07033843のプロフィール

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  • 登録日2010/11/17
  • 憎悪との付き合い方

    理解はされないだろうと思いつつ、試みに意見を求めてみます。 悩み相談をする人のほとんどは、 「つらい、さみしい、死にたい」 というような文脈の方が多いようにお見受けしますが、私は、そういう形で悩んでいるのではありません。 「怒り」を忘れられないのです。 確かに、気分が落ち込むこともあり、自尊心も低く、また長い間、不要な人間として扱われてきたこともあり、何事もうまくいかない現実に悲観することもありますが、それは私にとっては、あまり大きなことではありません。 「やられたのに、やり返していない」 という無数の現実が、私の中で、納得できないのです。 他はもう、どうでもいいのです。 よく「恨みなんか、抱えてるだけ損だよ」という人がいます。 やれるわけもないですが、そんな言葉を聞くと、鉄拳をお見舞いしたくなります。 この痛み、屈辱感をたっぷり味わってから、同じ台詞を私に言ってみろ。 今すぐ私の憎しみの全てを浴びせてやる、と。 勿論、そんなことを言う人は、私の切迫した気持ちなど、これっぽっちも理解していないので、説明しても無駄なことが多いのですが……。 「相手は、他人を傷つけることの重大性に気付かない愚者だ、哀れんでやれ」 「許す、という行為ほど、尊いものはありません」 現実のすり替えだ、としか思えません。 相手が愚者でも賢者でも、手を上げれば私が傷つくことなら知っています。 それが人間の行為である以上、過失ではなく、故意なのです。 そして、私が許そうが許すまいが、私の手が敵の首にかからない限り、私の敵はそんなことは、まったく頓着しないのです。 そもそも、相手を罰する力を伴わずに「許す」のに、何の意味があるのでしょう? 「お前だって過ちを犯したことがあるはずだ」 否定はしません。 でも、もし私から不当に害を受けたというのなら、訴えればいい。 私がその事実に納得したら、自分から謝罪に赴くでしょう。 事実があるのに私が謝罪しなければ、報復を受けるかもしれません。 それは好ましくないですが、当然のこととも理解しています。 「神を信じれば」 宗教を否定する気はありませんが…… 人間から受けた害悪で積もり積もった憎しみを、神に後始末させるのですか? それしかやり方はないのですか? 「感じ方次第だよ」 では、やっぱり鉄拳を見舞ってあげましょう。 あなたの体に普通の神経が通っている限り、感じるのは苦痛以外にありません。 私が息切れするまで殴ってあげますから、どう感じたかを教えてください。 「愛する人がいれば」 いい考えです。 ただ、憎悪の奴隷を愛する人がいるでしょうか? 私のほうでは、心の中は別のものでいっぱいなので、人を愛する気持ちには、鍵がかかっていて、外に出てきません。 泥を浴びせる相手に、真水を注ぐ天使が、どこにいるのでしょうか。 「君、もしかして不幸なのが好きなんじゃないの?」 どこの成功哲学の本を読み漁ってきたか知りませんが、痛みを知らないようなので、やっぱり味わってからコメント願います。 死ぬ寸前まで痛めつけて、大事なものも全て奪って、それでも恨みを思わず、明るい未来しか考えないというのなら、納得しますが。 ……といった具合です。 よくよく考えて、胸の中に渦巻く怒りを納めるのに、三つの手段を思いつきました。 相手からの謝罪を受け入れるか、 相手からの被害が気にならないほど強くなるか、 相手の血を流すか、です。 しかし、謝罪は相手の意思が伴ってこそ意味があります。 そして多分、自発的な謝罪は、永遠にやってこないでしょう。 力で屈服させて謝罪の言葉を引き出すのは、復讐の一種に過ぎません。 そして、復讐は、社会の許す形で行おうとするならば、相手以上の十分に大きな力を持たなければ、犠牲を伴う(例えば、社会のルール内では勝てないので、しばしば非合法な手段を選ばざるを得なくなるでしょうから)か、失敗します。 そこで、私は、今までの恨みが小さく見えるほどの勝利を目指して、そのためだけに生きています。 ですが、そのことがまさに、壁になって私の行く先を阻むのです。 私はもう、ほとんど何事にも快楽を見出しません。 何を食べても同じ味しかしないし、異性の体に触れてもクッションと大差ありません。 