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信頼と依存の違い
- 信頼することと依存することの違いについて分からなくなっています。人を信頼するとは、その人を心から信じることであり、自分の弱みを打ち明けることなども含まれますが、逆に依存することにならないか心配です。
- 以前は親友と共に行動し、何でも話せる関係でしたが、年齢や環境の変化により、距離が生まれました。私は距離や時間を気にせずに関係を維持しようとしていましたが、それが依存になっていたかもしれません。現在は新しい人との関係でも適度な距離感を保っていますが、信じられる範囲が分からなくなっています。
- 信じることと依存することの違いについて考えています。適度な距離感の関係も良いと言われますが、私にとっては相手を信じられないための距離だと感じてしまいます。自分は欠陥人間のように感じますが、人を信じるとはどのような感じなのでしょうか?依存との違いは何でしょうか?
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人に依存するということは、 ・その人が自分の一部 その人が欠けると自分が成り立たなくなる 例として…だめ男にはまる女 だめ男は世話や尻拭いをしてくれる女を求め、 それにはまる女は自分がいないと生きていけない男を求める ・自分の思い通りに行くことが前提 依存相手に「○○をしてくれる人」という役割を無意識に与えているので、 その役割を果たしてくれない場合に自分の中で納得できなくなる ・依存相手は大体一人だけ その人にべったりで、その人がいれば他は特に必要ないという状態なので、 いざその人がいなくなると不安になり、その人を取り戻そうと必死になるか 新しい依存相手を求めて彷徨ってしまう だと思います 一方、人を信頼するということは、 ・自分と相手はお互い独立している ・万が一期待した結果にならなくても許せる かなと思います
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- bekky1
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自分の弱音を吐いて理解を示されると「自分を受け入れてもらえたんだ」と思います。 自分を受け入れてもらえた安心感、信頼感につながります。 相手も同じような事を相談してきたら一生懸命に話を聞いたり理解しようとするでしょう。 そして相手も同様に安心感、信頼感を感じれば関係が深まる最初の一歩の予感がするのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ とてもいやみな書き方をあえてしますが、この文章の意味するところは、 互いに互いの傷をなめあう関係が居心地がいいといっているにすぎないのでは? さらに言うなら、傷をさらさない人は、信頼できないと言うことを書いている。 なぜなら、互いの「傷」と担保としないと最初の一歩にならないと、言明しているから。 【その人の気持ちを受け入れて理解することは依存ではないですよね。】 アナタの理解とはどういう意味でしょう? 共感を覚える? 知るということと、理解するということは別ですし、共感することはモット違います。 気持ちを受け入れるというのは、すなわち共感を要求するものなのでしょうか? 【ただ、そういう関係性が出来上がると例えば「仕事で嫌なことがあった」「悩み事がある」から 相談しようとなった場合に、他の人に相談するとキツイ事を言われて否定されてしまうのに その人からは否定されず肯定的な意見を貰える場合(甘やかしではなく)きっと、この人は自分の 理解者だと思ってしまうのではないかと。】 その場にいて、能力も、視点も違います。 あえて、否定的はことを言う人を避けたいというのもわかりやすいですが、 肯定的だけ、言ってもらうには、「相談」の意味がないでしょう? それはそれで、「まったくアナタのいうとおり」って、アナタの言うことだけをトレースするだけのことで 自身の考察は? 相手に事実として知らしめる、いわば、新聞のニュースを読んで、どのように思うかも人それぞれです。 【そうやって思う事は信頼関係の延長なのか、単なる依存なのかそこが疑問なのです。】 依存、以前に、はっきりと、相手を選別してますから、甘えです。 アナタを、トレースできる人だけが「信頼」だから。 【世の中には誤解されやすい人もいると思うので、理解されにくい人もいる人が唯一の理解者を得た時の気持ちは依存的な感情になるのでしょうか?】 新聞の記事・情報・説明は【記事】です。 ソコに作為(誰かを悪く、感情を込めて、自分のスタンスに有利になどなど)、をこめて、共感=理解をすることは 人として良くあることです。 