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憎悪との付き合い方
理解はされないだろうと思いつつ、試みに意見を求めてみます。 悩み相談をする人のほとんどは、 「つらい、さみしい、死にたい」 というような文脈の方が多いようにお見受けしますが、私は、そういう形で悩んでいるのではありません。 「怒り」を忘れられないのです。 確かに、気分が落ち込むこともあり、自尊心も低く、また長い間、不要な人間として扱われてきたこともあり、何事もうまくいかない現実に悲観することもありますが、それは私にとっては、あまり大きなことではありません。 「やられたのに、やり返していない」 という無数の現実が、私の中で、納得できないのです。 他はもう、どうでもいいのです。 よく「恨みなんか、抱えてるだけ損だよ」という人がいます。 やれるわけもないですが、そんな言葉を聞くと、鉄拳をお見舞いしたくなります。 この痛み、屈辱感をたっぷり味わってから、同じ台詞を私に言ってみろ。 今すぐ私の憎しみの全てを浴びせてやる、と。 勿論、そんなことを言う人は、私の切迫した気持ちなど、これっぽっちも理解していないので、説明しても無駄なことが多いのですが……。 「相手は、他人を傷つけることの重大性に気付かない愚者だ、哀れんでやれ」 「許す、という行為ほど、尊いものはありません」 現実のすり替えだ、としか思えません。 相手が愚者でも賢者でも、手を上げれば私が傷つくことなら知っています。 それが人間の行為である以上、過失ではなく、故意なのです。 そして、私が許そうが許すまいが、私の手が敵の首にかからない限り、私の敵はそんなことは、まったく頓着しないのです。 そもそも、相手を罰する力を伴わずに「許す」のに、何の意味があるのでしょう? 「お前だって過ちを犯したことがあるはずだ」 否定はしません。 でも、もし私から不当に害を受けたというのなら、訴えればいい。 私がその事実に納得したら、自分から謝罪に赴くでしょう。 事実があるのに私が謝罪しなければ、報復を受けるかもしれません。 それは好ましくないですが、当然のこととも理解しています。 「神を信じれば」 宗教を否定する気はありませんが…… 人間から受けた害悪で積もり積もった憎しみを、神に後始末させるのですか? それしかやり方はないのですか? 「感じ方次第だよ」 では、やっぱり鉄拳を見舞ってあげましょう。 あなたの体に普通の神経が通っている限り、感じるのは苦痛以外にありません。 私が息切れするまで殴ってあげますから、どう感じたかを教えてください。 「愛する人がいれば」 いい考えです。 ただ、憎悪の奴隷を愛する人がいるでしょうか? 私のほうでは、心の中は別のものでいっぱいなので、人を愛する気持ちには、鍵がかかっていて、外に出てきません。 泥を浴びせる相手に、真水を注ぐ天使が、どこにいるのでしょうか。 「君、もしかして不幸なのが好きなんじゃないの?」 どこの成功哲学の本を読み漁ってきたか知りませんが、痛みを知らないようなので、やっぱり味わってからコメント願います。 死ぬ寸前まで痛めつけて、大事なものも全て奪って、それでも恨みを思わず、明るい未来しか考えないというのなら、納得しますが。 ……といった具合です。 よくよく考えて、胸の中に渦巻く怒りを納めるのに、三つの手段を思いつきました。 相手からの謝罪を受け入れるか、 相手からの被害が気にならないほど強くなるか、 相手の血を流すか、です。 しかし、謝罪は相手の意思が伴ってこそ意味があります。 そして多分、自発的な謝罪は、永遠にやってこないでしょう。 力で屈服させて謝罪の言葉を引き出すのは、復讐の一種に過ぎません。 そして、復讐は、社会の許す形で行おうとするならば、相手以上の十分に大きな力を持たなければ、犠牲を伴う(例えば、社会のルール内では勝てないので、しばしば非合法な手段を選ばざるを得なくなるでしょうから)か、失敗します。 そこで、私は、今までの恨みが小さく見えるほどの勝利を目指して、そのためだけに生きています。 ですが、そのことがまさに、壁になって私の行く先を阻むのです。 私はもう、ほとんど何事にも快楽を見出しません。 何を食べても同じ味しかしないし、異性の体に触れてもクッションと大差ありません。 朝の爽やかな空気も、ドブ川の腐臭も一緒です。 映画や小説を目にしても、感動して涙が落ちることさえないのです。 つまり、共感する力が、あまりありません。 ほとんど全てが色あせた、退屈なものに思えるのです。 しかし、一般的な仕事での成功を目指すのであれば、他人の協力は、どんな形であれ、必要になってきます。 勿論、仕事に必要な業務を外部に発注する場合などには、可能な限り、相手の条件や利益、作業環境に配慮します。 好ましい結果が出たら、自分より先に、仲間に配分しようとさえ思います。 それでも、ただただ私が魅力的ではないために、しばしば致命的な損失を蒙ることがあるのです。 私が魅力的でないのは、わかると思います。 幸せそうな顔をしていないのですから。 怒りに囚われているのは自覚していますが、だからといって、この恨みを忘れるくらいなら、死んだほうがマシです。 勝利や成功を手にすれば、私にも余裕が出てくるかもしれません。 過去の恨みも、その時の私から見れば、小さなことになるからです。 でも、今は勝利していません。 だから、恨みは忘れられません。 それでも、ある程度は人の力は借りなければいけません。 ……もう、私は、あまり待てません。 二十年前に、あることがきっかけで、心と一緒に体を病みました。 一日中、ある種の苦痛が体を襲います。安眠さえできません。 生きているだけで幸せとは、誰が言ったのでしょうか。 生きれば必ず苦痛という代金を支払わねばならないのに。 あと三十年後に勝利できると言われても、そこまで待てません。 今、ここで勝てなければ、また惨めさが積みあがるのです。 それくらいなら、せめて、一人でも多くの敵を血に染めて、自分も死んだほうがいい……そう思います。 苦痛を感じるたび、毎日この思いつめた気持ちが甦ってきます。 怒りを思い出すと、指先が震えだしさえします……目の前に、私を脅かす敵がいなくても、です。声もかすれ、言葉も思いつかなくなります。 それでも、一度納得できる成功を収めれば、惨めさを拭うことができれば、安眠できるようになる気がするのです。 しかしながら、勝利の最大の障害が、私自身の目的、憎しみのようなのです。 どこかで心に鍵がかかっていて…… 例えば、昔は好きだった音楽も、今では人前で演奏することはありません。 私に対して無関心だったり、敵意を抱いている連中に、私の真心を届けてどうしようというのでしょうか。 とにかく、どうあっても、自分と他人とを問わず、許せないものは許せないのです。 しかし、幸せになる人というのは、普通は、心から他人の幸せを願える人なのでしょう。 私の限られた個人の力の範囲内で、 ・怒りから解き放たれる方法があるのならそれを ・なければ、仕事に差し支えないよう、表面的にでも好ましい関係を築く手段を 教えてください。 (仕事仕事、と言っていますが、少なくとも、社会で仕事をする限り、善意に基づいて、社会に好ましいものを提供することで利益を得よう、というスタンスで動くつもりでいます。儲かるなら何でもいい、などとは、あまり考えていません) でも、そんなものはない、というのなら、それはそれでおっしゃっていただいて結構です。 その時は、このまま成功を目指して、それでダメなら、あとは流せるだけの血を流して、自分も死んでいくだけのことです……。 よろしくお願い致します。
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- ka28mi
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No.2,6,11で回答した者です。 たびたび申し訳ありません。おそらく、これが最後になると思いますので、もう少しだけお付き合いください。 >社会はメンバーによって成り立っているので~やめようとする人間には、罰を下す面がある 仰る通りだと思います。 しかし、一方では、ある社会に所属していることで、別の社会からのマイナス評価を受ける場合もあります。 一つ間違えれば詐欺となるような会社にお勤めの方は、周辺から「あの会社に勤めている人」という色眼鏡で見られます。 同じ会社内でも、自分が親しく付き合う人のタイプで自分自身も測られます。向上心に欠ける人たちと親しくしていれば、自分自身には向上心があっても、直接関わらない人からは「向上心に欠ける」とレッテルを貼られます。 社会的モラルが低い人間と付き合っていれば、自分自身も社会的モラルが低いと見られます。 理不尽なようにも思いますが、親しくもない相手の内面までを判別する力が人間にない以上、やむを得ない話だと思っています。 つまるところ、一つの社会に帰属し続けようと、離れようと、なんらかのデメリットは必ず負っているものだと思うのです。 それならば、その社会に帰属していることが自分に及ぼすメリットとデメリットを秤にかけ、デメリットの方が大きい社会は切り捨てていこうと思っています。 そのために力を蓄えてから離れるのか、切り捨ててしまってから力を得ようとするのか、「ニワトリが先か卵が先か」といった問題になってしまいそうですね。 最後に、質問者さまの一番初めの問題「憎悪との付き合い方」ですが、私は質問者さまは既に解答をお持ちのように感じます。 もちろん、怒りや憎しみを感じさせる相手が周囲に存在するのに、その相手への憎悪を忘れることは不可能だと思います。しかし、質問者さまがお書きになった「お礼」を拝見していますと、決して「憎悪の奴隷」とは思えません。 私の回答は質問者さまの現状にはそぐわない部分、質問者さまに対して失礼な部分も多々あったと思います。しかし、質問者さまは一貫して、私の意見の同意できる部分は認め、異なる部分は穏やかにご説明をしてくださっています。 他の方へのお礼にしても、無差別なやつあたりは否定しておられますし、苦しんだ方のお悩みに対しては共感されていると感じました。 質問者さまは「真水を注ぐ相手に泥を浴びせる」人ではありません。もちろん、怒りや憎しみにとらわれている時に、八つ当たり的に善意に対して悪意的な反応をしてしまうことは、おありなのかもしれません。私自身も身に覚えがあるために正当化しているだけかもしれませんが、ある程度は誰にでもあることだと思います。 真水を注ぐ人が世間の不条理や辛さを何一つご存じないおめでたい人、自分自身も行っている不条理な行動を自覚しないお子さまであれば別ですが、普通の人間であれば「付き合いづらいところのある人だな」「難しい部分のある人だな」と思いはしても、「他人に泥を浴びせる人間だ」とは受け取らないでしょう。 質問者さまレベルで「他人に泥を浴びせる」と表現するのであれば、表現のしようがない毒を吐きだし続けている人間が掃いて捨てるほど存在すると思います。 あとは、質問者さまの思われる「力」を手に入れるだけですね。 これが一番難しくて、自分自身で見つけるしかないのでしょうけれど、なんとか「力」にたどり着かれることをお祈りします。
- oyajimomo
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少しだったら、分かるよ。私が思うに、自分より強い相手だったら、当たってみてもいいんじゃないかな。さすがに、血がどうのってなると、後々あなた自身が困るから、それはやめた方がいいと思う。私の話で悪いけど、自分がされて嫌な事って、人、特に後輩にはしないようにしようと思ってます。そして、嫌な事をする人って、可哀相な人だなって思うよ、だから自分もそうならない様になろうとするんだけど、どうかな?
