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憎悪との付き合い方
理解はされないだろうと思いつつ、試みに意見を求めてみます。 悩み相談をする人のほとんどは、 「つらい、さみしい、死にたい」 というような文脈の方が多いようにお見受けしますが、私は、そういう形で悩んでいるのではありません。 「怒り」を忘れられないのです。 確かに、気分が落ち込むこともあり、自尊心も低く、また長い間、不要な人間として扱われてきたこともあり、何事もうまくいかない現実に悲観することもありますが、それは私にとっては、あまり大きなことではありません。 「やられたのに、やり返していない」 という無数の現実が、私の中で、納得できないのです。 他はもう、どうでもいいのです。 よく「恨みなんか、抱えてるだけ損だよ」という人がいます。 やれるわけもないですが、そんな言葉を聞くと、鉄拳をお見舞いしたくなります。 この痛み、屈辱感をたっぷり味わってから、同じ台詞を私に言ってみろ。 今すぐ私の憎しみの全てを浴びせてやる、と。 勿論、そんなことを言う人は、私の切迫した気持ちなど、これっぽっちも理解していないので、説明しても無駄なことが多いのですが……。 「相手は、他人を傷つけることの重大性に気付かない愚者だ、哀れんでやれ」 「許す、という行為ほど、尊いものはありません」 現実のすり替えだ、としか思えません。 相手が愚者でも賢者でも、手を上げれば私が傷つくことなら知っています。 それが人間の行為である以上、過失ではなく、故意なのです。 そして、私が許そうが許すまいが、私の手が敵の首にかからない限り、私の敵はそんなことは、まったく頓着しないのです。 そもそも、相手を罰する力を伴わずに「許す」のに、何の意味があるのでしょう? 「お前だって過ちを犯したことがあるはずだ」 否定はしません。 でも、もし私から不当に害を受けたというのなら、訴えればいい。 私がその事実に納得したら、自分から謝罪に赴くでしょう。 事実があるのに私が謝罪しなければ、報復を受けるかもしれません。 それは好ましくないですが、当然のこととも理解しています。 「神を信じれば」 宗教を否定する気はありませんが…… 人間から受けた害悪で積もり積もった憎しみを、神に後始末させるのですか? それしかやり方はないのですか? 「感じ方次第だよ」 では、やっぱり鉄拳を見舞ってあげましょう。 あなたの体に普通の神経が通っている限り、感じるのは苦痛以外にありません。 私が息切れするまで殴ってあげますから、どう感じたかを教えてください。 「愛する人がいれば」 いい考えです。 ただ、憎悪の奴隷を愛する人がいるでしょうか? 私のほうでは、心の中は別のものでいっぱいなので、人を愛する気持ちには、鍵がかかっていて、外に出てきません。 泥を浴びせる相手に、真水を注ぐ天使が、どこにいるのでしょうか。 「君、もしかして不幸なのが好きなんじゃないの?」 どこの成功哲学の本を読み漁ってきたか知りませんが、痛みを知らないようなので、やっぱり味わってからコメント願います。 死ぬ寸前まで痛めつけて、大事なものも全て奪って、それでも恨みを思わず、明るい未来しか考えないというのなら、納得しますが。 ……といった具合です。 よくよく考えて、胸の中に渦巻く怒りを納めるのに、三つの手段を思いつきました。 相手からの謝罪を受け入れるか、 相手からの被害が気にならないほど強くなるか、 相手の血を流すか、です。 しかし、謝罪は相手の意思が伴ってこそ意味があります。 そして多分、自発的な謝罪は、永遠にやってこないでしょう。 力で屈服させて謝罪の言葉を引き出すのは、復讐の一種に過ぎません。 そして、復讐は、社会の許す形で行おうとするならば、相手以上の十分に大きな力を持たなければ、犠牲を伴う(例えば、社会のルール内では勝てないので、しばしば非合法な手段を選ばざるを得なくなるでしょうから)か、失敗します。 そこで、私は、今までの恨みが小さく見えるほどの勝利を目指して、そのためだけに生きています。 ですが、そのことがまさに、壁になって私の行く先を阻むのです。 私はもう、ほとんど何事にも快楽を見出しません。 何を食べても同じ味しかしないし、異性の体に触れてもクッションと大差ありません。 朝の爽やかな空気も、ドブ川の腐臭も一緒です。 映画や小説を目にしても、感動して涙が落ちることさえないのです。 つまり、共感する力が、あまりありません。 ほとんど全てが色あせた、退屈なものに思えるのです。 しかし、一般的な仕事での成功を目指すのであれば、他人の協力は、どんな形であれ、必要になってきます。 