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ふっきれません。
幸せになろうと思えばどうにでもなるのに 過去や人や憎しみや悩みに執着して なかなかふっきれません。 私が幸せになってしまったら 酷い仕打ちをした奴らに負ける様な気がするのです。 また打算的ですが、心配してくれている人との縁も切れるような気がします。 その人(達)は未だに被害者面してます…私だって被害者です。 じゃあ不幸になれば、とも思いますが もうつらいのはうんざりです。 何かいい考え方など無いでしょうか…
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とりあえず、幸せだとか不幸だとか決めつけないでその中間を目指したら如何でしょうか。 人生には幸せと不幸の二種類があるのではなく、幸せと思っても良いし、不幸と思っても良いという自由があるのだと言う風に捉えられたらどうでしょうか。勿論、どちらでもないという悟りの境地に達するというのもひとつの考え方だと思います。 でも、兎に角、あまり拘らないで過去ばかり思い出さないことが肝心ですね。 <心配してくれている人との縁も切れるような気がします。 私の意見ならこれは逆ですね。人を恨んだり負の部分を抱えた人間というのはまあ、皆、避けようとしますね。人の不幸は蜜の味という思考の人なら、縁が切れても幸いではありませんか。 最後にひとこと。酷い仕打ちをした人にこれから負けることはありません。人に酷いことをした段階でその人達は負けています。 今は心が揺れて辛い思い出に揺さぶられている時かもしれません。 それなら、暫くは揺られてみることではないかと私は思います。負の感情から無理に逃れる必要はないと思います。 心境の変化は必ず時間が解決してくれるものだと思うからです。
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- tomban
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人生ってのは、生きてるうちに何度も、何千何万回ものボールを何かと投げあう「キャッチボール」です。 投げた球が還ってこないときもあります。 悪球が還ってきて怪我をするときも有ります。 上手く投げろだの、届かないだの、勝手なことを相手に言われるときもあります。 でも、それでも投げ続けるのです。 投げ続けなきゃいけないのです。 辛いと思っていても、時に還ってくる「ナイスボール」を心待ちにしながら。 相手から「ナイスボール!」と言われるときを夢見ながら。 だから投げることに臆病にならないで。 届かないと思えば、腕が縮むもの。 上手く投げろなんて、言われなくたってわかってるんだ!と叫べば良い。 相手だって同じ。 ずっとボールを投げあう仲間なんです…私たち地球人は。 届かないと思うなら、一歩前に出よう。 ボールがぶつかるのは恐いけど、あざなんてそのうちに消えてしまうよ。 人と人は簡単には理解しあえない…だから単純な方法でコンタクトを取り合ってきた。 それを恐れる必要なんか無いんだ。 当たり前のことだから。 まずは腕を振ってから、ボールを投げ始めよう。 当たり前のことを始めようよ。
辛いのはうんざりなんでしょ?幸せになろうと思えば、どうにでもなるんでしょ?なら簡単!!幸せになりましょう。あれこれ考えず幸せになりましょう。