お礼
回答ありがとうございます。 当たってみてもいい、とは「八つ当たりしていい」という意味でしょうか? 済みませんが、それはできません。 どうあれ、善意で自分に向き合う人間に、苦痛を向けることは、できかねることです。もっとも、だからこそ、憎しみは埋まってしまいやすいのです。他人に配慮しない子供のうち、或いは痛みの直後であれば、心を解放する余地もあるのでしょうが……。 他人を理由なく傷つけるのは、愚かで哀れな人間のすることだと。それがわかっていても、許せないことはあります。問題は、そこなのです。
- ka28mi
- ベストアンサー率41% (969/2315)
No.2および6で回答した者です。 質問者さまと私では、だいぶ人間性の方向が違うようです。私の方が薄情で悪どい人間ですね。 >義理とは本当に面倒なもの 私は、義理は切り捨ててしまいます。 金を貸しているなら、法的な債務は淡々と回収すれば良いですし、死ななきゃ遺産が手に入らないならば、相手が死んだ時に遺産だけ貰えばよい話。 どのみち、法治国家である日本では、法律上の扶養義務は捨てることができません。捨てることができるのは法で縛られない部分だけ。ならば、自分にとって都合の良いことは、法律で守られることにすれば良いと考えます。 遺産でもなく、法的な債務になってもいない「借金」など、相手が返してくれるのでしょうか?それを返してくれる相手ならば、たとえ腹立たしいこともあったとしても、心底悪い人間ではありませんよね。まぁ、私の性格では、憎い相手や嫌いな相手に金品を貸すこと自体しません。義理なんかより私の感情の方が大事です。 >社会が忌避する身分 確かに色々ありますね。ないことが理想だと思うのですが、なかなか現実の世界は理想通りにはいきませんから。 誰が見るかもわからないネット上ですから、質問者さまの個人的な事情をできるだけ書かないのは、当然のご配慮だと思います。 ただ「社会」とか「世界」というのは、一種の幻影だと思います。確かに存在はしているのだけれど、きちんと区切りができるわけでもなく、社会の意思とでも呼ぶしかないようなものがあるけれど、意思決定を行うアタマが存在しているわけでもない。ご自分の属する「社会」が、ご自分に合わないと思えば、よりマシな社会を探す方が良いと思うのです。 たとえば、朝鮮民族(韓国人、北朝鮮人、在日、帰化すべてを含めての意味で)は、日本では蔑視する人がいますよね。一方で最近では「韓流」として人気もありますが。 私は大阪生まれの大阪育ちなので、朝鮮の文化は子どもの時から身近なものでした。コリアンタウンもあるし、カルピやチヂミ、サムゲタンなどの韓国料理も日本人向けにアレンジしたものと本場物があるのが当然、チマチョゴリを着た朝鮮学校の生徒さんも着物を着る日本人と同じくらい存在するもの。 こういう「社会」でも、「朝鮮文化」を好み朝鮮民族の悪事はかばう人々、好きでも嫌いでもない悪く言えば無関心な人々、「朝鮮文化」を嫌いチマチョゴリの女の子に石を投げるような人々、と分かれます。 そして同じ考え方の人間がなぜか集まるのですね。類は友を呼ぶとはよく言ったものだと思います。意識して違う考え方に触れようとしない限り、人は自分の周囲の狭い「社会」を「全世界」が同じだと思ってしまうものでしょう。 質問者さまには失礼な言葉になることを承知で申し上げますが、周囲の環境は自分が作り出してもいるのです。少なくとも、その一部は自分から出たものです。 悪事を暴くにしても、暴き方と自己保身の方法を知らなければ、我が身に影響が及びます。私の感覚では、それは当然のことです。このあたりが質問者さまと比べて、自分が悪どいなぁ、と少し反省した点なのですけれど。弱さも無知も本人だけの責任ではありません。けれど本人の罪ではあるし、本人に何の責任もないとは言えないと思うのです。 人間、本当に最終的には「自分を殺す」か「他者を殺す」かだと思っています。物理的な意味でも比ゆ的な意味でも。質問者さまの仰る「殺人許可証」と同じものかもしれませんね。 私は、最終的には「他者を殺す」タイプの人間ですが、そこへ行きつくまでに「逃げる」という道、さらに前に「状態を改善する」という道があります。 できることならば、より手前の道を自分も選びたいし、質問者さまをはじめとする他者にも選んでいただきたいと思います。より手前で道を選択する方が、失うものは少なく、上手くいった場合には得るものが多く、上手くいかなかった場合にも次のチャンスが多いからです。質問者様もお分かりのとおり、自分か他者かを殺してしまえば先はなくなってしまいます。 >努力の結果が効率的な人と、そうでない人というのは、必ずいます。 仰るとおりです。 努力する自分自身に向いた方法というものもありますし、努力の対象にも向き不向きがあります。 私が何よりも大事だと思うのは、相手が尊重するに値するのか、尊重するほどではないけれど良い点も悪い点もある普通の人か、他人を利用するだけのクズか、を見極めることです。 私は40過ぎで、たいした経験もないのでしょうが、世間には「尊敬に値する」「他人を利用するだけのクズ」は、どちらも100人に2~3人しかいないように感じます。 たいていの人は誘惑があれば悪に走り、背を押してくれることがあれば善をなす、普通の人間だと思います。そして「普通の人間」はクズが傍にいると、クズに染まるのですよね。私自身も一時、非常に「困った人」と関わったことがありますので痛感しております。 「良心を持たない人たち」「平気でうそをつく人たち」という本をご存知でしょうか。後になって、これだー、とぞっとしました。これらの本には書かれていませんが、私自身の感覚でいうと、これらの異常人格者の傍にいると、物の考え方や受け取り方が伝染するのです。もちろん伝染しない本当の善人も存在するのでしょうが、一般的な人間は、こういう強力な毒には抵抗できないのだと思います。恐ろしいことに、伝染している時は自分が毒に染まっていると気づけないのですよ。離れられてはじめて分かります。 勝手な推測ですが質問者さまの周囲には、クズが存在し、周囲の人間を毒し続けているのだと思います。 こういったクズについては、切り捨てるしか方法がありませんよ。 そして普通の人に対しては、相手を信用して良い部分、信用してはいけない部分を見極めることでしょう。 変な例えになりますが、相手が金に不自由していない人なら1万2万の金を預けて買い物を頼むのもありでしょうが、パチンコや競馬が好きなのに金がなくてできない人に金を預けるのはバカだけです。そして、たとえ金に不自由していない人であっても、数百万や数千万という金を、なんのチェックもなしに任されれば魔が差す時が必ず来ます。 本題に戻りまして、「有効な技法」ですが、色々とビジネス書や啓発書が出ていますよね。 個人的な嗜好になりますが、とりあえずの手段として納得がいくのは、「ライフハック心理学」を基礎に置いた具体的な行為です。 ACのコマーシャルで「心遣い、思いやりは誰にでも見える」ってありましたよね。裏返せば「心遣い、思いやりとされている行為をすれば、心がある、思いがあると受け取られる」のです。お年寄りに席を譲っている人が、心の中で「年寄りが出歩くな」と思っていたところで、誰にもわからないのです。 こちらのブログが分かりやすいかもしれません。 http://kosstyle.blog16.fc2.com/blog-entry-1391.html そして自分の考えや相手の考えを整理するのにいいな、と思うのが「交流分析」です。本当は心理療法の一種なんですけれどね。意外と普通に使えます。それだけ病んだ人が多いのかもしれないと思うと、あまり楽しくはない話ですが。 ウィキペディアにも紹介されていますし、専門の方のHPも色々と存在します。いくつかご紹介します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E6%B5%81%E5%88%86%E6%9E%90 http://www.ops.dti.ne.jp/~iwh/kokoro/ta.htm http://www2.ocn.ne.jp/~oshima/ta.htm いずれも即効があるものではありません。 「今」の問題は過去の積み重ねでできており、過去をリセットする魔法の杖は存在しません。 これが、私が、できるだけ手前で改善する道を選びたいし選んで欲しいと思う最大の理由でもあります。 しかし、変えたいと思う心がある限り道は完全にはなくなっていないと思います。そして道を塞ぐものは自分に合わない、自分がなりたいとも思わない人たちであることが多いでしょう。 できるならば、そういった人たちと手を切って、あるいは少しでも離れて、「未来」を変える道に踏み出していただきたいものだと思います。
お礼
いろいろな考え方を紹介してくださり、ありがとうございます。 確かにおっしゃる通り、考え方の方向性が全然異なる者同士かもしれませんね。 ですが、 > 「今」の問題は過去の積み重ねでできており、過去をリセットする魔法の杖は存在しません。 これはまさしく、同意見です。 突き詰めると「因果」ということになりますね。全ての物事には原因があり、結果がある。そして、万事万物は常にあらゆるものと関係し続けているがゆえに、全世界の全てのものは区別し得ず、一体である。とすると、過去は常に一つの出来事であり続けたし、現在も、未来も、因果によって常に必然の結果を受け取り続ける。 残酷な発想です。しかし、そうとしか説明できません。憎悪が楽しいわけはないですが、憎悪が薄まるかどうかは、本人が今、どうしようと理屈で考えても、どうにかなるものでもありません。意志の力は運命を変えるでしょうか? いいえ、意志と運命は不可分でしょう。私達は、神の手の指先に過ぎません。 ただ、よい人との繋がりは、状況を一変させるのによい処方箋たり得るかもしれません。現実的な案だと思います。 実は先日、ある芸事の達人の方にお会いする機会がありました。私などとはまったく身分違い(但し、本当にどれだけ身分が違うかは、最後に知ったのですが)なので、ほとんど言葉を交わすこともなく、後ろでじっと見ていただけなのですが、驚いたことに、身振りや仕草、表情が、途方もなく美しいのです。優しさ、厳しさ、我慢強さ、繊細さ、知性、気品……そういうものが、滲み出てくるようでした。 これが貴婦人というものか、と内心思ったものです。この感銘は、昔、外国で美しい風景を見た時と似ています。そこは海辺で、水が真っ青、この上なく美しく感じたものです。で、たまたまそこに水着姿の女性が寝そべっていたのですが、申し訳ないですが、ブタの死骸にしか見えませんでした。