勿論、仕事に必要な業務を外部に発注する場合などには、可能な限り、相手の条件や利益、作業環境に配慮します。 好ましい結果が出たら、自分より先に、仲間に配分しようとさえ思います。 それでも、ただただ私が魅力的ではないために、しばしば致命的な損失を蒙ることがあるのです。 私が魅力的でないのは、わかると思います。 幸せそうな顔をしていないのですから。 怒りに囚われているのは自覚していますが、だからといって、この恨みを忘れるくらいなら、死んだほうがマシです。 勝利や成功を手にすれば、私にも余裕が出てくるかもしれません。 過去の恨みも、その時の私から見れば、小さなことになるからです。 でも、今は勝利していません。 だから、恨みは忘れられません。 それでも、ある程度は人の力は借りなければいけません。 ……もう、私は、あまり待てません。 二十年前に、あることがきっかけで、心と一緒に体を病みました。 一日中、ある種の苦痛が体を襲います。安眠さえできません。 生きているだけで幸せとは、誰が言ったのでしょうか。 生きれば必ず苦痛という代金を支払わねばならないのに。 あと三十年後に勝利できると言われても、そこまで待てません。 今、ここで勝てなければ、また惨めさが積みあがるのです。 それくらいなら、せめて、一人でも多くの敵を血に染めて、自分も死んだほうがいい……そう思います。 苦痛を感じるたび、毎日この思いつめた気持ちが甦ってきます。 怒りを思い出すと、指先が震えだしさえします……目の前に、私を脅かす敵がいなくても、です。声もかすれ、言葉も思いつかなくなります。 それでも、一度納得できる成功を収めれば、惨めさを拭うことができれば、安眠できるようになる気がするのです。 しかしながら、勝利の最大の障害が、私自身の目的、憎しみのようなのです。 どこかで心に鍵がかかっていて…… 例えば、昔は好きだった音楽も、今では人前で演奏することはありません。 私に対して無関心だったり、敵意を抱いている連中に、私の真心を届けてどうしようというのでしょうか。 とにかく、どうあっても、自分と他人とを問わず、許せないものは許せないのです。 しかし、幸せになる人というのは、普通は、心から他人の幸せを願える人なのでしょう。 私の限られた個人の力の範囲内で、 ・怒りから解き放たれる方法があるのならそれを ・なければ、仕事に差し支えないよう、表面的にでも好ましい関係を築く手段を 教えてください。 (仕事仕事、と言っていますが、少なくとも、社会で仕事をする限り、善意に基づいて、社会に好ましいものを提供することで利益を得よう、というスタンスで動くつもりでいます。儲かるなら何でもいい、などとは、あまり考えていません) でも、そんなものはない、というのなら、それはそれでおっしゃっていただいて結構です。 その時は、このまま成功を目指して、それでダメなら、あとは流せるだけの血を流して、自分も死んでいくだけのことです……。 よろしくお願い致します。
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>呼吸の苦しさという苦痛と恐怖、将来への不安は、憎しみという形より、むしろ悲しみに近い気持ちに流れていくような気が致します。 んなことはないですよ。産んだ親を憎悪し(さすがに小さい頃の話ですが)、大袈裟な言い方ですが運動できる人間を憎悪し、境遇というか運命というかそういったものを憎悪しておりますよ。 さすがに大人になったら辛いのは発作が起こった時だけですので日常生活では忘れていますけどね。 これが芝居だったらお涙ちょうだいで、皆が助けてくれて人の温かみが分ったり、不幸な境遇に負けず云々…という話になるんでしょうが、現実はそうもいかんですからね。 憎悪する対象が無いわけではありません。 あらゆる人間は自己のそういった不幸に対して憎悪の念を何らかの対象に対して抱くんじゃないでしょうか。 そしてこう言った悩みに対して、人様は色々なアドバイスをしてくださるんですよね。 不幸をばねにして成功への礎としてはどうか、とか みんな何らかの問題で苦しんでいるから君だけではない、孤独になるな、助け合おう、とか 下を見てもっと不幸な人間がいるんだから君もその程度のことで囚われてはいけない、とかです。 ありがたいことではあるんですが、現実の問題に直面している人間や、過去の現実から逃れられない(と思われる)回答者様ならおわかり頂けると思いますが、そういった物は救いにならないんですよね。 だからどうした、と、他人が不幸ならこの苦しみは消えるのか アフリカの子供で餓死している子供がある。