朝の爽やかな空気も、ドブ川の腐臭も一緒です。 映画や小説を目にしても、感動して涙が落ちることさえないのです。 つまり、共感する力が、あまりありません。 ほとんど全てが色あせた、退屈なものに思えるのです。 しかし、一般的な仕事での成功を目指すのであれば、他人の協力は、どんな形であれ、必要になってきます。 勿論、仕事に必要な業務を外部に発注する場合などには、可能な限り、相手の条件や利益、作業環境に配慮します。 好ましい結果が出たら、自分より先に、仲間に配分しようとさえ思います。 それでも、ただただ私が魅力的ではないために、しばしば致命的な損失を蒙ることがあるのです。 私が魅力的でないのは、わかると思います。 幸せそうな顔をしていないのですから。 怒りに囚われているのは自覚していますが、だからといって、この恨みを忘れるくらいなら、死んだほうがマシです。 勝利や成功を手にすれば、私にも余裕が出てくるかもしれません。 過去の恨みも、その時の私から見れば、小さなことになるからです。 でも、今は勝利していません。 だから、恨みは忘れられません。 それでも、ある程度は人の力は借りなければいけません。 ……もう、私は、あまり待てません。 二十年前に、あることがきっかけで、心と一緒に体を病みました。 一日中、ある種の苦痛が体を襲います。安眠さえできません。 生きているだけで幸せとは、誰が言ったのでしょうか。 生きれば必ず苦痛という代金を支払わねばならないのに。 あと三十年後に勝利できると言われても、そこまで待てません。 今、ここで勝てなければ、また惨めさが積みあがるのです。 それくらいなら、せめて、一人でも多くの敵を血に染めて、自分も死んだほうがいい……そう思います。 苦痛を感じるたび、毎日この思いつめた気持ちが甦ってきます。 怒りを思い出すと、指先が震えだしさえします……目の前に、私を脅かす敵がいなくても、です。声もかすれ、言葉も思いつかなくなります。 それでも、一度納得できる成功を収めれば、惨めさを拭うことができれば、安眠できるようになる気がするのです。 しかしながら、勝利の最大の障害が、私自身の目的、憎しみのようなのです。 どこかで心に鍵がかかっていて…… 例えば、昔は好きだった音楽も、今では人前で演奏することはありません。 私に対して無関心だったり、敵意を抱いている連中に、私の真心を届けてどうしようというのでしょうか。 とにかく、どうあっても、自分と他人とを問わず、許せないものは許せないのです。 しかし、幸せになる人というのは、普通は、心から他人の幸せを願える人なのでしょう。 私の限られた個人の力の範囲内で、 ・怒りから解き放たれる方法があるのならそれを ・なければ、仕事に差し支えないよう、表面的にでも好ましい関係を築く手段を 教えてください。 (仕事仕事、と言っていますが、少なくとも、社会で仕事をする限り、善意に基づいて、社会に好ましいものを提供することで利益を得よう、というスタンスで動くつもりでいます。儲かるなら何でもいい、などとは、あまり考えていません) でも、そんなものはない、というのなら、それはそれでおっしゃっていただいて結構です。 その時は、このまま成功を目指して、それでダメなら、あとは流せるだけの血を流して、自分も死んでいくだけのことです……。 よろしくお願い致します。

  • 憎悪との付き合い方

    理解はされないだろうと思いつつ、試みに意見を求めてみます。 悩み相談をする人のほとんどは、 「つらい、さみしい、死にたい」 というような文脈の方が多いようにお見受けしますが、私は、そういう形で悩んでいるのではありません。 「怒り」を忘れられないのです。 確かに、気分が落ち込むこともあり、自尊心も低く、また長い間、不要な人間として扱われてきたこともあり、何事もうまくいかない現実に悲観することもありますが、それは私にとっては、あまり大きなことではありません。 「やられたのに、やり返していない」 という無数の現実が、私の中で、納得できないのです。 他はもう、どうでもいいのです。 よく「恨みなんか、抱えてるだけ損だよ」という人がいます。 やれるわけもないですが、そんな言葉を聞くと、鉄拳をお見舞いしたくなります。 この痛み、屈辱感をたっぷり味わってから、同じ台詞を私に言ってみろ。 今すぐ私の憎しみの全てを浴びせてやる、と。 