普通なら、私の視線が集中していてもおかしくなかったのですが……これほどにも、本当に美しいものは、心のありようを変えてしまう力があるのかもしれません。 だから、私は内心で、もしこういう人がすぐ近くにいる状態で日々を過ごせば、或いは自分は別人になってもおかしくないな、と思ったものです。 問題は、そんな人がなかなかいないこと、いても縁が薄いこと、でしょうが……。 > ご自分の属する「社会」が、ご自分に合わないと思えば、よりマシな社会を探す方が良い これは同意しますが、難しくもありますね。 日本が嫌いだからとアメリカやカナダに移民して暮らすとしても、案外難しかったりします。英語の壁を乗り越えても、たいてい、移民一世というのは、孤独な生き方を強いられるものですから。 会社を辞める、転職するというのも、そうです。やってみれば案外難しくもなかったですが、やる前には、随分勇気がいるものです。そして、転職は繰り返せば、悪い意味でマークを残してしまいます……。 社会には、いい意味でも悪い意味でも、求心力があります。いい意味とは、社会の恩恵であり、悪い意味とは、社会の罰です。社会はメンバーによって成り立っているので、常に仲間を集めようとします。だから、やめようとする人間には、罰を下す面があるのです。 宇宙ロケットが火星の引力圏に到達するためには、地球の引力を振り切って飛び上がる必要があるのと同じように、社会から別の社会へ飛び立つには、やはり力が必要だと思うのです。その意味で、やはり私が目指すものと、やるべきことは、大きくずれてはいない気もします。 やはり、何より物事がうまくいくこと、これが一番大切なのでしょうね。力があれば。そう思います。
- 07033843
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早速のお礼有難うございます。 困りましたね…、また少し誤解されてしまいましたね(汗、笑) 故郷が良かった、という例え、駄目でしたねえ。元気づけるつもりで書いた文章が落ち込ませてしまったようです。 これは・・・ですね、住みやすかったというのは、全てを投げ打って行った地方より住みやすかっただけですね。。。 不幸自慢・・・・あまり好きではないですが、私が何故そのように書いたか、伝えますね。 地方に引っ越した私には、故郷よりも地獄が待っていたのです。 変な男性に(ストーカーとは別の人です)引っかかりましてね、そこでまあ・・・営業トークの上手な方でしたが、すぐに引越しなんて考えてなかったんですけど、焦らせられて、「あなたは 子宮筋腫になっているかもしれないよ。このままその状態で働いたら、下半身不随になるか、一生働けなくなるよ、早く楽させてあげるからこっちにおいで」 と毎日のように電話がありました。 確かに私も体が弱く、当時は20代なのに五十肩みたいになってて全身が筋肉痛でした。 私は彼の言葉に焦りました。 病院に行って検査するよりも 「自分は日本医科大学の名誉教授に教えて貰ったんだ」とよく言ってまして体の事は相当詳しかったのです。 そのまんま信じてしまい、当時家族とも上手く行ってなかったので、どうにでもなれ、今よりましで、この体を休ませてくれるのなら誰だっていい。この場から立ち去ろうと決意して、本当はもっと故郷にいて友達に別れを告げた後 行く予定がですね、その男が毎日電話してきて 焦らせ、、一刻も早くというので・・・・突如私は21の時から家を出てますから、荷物を整理し彼の元に飛びました。 その前には、「悪いんだけど、すぐ返すから10万貸してくれない?」と言われていたので、これから結婚するかもしれない人と付き合って行くのだし、何の疑いもなしに良いよと言ってお金を貸したりしてました。 今考えても馬鹿です。。。 そうこうしまして、地方には行ったものの、、、私に待っていたのは地獄でした。 彼は私が引っ越してすぐに仕事を辞めてしまったのです。 「これからどうするの? 私は働けないよ。」と言うと「大丈夫だって」 の一言でした。 私は相当疲れが溜まっていたので、二ヶ月くらい寝たきりでした。その事が気に入らないのか、彼の態度が急変して行きます。 暴言の嵐です。 最初から体が悪い事は知ってて呼んだのに 私が仕事は?と聞くと、「いちいちうるせえ、判ってるよ。神様のつもりか。」と言って家を出て行く始末。 私はその時初めて本性を知りました。彼がやくざに見えました。 彼は独占欲が強く、気に入らない事があると物に当たって私をびびらせてました。あと右も左も判らぬところに(車がないと身動きがとれない田舎です。私は運転できません) 一人置き去りにしたり、 誰にも会せてももらえず、ほぼ監禁状態。 どこに行くにも彼がいないといけないので、買い物、病院、全て彼と一緒でした。働かないので家でも一緒です。 私の貯金が底をついて来てしまって お金もないので、電話もかけられないですし、何も買えなくなりました。 あとで判った事ですが(人づてで) 彼には自己破産しかねないほどの借金があったようです。 付き合う時には何も言いませんでした。 一緒に暮らして家を建てようねと言ってました。彼は私が苦しんでいても 「大丈夫」の一言も発しない人でした。 私が病弱だったためにですが・・・変な話ですが、相手が出来ませんでした(その気もうせてました)。そんな時、風俗のチラシを見つけてしまって、もう絶句でした。 そこから私は6っヶ月間、ショックのあまり、何も(水も)食べれなくなり、拒食症になり、文字通り生死の境をさ迷いました。今でも生きているのが不思議です。 別れる最後の方は働いてくれてましたが、それでも私には一円も持たせてくれず、あげく私の荷物をまだローンが残っている高価なものまで 売りつけて来て、お金に代えてました。 全てがボロボロになりました。 それから8年経ちますが、未だにあの男の恐怖から抜け出せず、パニックになります。 食事もやっと食べられるようになり、今は元の体重に何とか戻しました。 つまるところですね、命からがら逃げて来たわけです。しかし、故郷に帰った死にかけの私を待っていたのは、両親と姉の罵倒の嵐でした。 「ほら、見ろ、おまえがそんなところに行くからだ」 少し姉等に口答えすると 「出て行ってもいいんだぞ。今すぐ出て行け。」と寝たきりの私に怒鳴ってました。それでもまだ身内の方がましでした。 ご飯をくれるので(食べれませんが)。 父には病院に行って検査をしたいから、頭を下げてお金を出して欲しいと言うと 「おまえには これまでに投資したからな・・・」 というだけで病院にも行かせて貰えませんでした。 実家には9ヶ月だけお世話になりましたが、その後はまた家を放り出され、一人暮らしをしました。 これは 一部ですけどね。 まあ・・・・こういった感じです。笑えないでしょう。。。。? 本当にこれは私の人生でごくごく一部の苦労であります。他に言うときりがないのです。 人には話しません。信じて貰えませんから。 旧約聖書の拷問は知りませんが、魔女狩りの拷問は知っています。 私は家族にも彼らにも復讐はしていません。 画家で講師だった人には学校に連絡しましたが・・・・。 母親はもっと酷い事をしています。10年以上彼をかばい、何十万もする絵を買って、家に飾っているのです。気色悪いですよね。 私は怒りが収まらず、母が死んだらその絵を ナイフで切り刻んでやりたいです。 私が最も嫌がるだろう事を姉と共同で 今もやってくるのです。 人って本当におぞましいです。弱者を狩る事がきっと趣味みたいになってる人がいます。 >思うに、行き着くところ・・・・・ はい、これはそのとおりだと思います。 私も彼に話した事ありますよ。でもこのザマです。 だから人に話すという事はお勧めしないと言いました。 放置どころか、攻撃までされてますから。所詮他人の不幸は蜜の味なのでしょうね。 自分は痛くも痒くもないのですから。ですから私は他人への理解は諦めてますし、人には話せません。 スーツの例の意味は判ります。 しかし・・・何故汚物まみれになっているのですか?最初から。これは泥等を投げつけられて・・・と言う解釈で宜しいでしょうか。どうしてこれを着用するのが絶対なのですか? あますところ、心の傷や怒り等は人の目には見えないと思うので、気付かれないふりをしていれば(強がっているふり) 判らないものだとも思えますけど・・・・。 人にその汚い服装が見られてしまっているという設定はどうしてなのでしょうか。。。。 幼少期の事に絞って下さったのですね。しかし、あまりにも簡単過ぎて・・・・イメージが。。。両親が離婚しましたか・・・・。私はそれが羨ましいです。私の両親は離婚してません。 家族がバラバラになれば良かったのにと思う事もありました。私だけ疎外されてたからですけどね。 親は子供を生んだ限り、養うのは当たり前です。それが出来なきゃ作るなと言いたいです。責任もとれず、快楽にふけったくせに、育てられない、、、のでは育児放棄です。 私もそうされました。 私の家庭も平等ではありません。 姉は一流の大学(超一流ではありません)を出て両親の希望を叶えています。 今も財産を食いつぶしていますが、お嬢様きどり。実家に入り浸り。結婚もしていません。 かたや私はど貧民。大学は行きましたが、親の面子で行ったまでです。やりたかった事ではありません。 両親が嫌う趣味を楽しみに生きているので、憂さ晴らしのターゲットです。 最近私も結婚した方が良い年になりましたから、父からは、「早く結婚しろ」と言われます。質問者さんと同じで体が弱いですからね。厄介祓いしたいのでしょう。 お見合いも良いところのお坊ちゃんのお見合いです。 窮屈ですね。 私も質問者さんと似たような境遇ですよ。 しかし、私は負けません。ここで折れたらほくそ笑ますよね? 見返したいです。 何だか一緒の事言ってますね(笑) ぐうの音も出せぬほど。 父母はだんだん年をとって行きます。どんなに病弱でもいつしかは私の方が強くなる時が来るでしょう。。。それまで私が生きていればの事ですが。 果たしてその時は相手の番です。 頭を下げますかね? いいえ、下げられますかね? どんな行いにも必ず報いは来ると思います。 私は相手が下げようが下げまいが、どうするかはその時決めます。 あっさり死んで貰っては困るのですから。 長くなりましたが 一つお礼を言っておきます。 私の心の中の悪魔、本当の気持ちを思い出させて貰いました。有難うございます。 私もまだまだ火種がくすぶっていますね。
お礼