不幸と思うし悲劇とも思うが、じゃあ俺がされたことはその子らの不幸に比べれば卑小なことだから我慢せよ、ということなのか てな感じですな。 さて、どうしようか、と私も思案している次第です。 親を殺し、健康な人間を皆殺しにしたところで病気が治るわけでは無し。また、すべてを受け入れ、テレビに出てくる不治の病に冒された人のような立派な心境などにはなれませんからね。(私の病気の程度はその人たちに比べると相当軽いので、全くあさましいこととは思いますが…) 質問者様におかれましてもそうでしょう。 社会的成功を収めたところで過去の事実が消えるわけではありませんからね。 また、強くなるって言っても、苦痛になれればそりゃ多少はマシになりますが、その過去の記憶を乗り越えるほど強くなるにはそれ以上の不幸を味わい続けなければなりません。耐えられます? 相手の血を流すことも、そりゃ実に気分爽快になるかも知れませんが、そんなことで解放されるなら20年も囚われたりはしないでしょう。 さて、残された方法はいよいよ自殺でもするか、というところまで行くことも当然あるでしょう。 まあ、色々やってみましょう。もしかすると質問者様の方法で救われることもあるかも知れません。 救われましたら是非私にもその方法を教えてください。
- ka28mi
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単純な質問なのですが、なぜ、やり返さなかったのでしょう? 物理的に相手を刺せとか殴れとか言ってるわけではありませんよ。 それほどの怒りや憎しみが固まってしまうほどの行為をされて、その時になんの仕返しも反発もせずに終わったのでしょうか? 合法的に仕返しをする方法はないのですか? たとえば損害賠償を請求するとか、慰謝料を請求するとか。 復讐にすぎないと仰っていますが、相手の血を流すのも復讐にすぎないと思うのですが。 そういった方法は、一切とれない。法的には相手は悪くない。極端な話で言えば、質問者さまの逆恨みとかね。 そういうものであれば、自分の中に恨みの原因があるのだから、それを解消してくださいとしか言えません。
お礼
回答ありがとうございます。 ああ、ものすごく単純で、重要なことを書き忘れていました。 申し訳ございません。 >なぜ、やり返さなかった はい。 それは、 「私が弱くて、自分より強い相手の力に恐怖した」 「やり返そうとした時にも、たいてい返り討ちにあった」 「逆らえば、生きていけないと感じていた」 からです。 ぶっちゃけ、弱っちいから、やられたわけですね。 >合法的に仕返しをする方法はないのですか? 怨恨の対象は、直接の血族にも及びます。 多分、子供の頃に行政が割って入っていれば、今の時代の感覚で行けば、 復讐するまでもなく事件になって解決していたかもしれませんが。 今では証拠も何も残っていませんからね。 なかなか理解されないものですよ。 昔、知り合いに 「家族から性的玩具にされたんだ」 とカミングアウトしたら、 「育ててもらったくせに」 と言い返されました。 じゃ、私が親になったら、エサを与える代わりに、娘をレイプしまくってもいいってことに(上記の台詞は女性のものでした)なるのでしょう。 とはいえ、それが弱みでないわけでもありません。 家出をしてでも、一人で生きていけなかったのは、私が弱かったからです……そして、それは私の罪なのでしょうか。 >相手の血を流すのも復讐にすぎない はい。 手段はもう、どうでもいいです。 ただ、何れにせよ復讐は高コストな解決手段です。 それを避けたいがゆえに、成功によって自尊心を取り戻そうとしているくらいなのですから。 もっとも今の世の中では、少なからぬ人々が、そのコストを支払いきれず、かといって他の手段も見つけられないので、結局自殺しているようですが……。
そんな便利なものがあったら私も教えてもらいたいもんです。 殴られるのは恐ろしいですな(笑) しかしまあそれでも 「恨みなんか、抱えてるだけ損だよ」、「感じ方次第だよ」というよりありません。 それ以外に内心の問題に関しては解決の方法はありませんからね。 いやね、誰だって挫折は体験しますし、裏切られることだってあるでしょう。 自分の非力さや先天性の問題で夢をあきらめねばならないことだってありますよ。 私も餓鬼の頃からずっとぜんそく持ちでして、親戚一同みな呼吸器を病んで苦しんで死んでいるのを見ると暗澹たる気分になることがあります。 それでもまあ考え方次第で多少楽になることはありますよ。 ならなかったらもうどうしようもありませんな。 どうしようもなければもうどうしようもないでしょう。 全てを捨てて山門に籠って禅僧にでもなられるか、これまたすべてを捨てて復讐の鬼になられるかしか無かろうと思います。 時間があれば前者を、時間がなければ後者をオススメ致します。