勿論、そんなことを言う人は、私の切迫した気持ちなど、これっぽっちも理解していないので、説明しても無駄なことが多いのですが……。 「相手は、他人を傷つけることの重大性に気付かない愚者だ、哀れんでやれ」 「許す、という行為ほど、尊いものはありません」 現実のすり替えだ、としか思えません。 相手が愚者でも賢者でも、手を上げれば私が傷つくことなら知っています。 それが人間の行為である以上、過失ではなく、故意なのです。 そして、私が許そうが許すまいが、私の手が敵の首にかからない限り、私の敵はそんなことは、まったく頓着しないのです。 そもそも、相手を罰する力を伴わずに「許す」のに、何の意味があるのでしょう? 「お前だって過ちを犯したことがあるはずだ」 否定はしません。 でも、もし私から不当に害を受けたというのなら、訴えればいい。 私がその事実に納得したら、自分から謝罪に赴くでしょう。 事実があるのに私が謝罪しなければ、報復を受けるかもしれません。 それは好ましくないですが、当然のこととも理解しています。 「神を信じれば」 宗教を否定する気はありませんが…… 人間から受けた害悪で積もり積もった憎しみを、神に後始末させるのですか? それしかやり方はないのですか? 「感じ方次第だよ」 では、やっぱり鉄拳を見舞ってあげましょう。 あなたの体に普通の神経が通っている限り、感じるのは苦痛以外にありません。 私が息切れするまで殴ってあげますから、どう感じたかを教えてください。 「愛する人がいれば」 いい考えです。 ただ、憎悪の奴隷を愛する人がいるでしょうか? 私のほうでは、心の中は別のものでいっぱいなので、人を愛する気持ちには、鍵がかかっていて、外に出てきません。 泥を浴びせる相手に、真水を注ぐ天使が、どこにいるのでしょうか。 「君、もしかして不幸なのが好きなんじゃないの?」 どこの成功哲学の本を読み漁ってきたか知りませんが、痛みを知らないようなので、やっぱり味わってからコメント願います。 死ぬ寸前まで痛めつけて、大事なものも全て奪って、それでも恨みを思わず、明るい未来しか考えないというのなら、納得しますが。 ……といった具合です。 よくよく考えて、胸の中に渦巻く怒りを納めるのに、三つの手段を思いつきました。 相手からの謝罪を受け入れるか、 相手からの被害が気にならないほど強くなるか、 相手の血を流すか、です。 しかし、謝罪は相手の意思が伴ってこそ意味があります。 そして多分、自発的な謝罪は、永遠にやってこないでしょう。 力で屈服させて謝罪の言葉を引き出すのは、復讐の一種に過ぎません。 そして、復讐は、社会の許す形で行おうとするならば、相手以上の十分に大きな力を持たなければ、犠牲を伴う(例えば、社会のルール内では勝てないので、しばしば非合法な手段を選ばざるを得なくなるでしょうから)か、失敗します。 そこで、私は、今までの恨みが小さく見えるほどの勝利を目指して、そのためだけに生きています。 ですが、そのことがまさに、壁になって私の行く先を阻むのです。 私はもう、ほとんど何事にも快楽を見出しません。 何を食べても同じ味しかしないし、異性の体に触れてもクッションと大差ありません。 朝の爽やかな空気も、ドブ川の腐臭も一緒です。 映画や小説を目にしても、感動して涙が落ちることさえないのです。 つまり、共感する力が、あまりありません。 ほとんど全てが色あせた、退屈なものに思えるのです。 しかし、一般的な仕事での成功を目指すのであれば、他人の協力は、どんな形であれ、必要になってきます。 勿論、仕事に必要な業務を外部に発注する場合などには、可能な限り、相手の条件や利益、作業環境に配慮します。 好ましい結果が出たら、自分より先に、仲間に配分しようとさえ思います。 それでも、ただただ私が魅力的ではないために、しばしば致命的な損失を蒙ることがあるのです。 私が魅力的でないのは、わかると思います。 幸せそうな顔をしていないのですから。 怒りに囚われているのは自覚していますが、だからといって、この恨みを忘れるくらいなら、死んだほうがマシです。 勝利や成功を手にすれば、私にも余裕が出てくるかもしれません。 過去の恨みも、その時の私から見れば、小さなことになるからです。 でも、今は勝利していません。 だから、恨みは忘れられません。 それでも、ある程度は人の力は借りなければいけません。 ……もう、私は、あまり待てません。 