回答ありがとうございます。 落ち込むことはないので、ご安心ください。どのようなご意見であれ、それは意見です。なるべく冷静に見ようとしています。 にしても、ひどい男性に、よくもここまで立て続けに出会えるものですね。 傷口に塩をすりこむような言葉で申し訳ございませんが、この人は、完全に悪質なヒモですね。男性として不思議なのですが、よくこんなのについていく女性がいるものだと……世に言う「非モテ」人生をまっすぐ進む私(過去に彼女がいたことはなかったわけではないですが……男性に口説かれる女性の存在とは、私にとっては都市伝説と大差ないくらいですから……あ、大袈裟でしたね、ここは笑うところです)からすると、奇妙と言ってもいいくらいです。 思うに、人が健全に育てるかどうかは、やはりそれまで受けた愛情の量によるのでしょう。 似たような事例が、私の傍にもあります。私の兄の一人は、人の愛情と悪意(表面的な優しさ)の見分けがつかない点で、とてもそっくりに感じました。小さい頃から学校の成績も悪く、私と大差ないくらい自尊心が低い彼は、両親の離婚前には、父親の写真をこっそりズタズタにしたり、昆虫を捕まえてうさばらしに惨殺したり……で、離婚後はとなると、恐ろしい父親が傍にいないので、ついにタガが外れてしまいました。薬物に手を出し、万引きを覚え……そして、悪い友人達を作りました。 ひどいものでしたよ。飲めもしないのに酒を浴びるように飲んできて、ボロボロになって帰宅し、吐く。寝タバコの癖が付き、一度は布団を燃やしました。でも、そんなのはまだ序の口で、ある時などは、貯金が尽きるまで、悪友に持ち上げられて散財しまくり、それが済んだら今度は、彼らに袋叩きにされたらしく、全身打撲傷だらけで戻ってきました。カモにされたわけです。 そんな目にあっていながら、それでも彼は「更生」しませんでした。帰る場所といっても、忌まわしい家族以外にない、それくらいなら、自分にたかるチンピラどものほうが、まだマシだったのです。 ……こんなのと一緒にされたくない、とおっしゃるかもしれませんが、要は、健全な愛情を受けて育った人間でないと、こういうのに引っかかりやすくなる、ということです。 > スーツの例の意味は判ります。 しかし・・・何故汚物まみれになっているのですか?最初から。これは泥等を投げつけられて・・・と言う解釈で宜しいでしょうか。どうしてこれを着用するのが絶対なのですか? 詳細な事実は誰も知らなくても、臭いならばわかるものです。でなければ、不幸せなあなたに、ハゲタカのようなヒモ男が次々現れるわけがないじゃないですか。 それに、屈辱の記憶は、拭いがたいものです。お伺いしますが、今、一人暮らししている部屋に、ご家族の写真はおありですか? そして、もし写真と写真立てをもらったら、家族の写真を飾りたいと思いますか? 冗談じゃないと思います。顔を見るだけで、そこにいることを思い出すだけで、ドス黒い感情が甦ってくるでしょう? だから、問題を克服するまでは、汚物まみれのスーツを着ているのと同じなのです。 > あまりにも簡単過ぎて・・・・イメージが 血まみれになるまでぶたれたとか、そういう個別の、珍しくもなんともない例をあげてもいいのですが……。 > 父母はだんだん年をとって行きます。どんなに病弱でもいつしかは私の方が強くなる時が来るでしょう。 千一夜物語の中で、ある人が言いました。 「敵より一日でも長く生き延びたものは、復讐を成し遂げたものなのだ」 相手が年老いて、動けなくなれば、復讐は可能でしょう。現に、私は母が、父方の祖母に復讐しているのを知っていました(巻き込まれないために、自分は無視を決め込んでいましたけどね)。人間なんて、くだらないものですね、まったく。命の何が大切で、どこが尊いのでしょう。 > 一つお礼を言っておきます。 私の心の中の悪魔、本当の気持ちを思い出させて貰いました。 では、お役に立てるよう、もう一つだけ。 またもや千一夜物語のお話です。 妃に浮気され、王都を捨てて旅に出たシャーリアールは、カスピ海のほとりで、魔神が人間の女を連れてやってきて、居眠りするのを見ました。そして、あろうことかこの人間の女は浮気魔で、恐ろしい化け物である夫を出し抜いて、シャーリアールに浮気相手を務めさせるのです。自分より強い……人間の王より、超自然の力を持つ魔神のほうが……彼でさえ、不実による苦しみからは自由ではいられないと。 怒り狂った彼は、王都に帰って妃を処刑しましたが、憎悪は収まりません。それで毎晩、新たに若い娘を妻としては、翌朝処刑することにしました。これに心を痛めた大臣は、娘であるシェラザードに相談し、彼女は自ら進んで王妃になります。 有名な、千一夜物語の出だしのところですね。この後、彼女は毎晩、王様を楽しませるお話をして諸兄を免れ、改心させたということになっています。でも、本当はこれは、少しだけ間違っています。 シェラザードが処刑されずに済んだのは、王に愛されたからではなく、実は憎まれていたからだとは、あまり知られていないのです。彼女は、最初の夜に、息子を商人に殺された魔神の物語を話し、次に壷に閉じ込められた魔神の話をしました。どちらも、恨みを抱えたシャーリアールを、別のもので喩えたお話です。彼も馬鹿ではないので、「あてつけ」にこんな話をされていると気付いて、小生意気な娘に対する憎悪を新たにするのです。 憎んでいるからといって、簡単に殺せるわけではありません。むしろ憎むからこそ、殺し方には気を使うのです。あてつけをされたから殺す、では、彼の自尊心が許しません。理由を見つけてから殺してやろう、と。こうしてシェラザードは、自分の延命を図って、王様に改心させる時間を稼ぐと同時に、心の傷口を開いて、憎悪を思い出させることで、心の治療の第一歩を踏み出したわけです。 私は、憎しみにとらわれてはいますが、それをそれほど否定的にはとらえていません。ただ、問題があるというだけです。そして、激しく憎んでいる間であればこそ、自由になる手立ても見つかるのかもしれないとも、考えています。
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森林の例えとても判りやすかったです。そういった考え方もあるのですね。 憎悪を火災に捉えるとそうかもしれません。やっとイメージが出来ました。 つまり、ずっと火種が消えていない、もしくは今も燃えているのですね。やはり、それは命を燃やしている事と同じようですね。 すみません、私の書き方が悪かったのか、少々誤解をされて捉えられていました。 「死を持って復讐」 この死というのはですね、自殺です。もちろん他殺という場合(死刑になる)という事を踏まえれば、おっしゃるとおりかもしれません。 自分が死ぬ前に相手を殺すという意味でしょうか。。。。 私には判りかねますが、(殺してやりたいと思っても実行にはうつしません。今は殺すという殺戮の言葉を私は嫌います) よほどの事がない限りその様な境地至らないかとは思いました。それを何年も心に置いていては森林も焼け野原ですね。 相手の家族が本当に不幸になればいい、と思ってらっしゃる・・・・気持ちは判ります。その不幸を自ら下したいというのですか? 私を裏切った人には死ぬよりも もっと苦痛な目に合って欲しいと思った事があります。彼は画家でした。 右手がもげるような事故にあえばいい。と思った事は何度もあります。 私は 相手には苦労すればいい、私と同じだけ苦しめばよいと思った事はありますが、死を持ってというまでではありません。 ある意味それは、あっけなさ過ぎます。そして懺悔の間もなく、後悔もできません。ある意味私の方が残虐的かと思います。 殺すより拷問派でした。 今はその気持ちも薄れ、もう気持ち悪い、仕方ない、天にまかせよう、とそちらには気が向かなくなってます(復讐には) 今となってみれば、どうでも良い事。過去になってます。 人を呪う事が結構疲れました。 相手が不幸になっても私が幸せになるとは限らないからです。 相手がどうなろうと 私は私ですし、関係ない事と割り切りました。 成功は煩わしい世間から遠ざかる・・・・つまるところこれも逃避の一種ですよね。逃避するにもお金がいると思っていらっしゃる。 海外に行きたいとのご意見がありましたが・・・・ 復讐したい相手から逃避と同時に社会とも遠ざかりたい。 誰とも接したくないか、誰も自分を知らない世界に行きたいという事でしょうかね・・・・。 私も全てから逃れたいために地方に逃げた事があります。 全てを棄てて・・・しかし結局戻って来ました。 故郷がとても住みやすかったです。 今は自分の故郷でしか住みたくはありません。別のところでは不安です。 怒りを相手にぶつけられたら・・・・のところでも説明が少なかったのか語弊があります。このぶつけられた相手というのはですね、質問者さんのような関係のない人ではなく、親しい人、愛する人という意味です。 私だって知らない人から 泥を投げつけられたら「オイっ」 と思います。 癌の例えがいまいち理解ができませんでした(汗)。惨めの例えでは、私は着飾らない性分なので、こちらも そうなのかな・・・・よく判らないなあと思いました。 数百万の服を身につけても嬉しくはないので、(あまり物欲がないのかな) 特別な日でも普段と同じ格好をしているタイプですね。 結構 姉には ズタボロの格好で演奏会くるのは止めてね、とは言われましたが・・・・。 あとの文章は理解できました。 そこで また疑問が残ります。 お答えしたくなければ結構ですが・・・・、 私には想像がつかないのです。そこまでの怒りの感情がですね。。。。 お答えできる範囲で 結構ですので、周囲の方にどういった事をされたのですか? 質問者さんのご意見は自分にとっても勉強になります。 私自身も自分以上の怒りのエネルギーの持ち主を見た事がありませんでしたので、とても興味深いのです。 これは・・・・もしかしたら自分をも 上回るのかなとも思ったりします。(ここには書いていませんが、私にも不条理な事は数え切れないくらいありました)
お礼