しかし、それは、信頼ではなく、依存であり、そのようないわば、でっち上げに対して、共感することを理解というなら 最初から、距離は詰まってません。 【「親友だよね」と言っていたのに、距離を置かれる。 今、新しく仲良くなっても何処まで踏み込んでいいか分からないので、適度な距離感という付き合い をしてます。】 踏み込むことを許されるあるいは、踏み込むことを条件としての「親友」なら、それは違うとはっきり言えるでしょう。 「踏み込ませる」ことは自分が許容する側ですから、アナタが親友に対して、それを許しても、 あなたが「親友に対して、踏み込むことを権利とする」ことはできません。 それは、互いに、【自国領土】の意味が違うからです。 アナタは、自分が受け入れたことは相手に対して、同じようにすることを当然・権利として錯誤している。 だから距離感を感じるのです。 相手のすることを期待する時点で、依存です。 アナタのなしたように、相手がする、それを当然とする・・・だから、依存。 どちらかというと、私は、させてもらった、アナタはアナタの自由でいいのよ、私はそれを受け入れる。 だから、アナタは親友、あるがままの私を受け入れたアナタ、あるがままのあなたを受け入れる私。 しかし、現象としては同じことを双方がするわけではない。 ・・・してくれない、ということに苦情・不足を覚えるというのは信頼ではないです、依存です。
補足
傷の舐めあいが心地良いと言う風にとれますか? 私も傷の舐めあいの関係は虚しいと思います。 傷をさらさない人信用出来ないと言う事を書いていますか? 私はそんな高慢なことを明言して書き込んでいましたか。 最初の一歩になる予感(なるかもしれないし、ならないかもしれない)というつもりだったんですが。 補足に対して色々と指摘してもらいました。 とにかく「依存」とのことなので又、考えてみます。
- beck_ham
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No5です。 補足説明ありがとうございました。 そこでちょっと回答に不備があったようなのでもう少し。 「一方通行の思い」についてですが、自分が相手を信用している のに相手からは信用されていない状態のことではありません。 そりゃちょっと寂しいですよ。 私の考える信頼関係とは、「AはBを信用している」と同時に 「BはAを信用している」状態です。相互に一方通行なわけです。 ここで大事なのは、お互いに相手に答えを要求していないことです。 サッカー漫画の翼くんと岬くんの関係のようなものです。 人生に於いて、いろんな人と接する機会があると思いますが、 その中でもごく一部の人としか真の信頼関係は築けないのでは ないでしょうか。もしかしたら一生巡り会わない可能性だって あります。会っていても、気づかずに素通りしている場合も あるでしょう。 ですから、その様な関係が持てたときには感謝の一言です。 そのくらい貴重な関係だと思うのです。 もしも、その信頼関係が一時のものでその後以前の様な信頼関係 が構築出来なくなった場合、やはり寂しい思いは否めないでしょうが、 「もう誰も信じない」ではなく「今までありがとう」と思ったほうが その後の人付き合いでも信頼関係を築きやすいのではないでしょうか。 なんか「依存」の話がどっかいっちゃっててすみません(^^;)
お礼
翼くんと岬くんの例、とても理解しやすかったです。 「もう誰も信じない」ではなく「今までありがとう」と思ったほうが。。。 そうですね、そういう気持ちが一番大事なんですね。 信頼することについて回答して頂いたので有難かったです。
- beck_ham
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なんでも話せる関係全てが信頼に由来するわけではありません。 そんなに話をしていなくとも、相手を信じることはできます。 先の回答者の方も仰っていますが、相手の反応が自分の期待と 違う場合に不満を感じるようではどっぷり依存心に浸かっていますね。 自分の弱みを見せる見せないなどは、信頼とは関係ありません。 「信頼」とは、精神的に各々が「己」を確立している状態で、 互いに相手を尊重していなければ成り立たないと思います。 なんでも話せていつでも一緒が悪いとは言いませんが、それは 2人の関係の「状況」であって「状態」ではないのでは。 目に見える表層部分に心をとらわれていると、核心に迫ることは 出来ません。 信頼関係というものは、「自分を分かってもらおう」とするのでは なく、「相手のことをわかろう」とするところから始まるものでは ないでしょうか。 その結果、相手のことが尊重出来たならば相手を「信頼」するのも難しく はないでしょう。 所詮その思いは一方通行ですが、相手を尊重することが出来れば相手の 反応が期待とは違っても不満を覚えないでしょう。 それこそが「信頼」への第一歩です。 なぜなら、相手の反応で自分が揺らぐことがないからです。 先ずは、揺るがない自分を確立してからでないとなかなか「信頼」 はついてきませんよ。