二十年前に、あることがきっかけで、心と一緒に体を病みました。 一日中、ある種の苦痛が体を襲います。安眠さえできません。 生きているだけで幸せとは、誰が言ったのでしょうか。 生きれば必ず苦痛という代金を支払わねばならないのに。 あと三十年後に勝利できると言われても、そこまで待てません。 今、ここで勝てなければ、また惨めさが積みあがるのです。 それくらいなら、せめて、一人でも多くの敵を血に染めて、自分も死んだほうがいい……そう思います。 苦痛を感じるたび、毎日この思いつめた気持ちが甦ってきます。 怒りを思い出すと、指先が震えだしさえします……目の前に、私を脅かす敵がいなくても、です。声もかすれ、言葉も思いつかなくなります。 それでも、一度納得できる成功を収めれば、惨めさを拭うことができれば、安眠できるようになる気がするのです。 しかしながら、勝利の最大の障害が、私自身の目的、憎しみのようなのです。 どこかで心に鍵がかかっていて…… 例えば、昔は好きだった音楽も、今では人前で演奏することはありません。 私に対して無関心だったり、敵意を抱いている連中に、私の真心を届けてどうしようというのでしょうか。 とにかく、どうあっても、自分と他人とを問わず、許せないものは許せないのです。 しかし、幸せになる人というのは、普通は、心から他人の幸せを願える人なのでしょう。 私の限られた個人の力の範囲内で、 ・怒りから解き放たれる方法があるのならそれを ・なければ、仕事に差し支えないよう、表面的にでも好ましい関係を築く手段を 教えてください。 (仕事仕事、と言っていますが、少なくとも、社会で仕事をする限り、善意に基づいて、社会に好ましいものを提供することで利益を得よう、というスタンスで動くつもりでいます。儲かるなら何でもいい、などとは、あまり考えていません) でも、そんなものはない、というのなら、それはそれでおっしゃっていただいて結構です。 その時は、このまま成功を目指して、それでダメなら、あとは流せるだけの血を流して、自分も死んでいくだけのことです……。 よろしくお願い致します。

  • 生活保護この場合…どうなるの?

    5月より生活保護を受給させて頂いています。 当時は夫からの養育費、生活費もなく、オークションで高く売れそうな物を買い、それを売るといった形でお金をつないでいました。 しかし長くは続くわけもなく、職業基金訓練の相談をしに区役所に行ったところ、生活保護を進めて頂いて、受給が決まりました。 夫は娘や私を放置していたのに、5月に3万円の振込みがあったことが分かりました。 郵便局のカードのみでオークションの膨大なやりとりできちんと管理も把握もできていない私自身に今はとても反省していますが、その5月以降はひと月に一度夫から一度連絡があり、入金があるようになりました。 もともと、暴力や言葉の暴力、お金をくれないとの理由で別居中でした。離婚に向けて、引き返したくない、怖い気持ちが強く、封筒でお金を返送していました。 受け取らなかったのでケースワーカーさんに話してはいませんでした。 これは受け取り、申請すべきだったのでしょうか? また、生活の厳しい両親が、震災を心配し、何度かお金を急に振込みしてきたことがありました。生活保護の話しを伝えると涙を流して申し訳ないと言いそのお金も返送しました。 事実は賞与となるものはないのですが、これをケースワーカーさんに話したらどうなってしまうのかが不安で仕方ないです。 受給を受けてから、以前オークションをしていた際に支払いを待ってもらっていた方に入金をし、品物を受け取ったことは何度かありますが、貴金属や大きなものではなく、衣類品などですが、ある程度の金額なので、これも財産や収入になるのかと思いましたが調べても同じ質問がなくどうしようもない気持ちでいっぱいです。 不安です。 ケースワーカーさんが銀行の通帳の詳細全てを見れるということなのですが、返送は普通の手紙封筒ですし返金した証拠などを証明することができません。 このような場合、相手に電話がいくのでしょうか?どのようになるのか不安で心配で吐き気がします。ご回答どうぞ宜しくお願い致します。

  • 最悪な人間から変わる事はできるのでしょうか