回答ありがとうございます。 主としてわかりにくい、という部分について、お答えしていきますね。 >殺すより拷問派でした 両方できれば理想ですね。 旧約聖書には、残酷な復讐の例がありました。高台に捕虜となった父王を立たせ、階下にその王子達を整列させ、父親の目の前で次々処刑します。そして、父が息子達の死を見届けたら、刃物で彼の眼球を抉り取り、牢獄に死ぬまで閉じ込めるのです。 思うに、行き着くところまで行き着いた憎悪というのは、自分の生をも否定するところまで、行き着くように思われます。自分が今生きていて、今後生きているうちに出会うであろう全ての幸福を足し算しても、なお、既に味わった苦痛とその恨みの総量に届かないと感じている場合、自滅的な行動であっても、復讐に走るのだと思います。 私にはまだ、執行猶予を持たせる余裕があるので、憎悪と言っても、大したレベルではないのかもしれません。とはいえ、もう何年も生き続けたいとは思っていませんが。 > 怒りを相手にぶつけられたら・・・・ > 親しい人、愛する人という意味です。 そこは理解しています。 で、私には、本当の意味で親しい人、愛する人は、いないようです。 果たして、私の憎悪を目にしたら、どうするか? こんな私でも、以前はお付き合いした女性も、いないでもなかったのですよ。でも、私のそういう面については、私自身の悩みの部分として、(怒鳴ったり、ましてや八つ当たりなどはせず)淡々と説明するだけでも、話そのものを聞こうとはしませんでしたね。そんなものです。彼女に関心があったのは、私の中の、彼女にとって有益な部分だけでしょうから。別に責める気持ちはありません。それが普通だと思っていますから。 > 惨めの例えでは、私は着飾らない性分なので、(中略)よく判らないなあ ええと、では、困りましたね。 仕事で特定のスーツを着用しなければいけないのに、それが汚物まみれになっている。でも、それを着用していくのは絶対で、だから現場では、その汚くて誰もが顔をしかめるようなものを、身に着けて立っていなければいけない……ここまで言えば、少しはイメージできますでしょうか。 >お答えできる範囲で 結構ですので、周囲の方にどういった事をされたのですか? 幼少時のことに絞って簡単に言うと ・家庭内における肉体的暴力 ・家庭内における性的暴力 ・社会的地位に伴う疎外 ・社会的地位に伴う肉体的暴力 私が中学生になり、口元にヒゲが生え始め、少年の尻の魅力が薄れる頃、家庭内暴力は激化して、両親は離婚しました。その後の父は、近所の家の奥さんなどに手を出しまくっては、その先々で家庭を崩壊させまくっていましたね。でも、母も善良だったとは思っていません。恨みがあったとはいえ、障害で言葉も話せない、身動きもできない祖母に意趣返し(離婚前)していたのですから。そして、私を含む子供達は、自分の保身のために、他人の不幸を見過ごし、自分より強い相手に媚びて生きていました。 家の中は常に苦痛に満ちていましたし、家の外でも、本当の友人といえる人間がいなかったので、あの頃の私にとっては、世界は文字通り、全て敵に見えていました。でも、一応家族から養われていたのでは、とおっしゃると思うので、子供時代のやり取りの一部を抜粋します。 私「(兄弟なのだから)平等じゃないの?」 親「何をバカなことを言っている」 封建的な環境だったので、長男は一家の幹、大事な命ですが、それ以外はスペアに過ぎません。はっきり命に序列をつけられて、お前は優先順位が、値打ちが低いと明言されて、果たしてその社会(家庭)に所属する喜びを感じるものでしょうか。それを言うなら、奴隷だって社会の一員ではあるのですから。 そんな私の兄も、いい年齢なのに結婚もせず、従って子供も持たず、加えて年齢相応の収入もない状況です。となると、そこそこ人並みの生活をしている私に、目をつけてこんなことを言うわけです。最後に父にあった時のやり取りの一部ですが、 私「(体が弱いので)長生きできないかもしれない」 父「じゃあ、早く結婚しろ」 子種を残す材料としての価値しか認めていないのでしょう。他にも「○×歳までに金持ちになったわけでもないし、お前の人生はもうダメだから、早く子供を残せ」とも言いました。これが「孫の顔が見たい」とかなら、まだしも……。 そういうわけで、私には、あなたの「故郷がとても住みやすかった」などと言えるような場所は、どこにもありません。 つまるところ、この世界には、私にとって、道徳的価値を持つものは、ほぼないのです。今のままの私に「命の尊さ」みたいな話をしても、多分、表面的な肯定しか得られないでしょう(表立ってそれを否定すれば、悪役になるだけだから、しませんが)。私が幸福を得ようとすれば、今のか細い健康の許容範囲内において、物理的な快楽を追求するほかない状況なのです。 これが、私にとっての、世界の景色です。
- 07033843
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NO4です。お礼文を見て気になった点がいくつかありましたので、質問させて頂きます。回答されたくなければ、NOで結構です。 質問の前に少し述べておいて置きたい事があります。実は私にも質問者さんと同じ考え、ありましたよ。私は末期の癌なのだ・・・・(心が) ぐらいに思ってましたし、治療法なんて見つからない。幸福なんて有り得るのか。自分を理解するものなんて・・・と思ってました。 しかし・・・・、ですよ、今は徐々に回復しています。これはですね、末期の癌などではなく、治るものなのです。確かに相当な怒りのエネルギーがあります。でもこれは癌、などではなく、怒り、悲しみ、孤独、喪失、などであり、悪でもなく、善でもなく、取り除かねばならぬものでもないのです。 癌は百害あって一理なしです。 怒りはどうでしょう? 憎悪はどうでしょう? 冷静に考えて見て下さい。 違いますよね? 怒りをパワーにして起き上がる人もいます。癌は末期になればほぼ今の時代は死ですよね。 恨みは自分から経たない限り、死には至りません。 何か間接的な(例えば人殺し)事、を加えれば死に至る事もあります。これが法律で言うところの死刑だと思います。しかし、この死刑も傍から見れば他人が下した結果だと思いがちですが、違います。これは自傷行為、自殺と同じなのです。 死を持って復讐。これは奴らがほくそ笑ますから(ここら辺はお判りでしょうが)しても仕方ありません。無意味です。 そこで、ですね、復讐と言いますのも 野心の事でしょうか? そいつらが上がってこれないほどの立場に上り詰めるという事で宜しいでしょうか。 つまり対抗心があるのですね? (上記の解釈を元に申します。)この事についてですが・・・・心に置き換えて下さい。質問者さんは自分を物、それ以下の価値判断を下している事になります。 地位や名誉も所詮は物ですし、人の評価であります。自分の評価ではありません。ですから、人の評価に一喜一憂し、辛い過去を振り返り、またしても憎悪が増幅するのです。これは私の経験から申し上げている事です。不愉快になられたのなら申し訳ないです。 自分自身を物扱いすると とても疲れます。何か付録がついていないと好きになれない・・・なってもらえない・・・・なんて孤独で寂しすぎます。 実はありのままの存在を受け入れて欲しいのではありませんか? 怖いですよね。その憎悪、好きな人が見た時・・・・。どうなるか・・・・。恐ろしいです。私も経験ありますから 相手が震えていた事も。 でもここでまた少し冷静になってください。どうでしょうか。質問者さんがもし相手が自分と同じだけの怒りの感情をぶつけて来たら、逃げますか? 答えはNOだと思います。(というかNOだと信じたいです。) ちなみに私はNOです。何故なら自分にもその感情があるからです。私はその人に敬意を表します。 何故なら、それ程心を開いてくれているという証拠だからです。 怒りは愛情の裏返しとよく言いますが、その事は、ある意味で当たっていると思います。愛情のない人間には怒りさえ覚えません。無視です。 相手に本当の自分を知った上で自分の価値を決めて貰えばいいと思います。去るならば・・・それまでの人間という事です。 きっとこれができないだろうと思いましたし、相手もいないとおっしゃっているので、先に述べた、寝る、他に八つ当たり、等の解決策を提案しました。これによって少しでも軽減され、なんとかコントロールできるようになれば、相手を選んで自分を出して見る。というのは如何でしょうか。 最初にカウンセラーに言うのはNGと書きましたが、これは撤回します。 カウンセラーはプロです。お金を払います。怒りをぶつけたとて危害を加えません。一番安全なやり方です。 溜まっているものを吐くのです。相手に理解を求めると増幅しますが、まずは理解をして欲しいという事を棄てて、吐くのです。 経験から言って 恥ずかしい、惨めだ、みっともないと思いでしょうが、溜めるよりは最高に良い方法だと思います。 癌ではなく毒だと思います。 イメージはできるだけ軽く持って下さい。 (難しいかもしれませんが) 悪玉でいっぱいになっているお腹を取り合えず、少しづつ吐いて、余裕を持たせる。その後善玉を入れる・・・・と言った感じです。 少しだけ 善玉を入れる隙間を作る事もできませんか? 結局はこれ以上悪くしない・・・という事だけが今できる最善の努力だと私は思うのです。しかし、止める事はできません。 しかし吐いてまた悪玉を増やさぬよう努力はできると思います。 質問に戻ります。 ※何を持って勝利と収めると解くのか。 ※何故癌だと決め付けるのですか? ※何故惨めだとお思いなのでしょうか。 ※弱い事はそんなに悪い事ですか? 皆強がっているように私は見えますが・・・。 ※怒りを何故 泥と表現しますか? ※弱者ってどういう意味でしょうか。 沢山並べてすみません。これらが理解しがたい部分でした。何と無くは判りますが・・・・何故そうなのかなと疑問に感じました。 あとお礼文を読んで私も質問者さんに納得、気付かされた事があります。有難うございます。 そうですね、幸せになって見返す、これは相手が自分の事を憎んでいる場合に限りですね。そうだと思います。私にも納得が行きました。ストンと降りました。こういう事だったのですね。 治療と言う言葉を使ってらっしゃるのが少し気になりました。 病気ではなく、誰にでもあるものだと思います。大きい小さいはあれど・・・・。感受性が強い、弱い、思いが強い弱いもあるでしょうし、これは治療ではなく、癒しが必要なのでは? と思いました。癒しも治療の一部だと思われるかもしれませんが・・・。 もっと深く掘り下げると 「肯定」 ではないでしょうか。。。 ソドムの話、私も興味ありました。そして人間なんて全ていなくなってしまえとも思った事もあります。 やはりそれは誰にも愛されていないという猜疑心からです。 裏を返せば 「誰も愛していない」 です。 「誰も信じていない」 ですよね。。。 これはきっと裏切られる事が日常のように起こり、いつしか他人に裏切られる前に裏切ろうとか離れようとか 傷つくのが怖くて自分から本当の愛情に逃げているだけという言い方もできるかもしれません。(経験からです。) 人って本当に嫌なところありますよね。。。しかし、嫌なところだけではないはずです。嫌な部分が多いかもしれません。でも100あるうち100が悪、 いますかね? もしかしたらそんな風に見える人も質問者さんのように悲劇に見舞われてそうならざるおえない理由があるのかもしれません。 そう思うと全てが 悪や、殺さなきゃいけない人間というわけではなくなると思います。 そりゃ中には 「コイツ死んだ方が世の中のためじゃん」と思う時あります。 何か意味を持ってこの世に生まれてきているのかなとも最近思えたりします。 悪役がいなければ、善役も際立ちませんし、(これは極端な事) 私には何か、意味があって今までの行いがあったとしか思えない事が多々あります。 災い転じて福となすでしたっけ。。。 気持ちが納得していないまま家庭を持ったら何をしでかすか判らない。 これは私にもあります。質問者さんは生真面目で責任感が強いのだと思います。 何をしでかすか判らないという事は、ある意味で相手に不安感があると思いますし、怒りの増幅を意味すると思います。そういう相手は選ばないに限ります。 駄目です。相手の事愛していませんし、愛されてもいません。 大分長くなりましたが・・・、最後に一つだけ。 直感は鋭い方ですか? もしそうだとすれば、直感に頼った事ありますか?自分の心に素直になって直感をあてにして見てもいいかもと思います。
