銃を向けてきたら命の危険を感じ銃を撃てますよね。 でも武器を持たずにこちらを見ている人を撃てますか? 普通の人なら撃てません。なぜなら人類普遍の道徳として悪いことだからです。 戦争なら殺し合いが当たり前ですがこの場合は戦争ではありません。 そしてこちらが数的に多ければいいけど、 先程言ったように小数であれば皆殺しになって終わりです。 そして誰も同情してくれません。 先頭に立ったあなたは死ぬかも知れませんが、 必ず後に続く者が出てくるのです。 それが非暴力の力です。 昔から言うでしょう「ペンは剣よりも強し」
お礼
参考になりました!ありがとうございました。
お礼
参考になりました。ありがとうございました。