    私は今年新卒で社会人になったばかりのものです。 営業として配属されて2ヶ月ほど営業をやりました。 そして自分の能力のなさに絶望し、うつ病となってしまい会社を休んでいます。 休んでいる間、自分という人間を見つめ直していたら出口が見えなくなってしまいました。 現実から逃げたいと感じている毎日です。 以下に自分という人間を思う通りに書いてみました。 ・集中力がない。 ・自分の気持ちを相手に伝える事ができない。(上辺だけの会話ばかりしてしまうため) ・全ての物事を自分の損得に当てはめて考えてしまう。 ・何かをやりきった事がない。 ・これと言った趣味や特技がなく、浅く広く手を出しては中途半端に終わる事ばかり。 ・学歴もない ・人間関係も、今までは社交的であったと感じていたが、実際は上辺だけの人間だと気づいた。 ・やりたい事、夢もない。 すみません。全く文章能力もなく、意味もわからないと思います。 正直最悪の人間だなと思っています。 上に述べた事を「自分もそうだったけど、このように変わった」という方いらっしゃいますでしょうか。 ぜひアドバイスをいただきたいです。 そうでない方もアドバイスをいただけたら幸いです。 初質問のため、わかりにくい点が多々あると思われます。 ぜひご指摘いただけたら、補足して行きたいと思います。 長文失礼いたしました。 よろしくお願い致します。

  • 憎悪との付き合い方

    理解はされないだろうと思いつつ、試みに意見を求めてみます。 悩み相談をする人のほとんどは、 「つらい、さみしい、死にたい」 というような文脈の方が多いようにお見受けしますが、私は、そういう形で悩んでいるのではありません。 「怒り」を忘れられないのです。 確かに、気分が落ち込むこともあり、自尊心も低く、また長い間、不要な人間として扱われてきたこともあり、何事もうまくいかない現実に悲観することもありますが、それは私にとっては、あまり大きなことではありません。 「やられたのに、やり返していない」 という無数の現実が、私の中で、納得できないのです。 他はもう、どうでもいいのです。 よく「恨みなんか、抱えてるだけ損だよ」という人がいます。 やれるわけもないですが、そんな言葉を聞くと、鉄拳をお見舞いしたくなります。 この痛み、屈辱感をたっぷり味わってから、同じ台詞を私に言ってみろ。 今すぐ私の憎しみの全てを浴びせてやる、と。 勿論、そんなことを言う人は、私の切迫した気持ちなど、これっぽっちも理解していないので、説明しても無駄なことが多いのですが……。 「相手は、他人を傷つけることの重大性に気付かない愚者だ、哀れんでやれ」 「許す、という行為ほど、尊いものはありません」 現実のすり替えだ、としか思えません。 相手が愚者でも賢者でも、手を上げれば私が傷つくことなら知っています。 それが人間の行為である以上、過失ではなく、故意なのです。 そして、私が許そうが許すまいが、私の手が敵の首にかからない限り、私の敵はそんなことは、まったく頓着しないのです。 そもそも、相手を罰する力を伴わずに「許す」のに、何の意味があるのでしょう? 「お前だって過ちを犯したことがあるはずだ」 否定はしません。 でも、もし私から不当に害を受けたというのなら、訴えればいい。 私がその事実に納得したら、自分から謝罪に赴くでしょう。 事実があるのに私が謝罪しなければ、報復を受けるかもしれません。 それは好ましくないですが、当然のこととも理解しています。 「神を信じれば」 宗教を否定する気はありませんが…… 人間から受けた害悪で積もり積もった憎しみを、神に後始末させるのですか? それしかやり方はないのですか? 「感じ方次第だよ」 では、やっぱり鉄拳を見舞ってあげましょう。 あなたの体に普通の神経が通っている限り、感じるのは苦痛以外にありません。 私が息切れするまで殴ってあげますから、どう感じたかを教えてください。 「愛する人がいれば」 いい考えです。 ただ、憎悪の奴隷を愛する人がいるでしょうか? 私のほうでは、心の中は別のものでいっぱいなので、人を愛する気持ちには、鍵がかかっていて、外に出てきません。 泥を浴びせる相手に、真水を注ぐ天使が、どこにいるのでしょうか。 「君、もしかして不幸なのが好きなんじゃないの?」 どこの成功哲学の本を読み漁ってきたか知りませんが、痛みを知らないようなので、やっぱり味わってからコメント願います。 死ぬ寸前まで痛めつけて、大事なものも全て奪って、それでも恨みを思わず、明るい未来しか考えないというのなら、納得しますが。 ……といった具合です。 よくよく考えて、胸の中に渦巻く怒りを納めるのに、三つの手段を思いつきました。 相手からの謝罪を受け入れるか、 相手からの被害が気にならないほど強くなるか、 相手の血を流すか、です。 しかし、謝罪は相手の意思が伴ってこそ意味があります。 そして多分、自発的な謝罪は、永遠にやってこないでしょう。 力で屈服させて謝罪の言葉を引き出すのは、復讐の一種に過ぎません。 そして、復讐は、社会の許す形で行おうとするならば、相手以上の十分に大きな力を持たなければ、犠牲を伴う(例えば、社会のルール内では勝てないので、しばしば非合法な手段を選ばざるを得なくなるでしょうから)か、失敗します。 そこで、私は、今までの恨みが小さく見えるほどの勝利を目指して、そのためだけに生きています。 ですが、そのことがまさに、壁になって私の行く先を阻むのです。 私はもう、ほとんど何事にも快楽を見出しません。 何を食べても同じ味しかしないし、異性の体に触れてもクッションと大差ありません。 朝の爽やかな空気も、ドブ川の腐臭も一緒です。 映画や小説を目にしても、感動して涙が落ちることさえないのです。 つまり、共感する力が、あまりありません。 ほとんど全てが色あせた、退屈なものに思えるのです。 しかし、一般的な仕事での成功を目指すのであれば、他人の協力は、どんな形であれ、必要になってきます。 勿論、仕事に必要な業務を外部に発注する場合などには、可能な限り、相手の条件や利益、作業環境に配慮します。 好ましい結果が出たら、自分より先に、仲間に配分しようとさえ思います。 それでも、ただただ私が魅力的ではないために、しばしば致命的な損失を蒙ることがあるのです。 私が魅力的でないのは、わかると思います。 幸せそうな顔をしていないのですから。 怒りに囚われているのは自覚していますが、だからといって、この恨みを忘れるくらいなら、死んだほうがマシです。 勝利や成功を手にすれば、私にも余裕が出てくるかもしれません。 過去の恨みも、その時の私から見れば、小さなことになるからです。 でも、今は勝利していません。 だから、恨みは忘れられません。 それでも、ある程度は人の力は借りなければいけません。 ……もう、私は、あまり待てません。 二十年前に、あることがきっかけで、心と一緒に体を病みました。 一日中、ある種の苦痛が体を襲います。安眠さえできません。 生きているだけで幸せとは、誰が言ったのでしょうか。 生きれば必ず苦痛という代金を支払わねばならないのに。 あと三十年後に勝利できると言われても、そこまで待てません。 今、ここで勝てなければ、また惨めさが積みあがるのです。 それくらいなら、せめて、一人でも多くの敵を血に染めて、自分も死んだほうがいい……そう思います。 苦痛を感じるたび、毎日この思いつめた気持ちが甦ってきます。 怒りを思い出すと、指先が震えだしさえします……目の前に、私を脅かす敵がいなくても、です。声もかすれ、言葉も思いつかなくなります。 それでも、一度納得できる成功を収めれば、惨めさを拭うことができれば、安眠できるようになる気がするのです。 しかしながら、勝利の最大の障害が、私自身の目的、憎しみのようなのです。 どこかで心に鍵がかかっていて…… 例えば、昔は好きだった音楽も、今では人前で演奏することはありません。 私に対して無関心だったり、敵意を抱いている連中に、私の真心を届けてどうしようというのでしょうか。 とにかく、どうあっても、自分と他人とを問わず、許せないものは許せないのです。 しかし、幸せになる人というのは、普通は、心から他人の幸せを願える人なのでしょう。 私の限られた個人の力の範囲内で、 ・怒りから解き放たれる方法があるのならそれを ・なければ、仕事に差し支えないよう、表面的にでも好ましい関係を築く手段を 教えてください。 (仕事仕事、と言っていますが、少なくとも、社会で仕事をする限り、善意に基づいて、社会に好ましいものを提供することで利益を得よう、というスタンスで動くつもりでいます。儲かるなら何でもいい、などとは、あまり考えていません) でも、そんなものはない、というのなら、それはそれでおっしゃっていただいて結構です。 その時は、このまま成功を目指して、それでダメなら、あとは流せるだけの血を流して、自分も死んでいくだけのことです……。 よろしくお願い致します。