お礼
何度もご意見をくださいまして、ありがとうございます。 >不愉快になられたのなら申し訳ない たとえそれが私にとって受け入れがたい考え方であるにせよ(そして私は意見をいただいても、それに従う責任はまったくありませんが)、どのような考えを述べても、それが失礼であったり、不当だったりすることはないと考えております。 おっしゃったことに対する意見と、質問に対してのお返事をさせていただきます。 >死を持って復讐。これは奴らがほくそ笑ますから(中略)無意味です 心を、一定の面積を有する森林に見立ててください。過去の不幸や怒りは、ここで発生した火災です。 被害があったとしても、すぐ消火して、ボヤを出した本人が、その分苗木を植えて修復すれば、問題は解決します(賠償)。 また、燃えた面積が小さければ、損失はありますが、それほど深刻に考える必要はなくなります(無視)。 ところが、鎮火する様子がまったくなく、火の勢いが森林全体に及びかねない場合は、延焼しそうな樹木を数本刈り倒して、迎え火をつけます(通常の復讐)。 では、更に火の勢いが強ければ、どうなりますか? 放置しておいても、火は敷地の外にあふれ出て、あらゆるものを燃やします(破滅的な復讐)。 火は、憎悪と同じく、消されなければ時間と共に大きくなります(規模が小さければ、自然鎮火するでしょう、これも心と似ています)。火災の規模が、自分自身以上の大きさになってしまったら、もうそれは、生きていても死んでいるのと大差ないのではないですか? だからこそ、命を投げ出して殺戮に走る人がいるのです。 「奴ら」が笑うというのなら、笑えないようにしてやればいいのです。奴らだけでなく、奴らの友人、家族、例えば、特にとりわけ大切な子供などが血にまみれたなら、彼らはどんな顔をするでしょう。だから、無意味とまでは思いません。非効率だとは思います。 >復讐と言いますのも 野心の事でしょうか >対抗心があるのですね? いいえ。 私が今、目指しているのは「無視」です。 2ヘクタールしかない敷地のうち、1ヘクタールが焼け野原になったら、私としては大損害です。しかし、私の所有地が、実は100ヘクタールもあったら? 私は、成功によって自分の森林を広げようとしています。しかし、焼け落ちた場所がそれで回復するわけではありません。 成功することで「見返す」というのは、「無視」できていない点で、確かに「復讐」に分類できるかもしれません。しかし、例えば私がお金持ちになって、それを加害者達が見つめたところで、どうとも思わない可能性もあります。加害者も私を憎んでいれば別ですが、さもなければ、私は世間にいる無数のお金持ちと一緒で、彼らの関心を引きません。それこそ、彼らに直接危害を加えることができる独裁者にでもなれば別ですが(なぜなら、彼らは報復を恐れて日々を過ごさなければならなくなり、その恐怖自体が復讐としての結果を生んでくれるため)、さもなければ、成功は直接的に復讐の役には立ちません。 だから、「対抗心」はありません。勿論、加害者の成功を目にすれば、それは私を不快にさせるでしょう。でも、自分がより大きな成功を収めても、彼らが不幸になるわけではないのです。彼らは、自分達なりの成功によって、自分達なりに幸せなのですから。 成功は、わずらわしい世事から遠ざかるのに役立ちます。例えば、お金がたくさんあれば、ストレスを溜めながら働く必要はなくなります。そういう意味で、今後の火災を予防する働きを示します。既に起きてしまった火災には、不愉快ながら目を閉じて、今後の火災の予防と、被害の相対的な低下を目指していこう、という、ある意味消極的なスタンスが、今の私の行動方針ではあります。 >質問者さんは自分を物 それは、ご指摘の通りです。 私の価値は、私の所有するものによって決まります。 お金をどれだけ持っているか、今現金はなくても、どれだけ稼ぐ能力があるか。友達は何人いるか。どれだけ健康か、または病弱か。要するに、どれだけ幸福になり、また他人から見た場合には幸福にしてもらえるだけの力があるか、不幸になる要因がどれだけあるかで、値打ちが決まると考えています。 私がお金持ちで、異性にもモテまくっていて、肉体的にも健康であれば、高い価値があります。逆に、お金もなく、孤独で、不健康ならば、それは値打ちが低いことになります。時として、その価値は、マイナスにさえなり得ると考えています。 実際、私達は社会でそうやって生きているではないですか。富裕であるとか、大企業に属しているとかであれば、価値を評価され、尊重される。貧しかったり、影響力のある背景を持たない場合には、軽視され、搾取される。私は他人だけモノ扱いはしません。公平にも、私自身さえ、他ならぬモノでしかないことは、わかっているつもりです。 だから、勝利し続けなければ、価値がプラスの状態を維持しなければ(広い森林を保てなければ)、ご指摘の通り、憎悪に身を焼かれることになります。 >相手が自分と同じだけの怒りの感情をぶつけて来たら、逃げますか? これについては、前科があります。 高校生の頃、とある町を旅していた時、神社の傍に老婆がいました。顔が溶け落ちているんじゃないかと思うほどの高齢で、その時には、薄情な孫夫婦の下で暮らしていました。彼女は、厄介者扱いされていることに苦しんでいました。そして、東京にいるはずの息子が来てくれれば、もっと大事にしてもらえるのではないかと語っていました。 正直に言います。私は話を聞くふりこそしましたが、「面倒だな」と思ったのです。彼女とは、何の縁もゆかりもありません。なぜ私がわざわざ、親身になって話をきいてやらねばならないのでしょう? ……でも、これが私を含めた、普通の人の考え方であり、反応であるのが、事実だと思います。いざとなれば、誰もがそんなものではないですか? 私は、自分のことで手一杯でした。 あと、私は八つ当たりが苦手です。その瞬間にすぐ、醒めてしまうのです。自分のわざとらしさに、嫌悪してしまうので。 では、質問に答えます。 ※何を持って勝利と収めると解くのか。 私の場合は、既に述べた通り、世事から自由になることです。新たな憎悪の原因を予防できるからです。具体的には、経済的成功がもっともわかりやすい形となるでしょう。 ※何故癌だと決め付けるのですか? これは答えにくいです。癌とは、比喩ですから。 但し、癌……悪性新生物という表現は、あまり外れていないと思います。本来、人は自分の幸福のために様々な能力を伸ばすわけですが、いったん憎悪の世界に入ると、その分の資源が、敵との戦いのために費やされるようになります。早く決着をつけないと、それはどんどんエスカレートするので、自分が自分ではないものに置き換わってしまいます。 ※何故惨めだとお思いなのでしょうか。 復讐を要するほどの大きな損失を蒙りながら、それを埋め合わせることも、今後の損失を予防することもできないからです。ちょっと想像してみてください。特別な祭日に身につける、百万円もする素敵なドレスがあったとします。当日はみんな、喜んで着飾って歩くのです。でも、あなただけ、そのドレスがズタズタにされていたらどうでしょう? あなたはそれを着なければいけません。周囲の人は、もしかすると、案外あなたには注意を向けないかもしれません。でも、あなた自身は、いたたまれないはずです。 ※弱い事はそんなに悪い事ですか? 皆強がっているように私は見えますが・・・。 悪いかどうかはともかく、とても苦しいことです。常に脅威にさらされ続けるからです。だからこそ、皆強がっているのではないでしょうか。また今の日本の若者がそうであるように、何とか属する社会からはじき出されまいと振舞うのも、そうした強がりの一種だと、私は思います。自分自身一人の強さでは、身を守れないから、社会の後ろ盾を要するのです。 ※怒りを何故 泥と表現しますか? 泥を浴びせるものに、真水を注ぐものはいない……泥というのは、その人の気持ちを汚すもので、真水は洗い清めるものです。 憎悪にかられた人は、たいていは視野狭窄に陥ります(潜在的な恐怖が、視界を狭め、効率化を強制するのです)。だから、人から優しくされても、余程気をつけて、落ち着いて考えないと、その善意には気付きにくくなっています。だから、しばしば善意に対して、悪意で応じるような過ちを犯しかねません。これが「泥」です。 こんな「泥」を浴びたら、普通、人は遠ざかろうとします。浴びなくても、泥を浴びそうだと思うだけで、やっぱり距離を取るでしょう。 では、その泥を浴びながら、全ての泥を洗い落とすまで、真水、即ち善意や愛情を注ぎ続けるような人が、いるものでしょうか? 私は、架空の世界以外では、そんな人は見たことがありません。 ※弱者ってどういう意味でしょうか。 見たままです。 脅威に対して、十分な防御を行えなければ、即ち弱者です。 だから、ある場所で強者でも、別の場所では弱者たり得ます。 例えば私やあなたが、今すぐソマリアの紛争地域に送り込まれたら、圧倒的な弱者でしょう。銃器の扱いに手馴れた遊牧民相手に、なすすべはありません。どんなひどい扱いを受けても、惨めに下を向いて、恨みを溜めるしかないのです。しかし、国連軍に救助されて日本に戻ると、私達には正業があり、豊かな生活があります。ニュースを見ると、ソマリアの飢饉が報じられています。既に私達は、銃を手にした山賊達を無視できるのです。 長くなりましたら、お尋ねいただいたことには、これでお答えできているでしょうか?