補足
なんでも話せる関係全てが信頼に由来するわけではありません。 そんなに話をしていなくとも、相手を信じることはできます。 それを読んで少し安心しました。 なんでも話せる=必要なコミュニケーションと思っていたので。 一方通行の思いですか?私は不満というか寂しいですね、とても。 それは自分は相手を信頼しているけれど相手からは信頼されていなくても平気と言うことですよね。 それを気にすることが依存に繋がっているのか? 「相手をわかろうとする」きっと私は「わかろうとする」のではなくて長い関係性の中で「わかった」と 錯覚していたんだと思います。思い上がり? 「わかった」ではその時点でお終いです。 でも「わかろうとする」は永続です。 人を信用できない、信用するのが怖いと思ったのは「理解したのに」が根本にあるような気がします。 「理解したのに離れていく」「理解したのに疎遠になる」人は変わるものだから「わかろうとする」気持ちが必要なのかな。
- bekky1
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【人を信じるってどういう感じですか?依存する違いとは何ですか?】 あなたの【信じる】というのは、対自分に対しての相手の反応を予測するに、自分にとっての都合のいいことを「期待」です。 予測ではではなく、予測=期待になっている。 そして、期待を裏切らない、裏切らないでほしい、ということで、だから、【依存】と重なる。 信じるのが難しいのは、相手が信頼するに不足・・・ではなく、自分が期待・依存するからです。 「アア、あの人は、そういう人だよね」と、いいことでも、悪いことでも、自分にとって、損であっても、得であっても、 読みを間違えても、納得できる人・・・が、私は「信用できる人」だと、考えてます。 依存は、期待するだけで、自分のほうでの読みに対して、責任を担保してないでしょう? 信用取引ってあるでしょう? まさに、「信用」なんですね、うまくいかないときもあるし、自分のほうでも、ちゃんと、担保する、後で責務を果たすという。 依存=信用というlことでもありえます。 ただし、これは、相手を責めない、結果に対しても、それは、自分の責任であるという考え方です。 マ、普通は、責めるでしょう? 「どうして、こんなことをしたの、あなたを信じていたのに、どうしてくれるの?」みたいなですが。 これは、依存。 しかし、「あなたを信頼して、信じてのこの結果だから、仕方ないね」は、依存ではなく、自分で責任を取る、信用。 親密な関係で、距離も、時間も近い人と、期待通りに行動しないからと、信用問題にするのは、はっきりと、それは依存だといえる。 所詮、人の時間の24時間を拘束するように、「期待」し続けるのは、無理です。 だから、 【この人には自分の弱みを打ち明けられるとか。でも、自分の弱みを見せて理解して もらえばもらう程、逆に依存してしまわないですか?】 話はしても、あなたの弱み?に対して、相手がずっと「拘束」されていると考えるのはまた別です。 弱みを話して、、相手が理解してくれたと思う(=信頼だけ)のこと。 それでどうにかなると考えることは、そこからは依存です。 期待するでしょう?あなたが、勝手に、自分にとっての都合のいいことを・・・ですが。 間違えやすいのは、話すことで、相手が行動しなくても、自分が気が楽になるので、 まさに、愚痴のはけ口のようなのを「親友」だと思い込むことです。 こちらでも、グチグチ言われて、暗くなるとか、ご相談ごとも多い。 次も、間違いなく、聞いてくれる・・・と思うことはすでに依存です。
補足
期待することが依存につながると言うことですね。 でも、今は相手にそう意味での期待はしません。 自分の弱音を吐いて理解を示されると「自分を受け入れてもらえたんだ」と思います。 自分を受け入れてもらえた安心感、信頼感につながります。 相手も同じような事を相談してきたら一生懸命に話を聞いたり理解しようとするでしょう。 そして相手も同様に安心感、信頼感を感じれば関係が深まる最初の一歩の予感がするのです。 その人の気持ちを受け入れて理解することは依存ではないですよね。 ただ、そういう関係性が出来上がると例えば「仕事で嫌なことがあった」「悩み事がある」から 相談しようとなった場合に、他の人に相談するとキツイ事を言われて否定されてしまうのに その人からは否定されず肯定的な意見を貰える場合(甘やかしではなく)きっと、この人は自分の 理解者だと思ってしまうのではないかと。そうやって思う事は信頼関係の延長なのか、単なる依存なのかそこが疑問なのです。 世の中には誤解されやすい人もいると思うので、理解されにくい人もいる人が唯一の理解者を得た時の気持ちは依存的な感情になるのでしょうか?