お礼
回答ありがとうございます。 >殴られるのは恐ろしいですな(笑) 真剣に答えていただいていることを前提と考えておりますので、鉄拳は飛んできません。もっとも、非力でならしたこの私の拳など、恐れるに値しません。どっちにせよ、ご安心を。 >私も餓鬼の頃からずっとぜんそく持ちでして それは、大変お気の毒なことです。 そこで生まれた以上、ご自身と不可分な運命でもある。だから運命だ、受け入れろ、納得しろ、と言われても、それを他人から言われたら、激昂なさってもおかしくはないと思います。 といって、特定の誰かが悪いというわけではなく、ただそこにあるものです。呼吸の苦しさという苦痛と恐怖、将来への不安は、憎しみという形より、むしろ悲しみに近い気持ちに流れていくような気が致します。 これは私が、あなたの苦労を私より楽な人生だと評価しているのではなく、方向性が違うな、と感じたというだけのことですが。 私の場合は、個々人から社会のレベルで、それぞれ恨むべき特定の何かがあります。 yamohiro1027様のご病気にしても、もしこれが公害などが原因の人災だったら、特定の企業や政府機関を恨み、訴える方向に心が動かれるのではないでしょうか。 それで、いただいた結論ですが、 >どうしようもなければもうどうしようもないでしょう なるほど、これ以上方法はないのではないか、というご意見ですね。 これはこれで理解しました。 そんな便利なものがあったら……はい、私も知りたいですね。
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お礼
私に失言があったかもしれません。 まずお詫び申し上げておきます。 >産んだ親を憎悪し、運動できる人間を憎悪し なるほど。 私は、責任の所在が特定できる相手にあるか、ないかで憎悪に染まるか、悲嘆に染まるか変わるのではと考えていましたが、おっしゃることも、ごもっともです。ご両親も、何も病気持ちで産みたかったわけではないでしょうし、運動できる人がいるからってその人のせいであなたが運動できないわけではないですが、眼前の苦痛に対して、妬みや八つ当たりしたい気持ちが湧くのは、当然のことかもしれません。それは、醜いとか何とか、批判されるべきものではなく、仕方のないことだと思います。 私の場合は、明確な敵が存在する問題のほうが多かったので、そのあたりの気持ちのあり方については、理解が浅かったかもしれません。 >そういった物は救いにならない 多くのそういった「助言」や「道徳」は、残念ながら、苦しむあなたご自身を救うためというより、あなたの抱えている苦しみから、健康な人々を隔離し、守るためにあるのだと、私は考えています。苦痛にある人が「苦しい」というのは、見苦しい、もっとポジティブな態度であれ、という教えは、それを無理なく実践できる人にはいいかもしれませんが、そうでない人にとっては、率直に気持ちを曝け出し、共感してもらい、理解してもらうという機会を奪いさえします。 ……スローガンは集団のためにあるのであって、個々人の利益には、余り役立たないものなのでしょうね。 >社会的成功を収めたところで過去の事実が消えるわけでは >過去の記憶を乗り越えるほど強くなるにはそれ以上の不幸を味わい続けなければ ここについての見解は、少し私とは意見が異なるようです。 私は、人が不幸に出会った時、それに耐えられるかどうかは、ストレス耐性の向上による(もっと大きな不幸に慣れることで、今の不幸を忘れるやり方)以上に、相対的なストレスの価値を落とす(今の私が百万円を道端に落としたら泣き喚きますが、ゲイツみたいな大金持ちになれば、がっかりするだけで済むでしょう)ことで実現できると考えているからです。 つまり、痛みは消えないし、記憶も事実も変わりませんが、意味を小さくできる可能性を追求しています。 実際、不幸にあった人がみんな自殺するわけではないでしょう。抑止力となるのは、その人の財産や、友人の質と量など、案外物理的な要因によるのではないでしょうか。 ただ、そこで問題となるのが、「意味を小さくする」ためには、成功体験などによって「自分を相対的に大きくする」必要があるのに、怒りや憎しみの感情は私から「魅力を奪う」ために、成功が遠のく、という連鎖です。 きれいに「怒り」という心のフタを外せるなら、それがベストですが、直接的な手段がないのであれば、表面的な解決方法で妥協するのもありですよ、という質問をさせていただいております。 何かこれはという気付きがあれば、包み隠さず、人に語るとします。