- 07033843
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NO4です。お礼文読みました。 私は数年前に怒りが爆発して、自分の感情を制御できない時がありました。先の文書にも書いたとおり、我を忘れ、憎しみに駆られ、怒りや憎悪を糧にしていき続けて来ました。しかし、そうなってみて、気づくと自分の心や体のSOSサインまで見逃してしまい、ついには倒れてしまって入院しました。 憎悪にかられるという事は、もしかしたら・・・・どこかに自分の事を嘆いてくれるかもしれない人を悲しませる事になるやもしれないのです。 その時は、自分なんかいなくなったって誰も悲しまないだろう・・・・なんて思ってたりしてましたが、実は本当に悲しんでいる人物が一人だけいたんですね。。。 それは・・・・・本当の自分です。 本当の自分は常に嘆き悲しんでいたのです。それに気付いた時は涙が止まりませんでした。 「本当は生きたいと思っている」 自分の心に耳を傾ける事は大変辛い事です。しかし、自分を本当に必要としているのは他人ではなく、自分なのだと気付きました。「まだ、生きたい。幸せになりたい」 と私は思っていたのです。それは入院して死の予感がして初めて気付いた事です。本当に死に直面すると自分の気持ちに気付ける事ができました。 自殺を選ばないのはまだ生きたいからです。 少しでも幸せを感じてから死にたいからです。 そして何よりも命は無限ではなく、限りがあるのだからどうせ生きるなら、人を憎む事より愛する時間を増やしたいなと思いました。 ある人が憎悪の塊の私にこう言いました。 「復讐するってどういう事だか判る?」 「相手を憎んだり、痛めつけたりする事ではないんだよ」 「貴方が幸せになって生きる事。そして憎しみを捨てる事だ」 相手が一番嫌がる事は 私が幸せそうにしている事なのだ・・・・と言うのです。 難しい事ですね。。。もし私が幸せだったとしても相手には見て欲しくもないですが・・・・。 この意見は参考になるかどうかは判りませんが、一応回答しておきます。 つまり 幸せにさえなってしまえば、相手の事などどうでも良くなるという事が言いたかったのでしょう。 この事を踏まえて先の回答をしました。 昔は逃げる事を嫌い、逃避する自分を責めたりしてましたが、自分を責めず、ただひたすら幸せになる努力をする・・・・ そのためには 逃避だろうが、誰にどう思われようが、自分さえいればいい〔自分さえ自分の事を理解してればいい〕と少し思えるようになりました。 お金があったら・・・・と思う事は山ほどです。でも私はないなりに小さな幸せを見つけて行くつもりです。 質問者さんがもし、誰かを好きになったりする事がこの先あったのなら、その方が憎悪に駆られていると悲しいと思いますし、何より近づけない、自分の入る隙間がないとお思いになられると思います。 少なくとも誰かにそう思わせているかもしれません。 憎悪は消えないまでも 憎悪と同じだけの幸福が手に入れば、和らぎ、プラスマイナスがなくなるかもしれません。 長い道のりになるかもしれませんが、、焦らず、自分のペースで進まれる事をと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 ご意見として、結論としては、私も特に異論はございません。結局、古傷が疼くのは、今現在の幸福が小さく、喪失したものを到底埋め合わせることができないからでしょう。だから、私も勝利だけを目指して生きています。もういい年齢になりましたが、今後もきっと恋人や家族などは持たず、作らず、結婚もしないままでしょう。でも、勝利もせずに、そういう時期だからと、気持ちが納得していないのに適当に家庭なんか持ったら、今後は自分が何をしでかすか、わかったものじゃないですからね。 細かいところでは、はてなと思うところもございます。 >(復讐とは)貴方が幸せになって生きる事。そして憎しみを捨てる事 これが成り立つのは、互いに憎みあっている場合だけではないでしょうか。そういう場合であれば、自分が憎しみを捨てれば、相手は振り上げた拳のぶつけ先を失ってしまうのですから。でも、一方的に憎んでいる場合は、こちらが憎悪を取り下げても、相手はそれに気付きさえしません。つまり、泣き寝入りです。 >どこかに自分の事を嘆いてくれるかもしれない人を悲しませる事になるやもしれない 初めて憎悪を抱いた時、そういう気持ちもありました。世界中の人間、誰彼構わず皆殺しにしてやりたい、と思った時、(子供ではありましたが)自分の手にかかる人間のことを考えたのです。自分に悪意ある相手なら喜んで殺せるだろう。無関心だった人間もこの際、巻き添えにしても構わない、あいつらは自分が苦しんでいる時、何もしなかったじゃないか、ならあいつらが、復讐の巻き添えになったからって、自分が気にすることはない、同じように無関心でいていいはずだ。……でも、もしそこに善意を持っている相手がいて、ただその手が自分に届かなかっただけだとしたら? さすがに私も、これは無視できなかったのです。聖書の、例のソドムの町を滅ぼすくだりでもないですが、善意への背信は、どんなに些細なものであろうとも、復讐の正当性をまったく失わせてしまいます。 どこかにあるかもしれない善意のために、私はかろうじて憎悪に手綱をつけました。おかげで、幸か不幸か、感情的になる代わりに、憎悪という感情をフラスコの中に閉じ込めて、じっくり観察することができたのです。これは、良し悪しです。私は多分、憎悪のままにトラックで歩行者天国に乗り入れたり、ナイフを持って暴れたりはしないでしょう。でもそれは、憎しみが小さいことを意味しません。同じような目的で行動するなら、数人ではなく、数万人は殺さなければと、冷静に考えるからです。 私は、世界を改めて観察するために、数年間の”執行猶予”を得ました。でも、そこで確認したものは、やっぱり人間には大した値打ちがないこと、私自身の値打ちもそう、そして、「どこかに自分の事を嘆いてくれるかもしれない人」など、いなかった、という事実です。 自分自身ですら、今の自分に価値を認めていないのですから。勝利か復讐をもってして、はじめて、人生は価値を回復し始めるのです。それができないなら、私はもう、私自身を惜しんだりはしません。復讐すらできないままの余生は、刑罰や死より惨めで、苦痛に満ちています。 こうしてみると、憎悪とは、まったく厄介なハンディキャップですね。病気に見立てると、これを治療するには、より多くの幸福を投与する必要があるのに、この病気の患者は、普通の人より、摂取可能な質も量も、劣っているのです。ちょうど胃腸の病にかかっている人が、治すためには大量に飲食しなければいけない、と言われるようなものです。しかも、憎悪は常に人生を食い潰し続けます……初期の癌なら楽に治療できますが、末期となると、手のつけようがないのと同じように、時間と共に、必要とされる”贖い”のコストは、跳ね上がっていくのです。 >何より近づけない、自分の入る隙間がないとお思いになられる >少なくとも誰かにそう思わせているかもしれません これは、あるでしょうね。 私が幸福になれるであろう道筋は、多分、憎悪病患者以外の人より、少ないでしょう。例えば、人と愛し合う喜びは、入り口で拒絶されます。既に述べた通り「泥を浴びせる相手に、真水を注ぐ」人など、いないからです。表面を取り繕っても、憎悪がなくならない限りは、恋人とか、家族とか、そういう近い距離にいれば、ごまかしようなど、ありません。そして、愛情で憎悪に挑む人は、その全てを一度、浴びる覚悟でもしなければならなくなります。……そんなことを、誰に期待できるのでしょう。 そして、普通にビジネスをするにせよ、様々な行動の動機に憎悪が混じっているのをみれば、手を貸す人間も少なくなるというものです。ものすごく不利な条件の下で、それでも勝利を収める以外に、出口はないのでしょう。 というのが、私の小さな頭の中でわかったことです。 ですが、こうした想定を超える大きな”気付き”があるのなら、目にしてみたいものです。 弱者は醜い。 それだけで片付くお話かもしれませんね。 この世に生まれてきたこと自体、間違いだった。でも、現にここにいる以上、とにかくどちらに転んでも、ただでは立ち去るわけにはいきません。
- ka28mi
- ベストアンサー率41% (969/2315)
No.2で回答した者です。 なるほど、非力な子どもの時であれば、抵抗しようにも抵抗の方法がありませんよね。 そして、まがりなりにも一矢を報いることが可能な時になったら、昔のこと過ぎて証拠がない、となってしまいますね。 合法的に相手に行為の代償を支払わせることは困難なようですが、相手を捨て去ることはできないでしょうか? 質問者さまの感情を切り捨てろ、と言うのではありませんよ。相手と絶縁するという形での切り捨てです。 他の方も同様のことを仰っておられますが、嫌いな相手が目の前にいれば嫌悪が募るものですよね。ましてや憎悪になれば、増幅しないはずがありません。 それならば、血縁だから捨てられることはあるまいと高をくくっているであろう相手を切り捨てることで、せめてもの一矢を報いることはできませんか。 そして、質問者さまの周囲の人間を、「憎悪の対象となる敵」以外にすることはできないでしょうか。 最初のご質問を拝見していると、周囲の人すべてを敵とみなされているように感じます。 でも、その内容は、「質問者さまに危害を加えた真の敵」「質問者さまが危害をくわえられているのを承知で見過ごした敵側の人間」「質問者さまに無関心な潜在的敵」なわけですよね。 このうち、潜在的な敵は味方になることもあり得ます。質問者様もそれがお分かりだから、怒りから解き放たれる方法、せめて表面的にでも友好関係を保てる方法を、模索されているのだと思います。 それならば、真の敵と敵側の人間から離れ、まったくゼロの交友関係からスタートされることをお勧めします。 ゼロの人間に対しても、今の質問者さまでは「自分に対し無関心な奴、潜在的に敵対心を持っている奴」と受け取ってしまうかもしれません。 しかし、相手に共感しなくて構いませんから、相手を尊重する言葉を発し、相手の利益を損ねない行動をすれば、相手は質問者さまに対し、敵意ではなく協力者になりえると思いますよ。
お礼
今、見たら回答が消えていました。 おかしいですね、ちゃんとお返事申し上げたはずなのに……。 申し訳ございません。 全ての回答に、必ずお礼は書こうと決めています。 少なくとも、私の問いかけに、時間と労力を費やしてご意見いただいているからです。 >血縁だから捨てられることはあるまいと高をくくっているであろう相手を切り捨てることで、せめてもの一矢を報いることはできませんか もっと早くやっておけばよかったですね。 切り捨てると、私は借金の回収ができません。 義理とは本当に面倒なものです。 しかし、私が憎悪しているのは、何も血縁者だけではありません。 >周囲の人すべてを敵とみなされているように感じます 鋭い認識です。 まさにその通りで、実際、敵意は常に感じていました。 詳しく説明するわけには参りませんが、私は、生まれつき「社会が忌避する」身分に生まれました。言い換えると、私の存在自体が、ともすれば「悪」とみなされるということです。いろいろな社会的地位が思いつかれるかと想像しますが、そのうちのどれ、とは言えません。その何れが、あなたやその他の閲覧者の嫌悪を招くか、知れたものではないからです。 だから子供時代から、私は、自分のしたこと以外で、しばしば軽蔑されたり、避けられたりしました。こういう環境で育てば、世の中全てを敵とみなすのに、たいした時間はかかりません。 社会に出てからも……今は個人事業主として働いていますが、それはもう、世の中なんて、ひどいものです。原発労働者並みの多重請負なんてザラ、偽装派遣もやりました。個人情報の流出と濫用を指摘し、やめさせようとすればクビが飛び、できもしない仕事(実質、経験がない分野なので、他人への指導になど責任をもてない)を断れば、やらないと明日から働けないよう根回しすると脅迫され、身に覚えのない悪事の責任を追わされて悪評を浴びて、仕事がなくなったり……自分の怠惰や力量不足が罰を受けるなら、まだ本望というものです。 世の中には、いい人もきっといらっしゃるのでしょう。ただ、私の世界には、あまりいないようです。そして、いい人というのも、相手との関係次第で優先順位が変わり、弱者を前にすれば、少なからぬ人が、搾取する側にまわってしまうのです(この点で、悪事を誘発するのは弱者であると……イジメられるほうが悪い、という発想は、倫理的にはともかく、現象としては事実だと思います)。 なら、私が見境なく、自分の世界に生きる人間全てに復讐したとして、何が悪いのでしょう。今の私には、自分の命を質屋に預けることで得られる殺人許可証があります……いや、本来誰の手にもあるものなのですが、多くはそれを意識していないだけのことなのだと思っています。 >相手に共感しなくて構いませんから、相手を尊重する言葉を発し、相手の利益を損ねない行動をすれば 私もそう思うのですが…… そうした努力の結果が、効率的な人と、そうでない人というのは、必ずいます。 この視点で考えれば、私に必要なのは、心の問題の解決ではなく、テクニックということになります。どうすれば、もっと相手から尊重され、重要人物として扱われ、期待され、従って優先順位を上げることができるか? そのための有効な技法があれば、ぜひとも知りたいと思います。