- LOTUS18
- ベストアンサー率31% (1807/5783)
二人の人が立っているのを想像してみてください。 信頼関係は 少し離れて立ち、重心は自分の中心にあります。 強い風が吹いたりして揺らいだとき 隣の人は少しだけ手を伸ばして 片足浮いた自分の身体の重心を戻す手助けをしてくれます。 もちろん、自分自身で戻ることも可能です。 その際、隣の人はそれを見守ってくれています。 重心を取るのは自分です。 時々手を貸してもらうとしても。 依存関係は 隣の人にずっと寄りかかっている状態で 自分に重心はなく、相手の肩にすがり付いている状態です。 隣の人は一人分余計に重荷を背負っている感じです。 共依存の関係だとそれが お互いより掛かり合って、重心が例えば お互いの片足ずつになります。 どちらかがバランスを崩すと、途端に倒れてしまいます。 人は孤独なものです。 ただ、その集まりが友人関係であったり 社会であったりします。 何事もバランスが大切なので 「信頼」という目に見えないものにすがって 自分のバランスを崩しても誰も責任はとってくれないので 何をするにも自己判断自己責任なのです。 簡単に欠陥人間と括るのはすっきりしますが それでは答えになりません。 考えるのを放棄しないようにしましょう。 >でも、自分の弱みを見せて理解して もらえばもらう程、逆に依存してしまわないですか? 誰かに依存されてみれば、 それがどれだけ重いのかわかるんじゃないですかね。 他人にも感情があり、浮き沈みもあります。 いつでもどこでも同じように受け入れ態勢が整っている とは限りません。 相手も同じ、人間なのです。 苦しいと思うことも、めんどくさいと思うこともあるのです。 それを察して、ある程度で引くのも 相手に対する配慮ではないでしょうか。 信頼したからすべてOKということではありません。
お礼
詳しく説明して頂きありがとうございました。 相手への配慮もう一度意識してみたいと思います。
- gyugyun
- ベストアンサー率14% (7/47)
あなたは相手と裏切らない人間関係が作りたかったり、相手に頼ろうとしているだけで、 ただ見返りを求めているだけじゃないでしょうか? 文章の端々から「私は善良なのに相手が応えてくれない」という不満が伝わってきてます。 根っこが不安な人なんでしょうね。 親友だったら、言葉で「親友だよね?」って確認したりしなくてもいいはずです。 「私を見捨てないで!」ってすがりつく人よりも、 「相手に裏切られても平気」 「あなたが私を嫌っても、私はあなたを良いと思うよ」 心の中でこんな風に思ってくれている人の方が強いし、一緒にいて気が楽ですね。
補足
不満は確かにあるかもしれません。 ただ善良なのに・・とは思っていないです。そんな良い人間じゃない。 根っこが不安定も当たってます。 相手に裏切られて平気な人って「裏切られて寂しいし傷つくけれど許せる」と言う事でしょうか? もし単純に気にしないだけなら逆に寂しい気がしました。 期待してばかりは重いかもしれないけれど、まったく期待しないのも味気ない気がして。 ん~ でも書いていて思いましたがそれが依存なんでしょうか。
お礼
とてもシンプルに回答して頂きありがとうございます。 相手に期待し寄りかかってばかりでは駄目ですね。