- freulein
- ベストアンサー率39% (94/237)
「やられたのに、やり返していない」それが納得できないのですね。お気の毒です。納得できるための方法を考えて見ましょう。強い反撃レベルから弱いものへ並べて見ます。それらの案のうちどこかのレベルを採用することになりましょう。 1、最も憎い人から順に可能な限りをピストルで撃ち殺す。 2、同じくナイフで切りつける。 3、憎い人々に私が憎む理由を文書化してそれを公表する。 4、憎い人々に私が憎む理由を文書化し、それを相手方に送付し、謝罪を要求する。謝罪しなければそれらを公表する。 5、憎い人々に私の恨みのまなざしを見せつけることで思い知らせる。 6、憎い人々を憎む気持ちを持ち続けるのみとする。これ以外の復讐をしない。相手に憎しみが届かなくても憎み続ける。(現状のまま?) 7、恨みだけを持ち続けるだけでは、私の心が苦しいのみで癒される途がない。この状況が続くのは耐え難い。反撃レベルを上げることが出来ないのならば、いっそ恨む心を軽減・消滅させる途を考えよう。 8、「人間は卑小であり、人生は惨憺たるものである。それを知って絶望するところから出発して初めて人間にしか出来ない生き方をもまたなし得るという思想がある(曽野綾子)」そうだ。苦しみの底に苦しみの解決法があるものならば、恨みを持ち続けるだけよりはましかもしれない。 レベル1~6に貴女のお求めの解決法があるならばそれを実行することをお考え下さい。それがないのならば、7,8を吟味なさることをお薦めします。他の皆様と同じ趣旨です。
お礼
回答ありがとうございます。 ですが、これは現実的に私が採用したいと思う方法ではないようです。すみません。 それに、失礼ながら、復讐についての考察が、あまりに不足しているように思われます。一番強い反撃レベルのものが「銃殺」で、次が「刺殺」ですか? 銃で脳を撃ち抜けば、相手は苦痛を感じる時間もなく、即死してしまいます。復讐の主たる目的は、対象に苦痛を与えることにありますので、このような手段はむしろ、やむを得ない場合に用いるものではないでしょうか。つまり、もっと強い反撃レベルのものの一例を挙げるとすれば、「拉致して拷問を加えた後、殺害する」といったものが思いつきます。 文書による告発は、一般人相手では、ほとんど意味を成さないでしょう。しかも、特に一般人が相手の場合は、告発内容に証拠が伴っていない場合、ただの中傷、名誉棄損として、更なる傷を自分が負うことになります。企業や政府機関が相手であれば、打撃にはなるかもしれません。逆に、証拠を伴う形で対象の悪事を暴露できる場合、それは確かに、まともな復讐の手段足り得ます。 憎悪のこもった視線は、嘲笑を買うだけだと思います。憎しみは、弱者の感情です。強者ならば、苦痛の瞬間に迷わず、原因に罰を下せるからです。報復できるだけの力を持った存在からの冷たい視線は、敵を畏怖させるだけの力を持つでしょうが、さもなければ、それはただの一人芝居、道化です。 あと・・・ すみません、私、女性ではないです。 よく文章をご覧になれば、おわかりいただけると思いますが。
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こんにちは。失礼ですけど・・・、質問者さんのご意見、判るような気もします。私も憎悪を抑えきれなくてどこにどう発散したら良いのか、奮闘中でした。 他人ならば、やり返せばいい。もちろん、やり返すというのは、言い返すとか、訴訟とかそういった事にまで発展しない程度です。 私は信じていた恋人に裏切られて、何度ズタズタにしてやろうかと思った事でしょう。。。。相手が勝手な事をしていて勝手に別れたいと言われたのに、急に復縁を迫ってきて、断れば、仕事に行く私を出待ちして、復縁をせまり、嫌だと逃げると鞄をひったくられて、警察沙汰。何度もストーカー行為が直らないので、精神的に参ってたら今度はひったくった際にたまたま鞄に入れてた鍵をコピーして夜中に玄関に立たれていた時は正直ゾーっとしました。 その人からは暴力も受けてましたし、最低の奴です。私が一生懸命働いている時に別の女性と会ってたりしたのですから、ヒモみたいなものです。三度も警察にお世話になった人です。 私はこの人を許せなかったので、復讐しました。学校の先生をしていたので、抗議の電話をかけました。教育者がストーカーはあるまじき行為だと。。。。 それを私の母はやり過ぎだと言って、私の味方をせず、その男をかばい、家に入れたりして、最近は別れて10年以上も経つのに 未だに連絡取り合ってます。私の母も。 この二人には相当な憎悪がありますが、男は他人です。正直復讐してスッとしました。しかし、母親は身内です。これが如何せん厄介です。復讐するわけには行かないので、最近は去る決意をしました。 身内と他人では思い入れも違いますし、他人なら相殺してやる、ぐらいの勢いでできますけど、身内はそうは行きません。永遠に今私は嫌な気持ちが続くのかと思うと吐き気がしますが、仕方ないです。 私の結論から言えば、相手が根に持つタイプ、なおかつ逆恨みしない、こちらが一切責任がないという状態ならやり返す事はありだと思いますけど、大抵は変な恨みをかって、今よりももっと生きにくくなるのではないでしょうか。 憎悪を消すという事はできないと思います。しかし、私は一人の時は結構叫んだり布団を叩いたりして発散してました。 一番効果があるのは寝る事です。真面目そうな人だから馬鹿にしていると思われるかもしれませんけど、私はそうしてます。 表面的にでも好ましくない関係を築くですか? これは間違っていると思います。私の経験ですが、これは憎悪が増幅します。 憎らしい顔を見ただけでも吐き気がしてストレスが溜まるのにまだ敢えて我慢して相手と対峙するんですよね。これはかなり危険だと思います。 ですから、怒りや憎悪から避ける、逃げるという事も大事だと思います。 何も感じられないのは憎悪しかなくなってしまって心が壊れているからです。ちょっと難しいかもしれませんが、できる事ならカウンセラーなどにお金を払って怒りをぶちまけるか、憎悪している心から少し離れた方が懸命だと思います。 お礼文読みましたけど、事実を言っても揚げ足をとってくる輩もいます。ですから、人に言う事はお勧めできません。この行為も憎悪を膨らませるだけです。 お金で解決できる専門家に吐くのはありだと思いますが、これも期待しない方が良いでしょう。。。 基本、自分で感じた怒りは自分にしか判らぬものです。それが理解できれば、こんなやつ相手にしてたって・・・馬鹿げていると思う時も来ると思います。恨みたいならとことんまで恨んでいいと思います。 冷静になってわざと相手の事を考えないようにする事は大事です。とにかく自分の心を開放しましょう。 文面を読んで凄く生真面目な方だと思いましたので、憎悪の増幅が抑えきれないのだと思いました。 相手を見返す事より、もう見下す事の方がいいかも。。。ですね。見下してください。関わらない方が良いですよ。
お礼
回答ありがとうございます。 といいますか、まず、お気の毒ですね。 ・ふられたり、復縁を迫られたり ・拒否するとストーカー行為 ・しかもDV、浮気 教育者がこれでは、世も末ですね。もっとも、政治家はもっとひどいようですが。 ここまでなら、変な人に捕まったね、次から気をつけようね、で済むと思いますが、本当にひどいのは、 ・お母様があなたではなく、ストーカーの肩を持った 理解不能なレベルですね。 「去る決意」をなさったとのこと、賢明だと思います。憎悪は消えないまでも、大きな犠牲を伴わなければ、近親者への復讐は困難でしょうから。 私も最初に申し上げていますが、復讐はもっとも高コストな解決方法です。相手を痛めつけるために、わざわざ手を振りかざす必要がありますので。 さて、ご提案いただいた対処方法は、次の通りですね。 ・叫んだり布団を叩いたりして発散 ・一番効果があるのは寝る事 ・表面的に関係を維持するのはストレスの元なので、避けるべき ・敵意の対象は、見下すべき 憎悪の原因に接触せず、従ってその存在意義が減衰していくのを待ちつつ、今、湧き上がるストレスには、寝たり八つ当たりすることで対症療法とする…… 逃避的ですが、論理的なご意見だと思います。 時が経ち、ふと顔を上げれば、自分と愛し愛される間柄の人間しかいなければ、過去は文字通り過去になってくれるかもしれません。 本能的に、私もそういった手段を選ぼうとしているのかもしれません。 仮に十分お金があったら、私は海外に逃げると思います。 そうすれば、家族とは最低でも数年間、接触を持たずに済むのですから。 もっとも、問題なのは、私が憎んでいるのは家族だけではなく、もっと広い範囲に憎悪のトリガーが散らばっているところにあるのかもしれませんが。 見下す、つまり無視して生きるために、私の努力はあります。 好ましくないものとの関わりを一方的に断ち切り、恨みの原因になる出会いを遮断して、しかも自分に必要なだけの豊かさを維持して生きることができるのであれば、それができるからです。 >憎悪を消すという事はできないと思います やはり、難しいようですね。 ですが、一応まだ、知恵を募集し続けてみます。 思いもしない発見が、誰かの中にないとも限りませんから。
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お礼
回答ありがとうございます。 憎悪の奴隷ではない、ですか。 もしそうだとすれば、私は実にか細い糸にぶら下がっているだけなのでしょう。 私が何とか平静を保ち、意見を受け入れたり、異論を差し挟んだり、また共感したりできるのは、たった今、差し迫った恐怖や苦痛に曝されていないからです。その意味で、私の無数の苦しみは、ある程度は過去になったのかもしれません。 しかし、過去は未来でもあります。私がこの先、苦痛に出会った時、それは未知のものではないでしょう。痛みを知るものが、それを冷静に見つめ、恐怖を制御していられるのは、それだけの「蓄え」があるからです。もし私が、この先住む所もないほど貧しく身を落としたとしたら、どうでしょう。あらゆるものは、かつて見えていたのと同じように、悪意を発散し始めるのです。 その時、私は自分を保ち得るでしょうか? きっと難しいでしょう。これまで対症療法で抑えていた病気が、ついに体の内側を食い破って出てくるように……憎悪の奴隷としての本性が、私を乗っ取るに違いありません。 私は、質的な変化を求めていたように思います。 恨みがある。それを無視して忘れようとするのは、つまり、現状を受け入れ、変化を起こさないということです。 恨みがある。その分、痛みを相手に与える。自分は気が済むかもしれませんが、相手は自分を憎むでしょう。自分がこれだけ憎んでいるのだから、相手が憎まないはずがないのです。 歴史が始まって以来、どれだけの恨みが積み残されてきたことでしょう。 復讐にまで行き着けた人は幸運で、大抵はそれすらできず、苦痛に悶えながら死んでいくばかり。本人は仇討ちができなくとも、その家族や友人に恨みは残ります。そうして、血で血を返して、どんどん膨れ上がって……。 私は、力を手にして、社会に制約されない自由を手にして、汚れた地上を省みず、一人静かに清い空を飛んでいたいと思い、またそう言いました。でも、こういうことはないのでしょうか。もしこの世界が清く美しく、愛情に満ちあふれていれば、私は一人で空を飛ぶ力など持たずに、偉大な世界の中の、ほんの隅っこに席があるだけの、弱く小さい一人として生き、死んでいくこともできるのではないかと。 この世のどんなものを求めるよりも、高望みですね。 智恵とは、得がたいものですね。 本当に。